114 俺の婚約者 -レオナルドー
辺りは、すっかり暗闇に染まっている。
目を凝らしても車窓からは何も見えない。特に見たい景色など無いので構わないのだが。
馬車の速度は、普段よりも遅い。それも仕方あるまい。この暗がりの中、明かりを点けずに走っているのだからな。
「しかし殿下、よろしいのでしょうか……」
御者台のマルラスが不安げだ。
無理もない。生真面目なマルラスだ。学院に届け出も出さずに学外に出た事を気にしているのだろう。だが、俺もこんなルートを知らなかった。気付いたら学院の外に出ていた、といったのが実状だ。
「どうして、リアはこんな道を知っていたのだ?」
そもそもの問題はそこだ。
誰に尋ねている訳でもない。馬車には、御者としてマルラスしかいない。マルラスがこの問いに答えられるとも思っていない。実際、無言で首を振るばかりだ。
それ以前に、リアは一体どこに向かっているのだ? 何をしようとしている? まさか、捕えられているフォルクを無理やりでも牢から連れ出すつもりか?
そんな考えに首を振る。冷静さを欠いているのかもしれない。
いくらサンバルト家の娘が来ても、騎士団は認めないだろう。その前に、あの気の強い侍女二人が、そんな暴挙をさせないはずだ。
寮の前での出来事。
フォルクが捕えられた事に納得のいかないリアが俺に詰め寄ってきた。
リアの言いたい事は分かる。フォルクをこのまま見捨てていいのか、師範が王宮を追い出されるのを黙って見ているのか。
それに対して、感情が昂ぶりつい、キツイ言葉を浴びせてしまった。これが、売り言葉に買い言葉というヤツか。初めて経験したな……。
自嘲気味に笑う俺の顔が窓のガラスに映っている。
「リアの馬車、見失うな」
ガラスに映る自分の顔から視線を外し、御者台に声を掛ける。
「かしこまりました」
マルラスが今度ははっきりと返事を返してくる。
リアが俺の前から立ち去った後、すぐに追いかけた。
何故俺がそのような行動を取ったのかは分からない。ただ、すぐに追いかけていた。何も考えずに行動するなんて、俺らしくないとは思う。でも、その時は、体が勝手に動いていた。こんな事も初めてだな。
自分が分からなくなりそうだ。
「殿下、か……」
小さく呟く。
リアに殿下と呼ばれたのは何年ぶりだろうか。
「懐かしいな」
そう呟く車窓に映る俺の顔は、とても過去を懐かしんでいる顔ではない。これはなんと呼べばいい表情なのだろうか? リアなら知っている気がする。
窓に映る自分の顔の向こう側、何も見えない暗闇をじっと見つめる。そこに、過去の出来事を思い浮かべていた。
優秀。もっと言えば、天才。
何をやっても、すぐに出来た。文字もすぐに覚え、学問も教師が驚くほどの吸収ぶりだった。剣は、すぐに同世代など歯牙にもかけないレベルとなり、魔術も同じだった。
年齢が二桁になる頃には、学問においても剣術、魔術においてもその道の優れた大人をも超えていた。
周囲からは、期待の眼差しが向けられていた。
だが、俺自身は退屈だった。不思議と何をするにも、労せずうまくいく。しかもかなりのハイレベルでだ。そして、思考回路の成長も人より早かったのかもしれない。すぐに自分の立場を理解し、周囲の考えも読み取れた。そして、周りの望む俺を演じていればいい。それが王宮という場所で、母のいない自分自身の身を守る一番の術であると会得していた。
だが、それは同時に俺を冷めた目でしか物事を見れなくし、感情を押し殺す事を染み込ませた。
おばあ様と叔父上だけにしか、その心の内を見せなくなっていた。
そんな子供だったせいか、俺が婚約すると話を聞いた時も、さしたる驚きは無かった。どこか他人事のように感じていた。
だが、それを嫌だと思う感情があったのは、また別問題だ。
何度か貴族の令嬢とは会った事がある。だが、化粧とドレスで身を繕い、見た目だけは綺麗かもしれないが、中身は空っぽ。その見た目のアピールと俺の機嫌を取る事ばかりに夢中になっていた。いや、正確に言うと、王太子の、か。
聞けば婚約者の候補として来るのも公爵家の娘。王家に次ぐ力を持つと言われるサンバルト公爵家の娘だ。王太子の婚約者候補だ。貴族の、それも高位の貴族の家の娘が候補となるのは頷ける。だが、その娘、王宮にまで伝わってくるほどの我儘な娘らしい。
だが、おばあ様が、そんな噂のある娘でも俺の婚約者へと勧めている理由は分かる。産まれてすぐに亡くなった母上の記憶はないが、その実家であるアトラス家が俺を支えるような状況でないそうだ。だから、代わりに俺を支える家として、サンバルト家が選ばれたのだろう。
まあ、仕方ない。俺が反対したところで何も変わらないことだと、達観していた。同時に会っても適当に相手をしていれればいいと考えてもいた。そんな我儘な娘と仲良く出来る自信もないが、こちらから歩み寄るのも癪だった。
そして、王宮の中庭で初めてリアと会ったのだ。鬱々とした気持ちを抱えながら。
正直、最初の印象は残ってