117 誠意と涙
授業を終え、珍しくレオ以外との予定が入っている私である。
シルビアに誘われて、学院の食堂でケーキを食べる約束をしていたのだ。甘いケーキに期待を膨らませて校舎から出て来た私を待ち構えている人がいた。
「ナタリアお嬢様! お話があります!」
真剣な表情をしたエネル先生だ。
まっすぐに私を見つめ、決意の籠った目を向けてくる。
エネル先生の事を良く知る私には、どうせまた突拍子もない思考回路で、斜め上の事でもいいだすんじゃないかと想像出来る。
でも、他の生徒は違う。このエネル先生の雰囲気は、今にも愛の告白をしそうな思い詰めたものである。
その姿に思わずドン引きしてしまう。それは、もちろん他の生徒も同じようで、エネル先生を迂回して、遠巻きに眺めながら通り過ぎていく。
「あの、先生。ここでは何ですので……」
エネル先生もこの学院の教師。そして、私も一応王太子の婚約者。人目を気にしようよ。当たり前だが、本人の考えとは別の誤解を受けそうだ。
私とアシリカとソージュと三人でエネル先生を隠す様に周囲を囲みひとまず、人の多い校舎前から遠ざかる。
校舎から離れ、人が少なくなった所で立ち止まる。
「先生、一体どうしたんですか?」
まあ、この様子から見て碌な事じゃないのは想像できるけどね。
「僕はナタリアお嬢様の家庭教師でした」
「それを改めて言われてもね」
言われなくて分かっている。それにしても、今回は一体何を言い出すのだろうか。
「そのお嬢様の成績が芳しくないと耳にしました」
うう。いきなりそれですか。こっちの耳が痛くなってくるよ。これでも、最近は少し上向いてきているんだよ。
「それは、家庭教師であった私にも責任の一端があります」
まあね。脱線するわ、恋愛の手助けに忙しいわだったからね。あながち間違ってはいないかな。
「そこで、です!」
大きく手を突き上げるエネル先生。
「ね、先生、落ち着こうよ」
そんな私の言葉も耳に入っていないようで、演説じみた話しぶりが続く。
「夏休み前の試験で優れた成績を修める為にも、私が特訓します!」
えっと、何? ようするに私の成績を上げようって事よね。
「それが、私の誠意です!」
誠意? 何だそりゃ?
元教え子の私を気に掛けてくれているのは、ありがたい。でも、何か変だ。エネル先生の事だ。何かに影響を受けて、とんでもない方向に走っている可能性は十分に考えられる。
「先生。何でそんな事急に言い出したの?」
私の問いに、アシリカとソージュも頷く。どうも私と同じ考えのようだ。
「私も含めて三人が教師として新規採用されたのですが、夏までは仮採用みたいなものなのです。それで、誠意を見せないとダメなんです」
うーん。いまいち要領を得ない説明ね。
「でもさ、そんなに簡単に採用が取り消されるものなの?」
「詳しくは知りませんが、そんな事ないと思いますけどね」
アシリカも首を捻る。
「もしかして、ちゃんと授業出来ていないデスカ?」
ソージュ、それは言い過ぎよ。でも、分かるけどね。だって、エネル先生って、教師としての威厳なさそうだしさ。
「授業はちゃんとしてますよ。お嬢様たちにもちゃんとしていたでしょ」
いや、エネル先生の授業を受けていた身だからこそ感じる不安なのだけれどもね。
「でも、教務主任のスティード先生に言われたんですよ。夏までに三人のうち、誰か一人が学院から去るかもしれないって」
悲壮な顔つきのエネル先生である。
「それって、先輩の教師としての励ましとかではないのですか?」
アシリカが慰めるように言う。
「いえ。本当ですよ。だって、そんな目に遭いたくなければ、誠意を見せろって言われましたし」
その誠意って、まさか……。
アシリカと顔を見合わせる。おそらく私も彼女と同じ様に難しい顔をしているに違いない。
「だから僕は決めたんです。家庭教師をしていたナタリアお嬢様の成績を上げる誠意を見せようって」
多分、それ、誠意違いだと思うよ。
「先生って素直よね」
私の呟きにアシリカとソージュも呆れ顔で頷く。
「素直さじゃなくて、誠意を見て欲しいんですが」
そんな私たちに抗議するように口を尖らすエネル先生である。
うん。馬鹿が頭に付くくらいの素直さだよ。
「でも、何かきな臭い話よね……」
教務主任のスティードとやらの事は知らないが、言っている誠意とは、早い話袖の下でしょ。
学院の教師なのに、腐ってるわね。
「これは放っておけないかもしれないわね」
「そうですね。ですが、お嬢様……」
これは調べないとと考える私にアシリカが笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる。
「ちょうどいい機会です。エネル先生にみっちりと鍛え直して頂きましょう」
え? ちょっと、待って。これって、世直し案件じゃないの?
「試験も近いことです。分かりましたね」
有無を言わせないアシリカの声色だった。
エネル先生の特別講習が始まって三日。放課後になると校舎にある自習室を借りて、夕食まで勉強。何故かレオとシルビアも加わっている。
……私に教える側で。
レオはともかく、シルビアも勉強がこんなにも出来るなんて知らなかったよ。さては、こっそり勉強するタイプだったのね。ちなみにカレンさんは来ていない。一日目は来たのだが、エネル先生がカレンさんを目の前にして緊張してしまったからだ。今更緊張するなんて、あの二人どうなっているのかしらね。心配だわ。
一方、教務主任のスティードに関しては、拍子抜けである。と言うのも、教務主任の立場では他の教師をクビにする権限など持っていない事が分かったのである。レオが教えてくれたのだ。新人三人のうち、一人がクビって話の真偽は分からないけどね。
まあ、どさくさに紛れた小遣い稼ぎってとこかな。でも、今度副院長にでも、それとなく伝えて、怒られてもらおう。私が出ていき、懲らしめるより効果がありそうだしね。
「基礎はおおよそ理解されてきましたね」
算術の問題を解いた私にエネル先生が満足そうに頷く。
「しかし、殿下がこれほど教え方がうまいとは、驚きましたよ」
エネル先生が感心したようにレオを見ている。
何度もエネル先生の説明に横から補足の説明を加えてくれていた。教師であるエネル先生がうまく教えられないといけないのにさ。
「それにシルビア様も、ナタリアお嬢様のご性格をよく分かってらしゃる。的確にお嬢様が理解されていない箇所を見抜くなど、さすがカレンさんが側にいるだけはありますね」
あのさ、本来それはエネル先生の仕事だよね? それに、カレンさんが側にいるって、関係ないじゃないのよ。
ほら、レオとシルビアが微妙な笑顔で顔を引きつらせてるよ。
「さ、お嬢様。次の問題を」
またもや脱線しかけているエネル先生に代わり、アシリカが問題を指差す。
でも、ここ最近勉強が出来てきたような気がするな。この調子だと試験で、上位とは言わないが、そこそこの結果を残せそうだ。
ほら、この問題も難なく解けたしね。
「どう?」
エネル先生に答えを見せる。
「……おおっ。またもや正解ですよ。これは特訓の甲斐がありましたね。これで、僕の誠意が見せられます!」
エネル先生が破顔させ、何度も頷いている。
いや、その誠意、どうでもいいよ。スティードにそんな権限ないしね。私に特別講習を受けさす為にエネル先生に伝えないように言われているけど、そろそろ教えてあげてもいいよね。
「ねえ、先生。その誠意ですけどね」
「誠意がどうかしましたか?」
私の成長に嬉しそうにエネル先生が聞き返してくる。
「スティード先生には、教師を――」
「あっ!」
私の言葉を遮り、エネル先生が叫んだ。
「な、何?」
突然大きな声をあげるなんて、びっくりするじゃないのよ。
「忘れてました。そう、そのスティード先生に呼ばれていました」
慌てた様子で、エネル先生は時間を確認する。
「まだ間に合いますね。お嬢様。僕は行きますけど、さぼってはいけませんよ」
「分かってますよ」
どちらかというと、エネル先生の脱線の方が多いと思うけどさ。それに、この面子に囲まれてさぼれそうにないしね。
「じゃあ、皆さん。また明日もしっかり頑張りましょうね」
一番頑張って欲しいのはエネル先生だよ。きっと、この場にいる皆の共通して考えている事だと思う。
「ま、エネル先生らしいかな」
駆け足で出ていったエネル先生を見送りながら、苦笑する私に否定の意見はないようだ。皆が一様に頷いている。
しかしその翌日、エネル先生は姿を見せなかった。
エネル先生を最後に見てから五日。彼は自習室での特別講習だけでなく、授業にさえ、その顔を出さなかったのだ。
もちろん、私たちは必死でエネル先生を探した。
しかし、デドルにさえ、その行方を見つける事が出来ない状況だった。
「きっと、何かあったのよ」
どう考えてもそれしか考えられない。あれだけ就きたかったコウド学院の教職を手にして、突然姿を消すなど考えられない。それに、あのエネル先生の性格を考えても、無責任に放り出すような真似をする人じゃない。
そう考え始めると、やはり怪しいのはスティードだ。あの日、スティードに会う予定があると言っていた後から、エネル先生は行方不明なのだ。
「あのスティードって教務主任よ、間違いないわ」
「ですが……」
アシリカが口ごもる。
デドルに頼んでそのスティードの自宅も含め関係ありそうな場所を探してもらったが、エネル先生は見つからない。本人もいつもと変わらず授業をしているようだ。
だからこそ、アシリカもスティードが怪しいと決めつけられないのだ。
「一度、スティードに接触してみマスカ?」
おっ。ソージュ、それ、いいわね。
「そうね、一度そうしてみようかしらね」
ソージュの提案に頷く。勉強で分からない所があるんですって近づけば、教師である手前無碍にも出来ないはずだ。
「しかし、カレンさん大丈夫でしょうか……」
アシリカが心配そうに呟く。
「そうね」
エネル先生がいなくなり、やはり一番ショックを受けていたのがカレンさんだった。普段の気の強い彼女からは想像出来ないほどの狼狽ぶりで、寝食もまともに取れていないそうだ。そんな生活が五日続いたせいで、昨夜倒れたそうだ。
そんなカレンさんのお見舞いにシルビアの寮へと向かっていた。
シルビアは、私とは別の寮である。主に中級以上の貴族の子弟が暮らす寮である。
「エネル先生、カレンさんを悲しませて駄目デス」
ソージュも首を振る。
そうよね。でも、こんなになるなんて、やっぱりカレンさんにとって、エネル先生が心の底から大事な人なのね。
……どこが良かったのかな。いや、くっつけた私が言うのも何だけどさ。
もう、あんな素敵な女性を苦しめるなんてエネル先生らしくない。一体、どこにいるのよ!
「お嬢様、着きましたよ」
一人憤りを覚えている間にシルビアの部屋へと着く。
アシリカがノックをすると、少し疲れた表情のシルビアが顔を覗かせる。
「お姉さま。ようこそ来てくださいましたわ」
「シルビア……」
カレンさんの事が心配でシルビアも寝れてないのかな。
「どうぞ、お入りください」
部屋の中に招き入れられる。
上位の寮と比べると広さはないが、それでも学生の寮としては考えられないくらいの立派な部屋である。リビング、寝室に加えて侍女の部屋まで完備されている。
「あれ?」
よく見ると部屋にはシルビアが一人。カレンさんは今、自室で臥せっていると思うけど、他に侍女はいないのだろうか? 侍女は二人まで連れてきていいのは、家の差に関係ないはずだけど。
「ねえ。カレンさん以外の侍女は?」
そう言えば、シルビアがカレンさん以外の侍女と一緒にいるところを見た事がないな。
「私の連れてきている侍女はカレンだけですわ」
シルビア自らお茶の準備をしながら微笑む。疲れた顔が妖艶さを増しているようだ。
「え? そうなの?」
知らなかった。じゃあ、カレンさんがあの状態なら、すべて身の回りの事は、自分でしているのか。それだけじゃない。カレンさんの看病もか。だから、こんなにも疲れているのか。
「シルビア様、私たちが」
慌てた様子でアシリカとソージュがシルビアの準備を手伝いに駆け出す。
「いいですわよ。慣れていますし」
「しかし、フッガー家のご令嬢にお茶の準備をさせるなど……」
アシリカとソージュは困惑の表情だ。
そりゃそうだよな。彼女らからしたら、貴族の令嬢が動いているのをじっと見ているのも居心地が悪いだろうしな。
「大丈夫ですわよ。ほら、もう終わりましたし。それより、カレンの様子を見てやってくださいな」
三人分のお茶を手早く準備したシルビアが侍女の部屋へと目をやる。
「そうね。まずはカレンさんをお見舞いしましょうか」
その為に来たのだしね。
「では、こちらに……」
シルビアに続いてカレンさんの部屋の前に行く。
「カレン。お姉さま方がお見舞いに来られましたわ。入りますよ」
軽く扉をノックしてから、開ける。
「ナ、ナタリア様」
私を見て、驚きの表情をベッドから起き上がりながらカレンさんが見せる。
「何故、私のような者を見舞いに?」
ああ、そうか。よく考えたら、他家の侍女のお見舞いなんて普通はしないよね。だから驚いているのか。
「私がカレンさんを心配だからです。それがお見舞いに来た理由です」
「サンバルト公爵家のご令嬢に私などを見舞って頂くなど恐れ多い事にございます」
少し気弱になっているのかな。カレンさん、やたら恐縮しているな。
「人を心配するのに身分など関係ないわ。私はカレンさんが好きです。だから、心配するのです」
エネル先生の事が心配なのは、私も一緒だよ。だから元気だして。
「ありがとうございます。しかし、ナタリア様にまでご心配おかけして申し訳ございません……」
カレンさんは、小さな声で俯いてしまう。
「カレンさんは悪くないわよ」
「……いいえ」
私の言葉にさらに小さな声となる。
普段とまったく違うカレンさんに戸惑ってしまう。アシリカとソージュも同じようだ。
部屋が静まり返る。
「エネルさんはどこに……」
沈黙を破ったのは、涙声にカレンさんだ。
私は、その問いに答えられない。
「今、必死で探しているわ」
それしか言えない。
私も悔しい。拳を握りしめる。
「ナタリア様。エネルさんは職務を放棄するような人ではありません」
ベッドから私に縋りつく様にカレンさんが訴える。
「それは私もよく知っているわ」
カレンさんを安心させるようにそっと彼女の肩に手を置く。
「きっと何か良からぬ事に巻き込まれたのです。早く見つけてあげないと……」
心にずきりと突き刺さる。
「私が絶対、見つけてみせる。だから心配しないで」
何がなんでも見つけ出して、カレンさんに会わせてあげる。
恋のキューピッドとして二人をくっ付けた私のやるべき事だ。
涙するカレンさんを抱きしめ、決意する私だった。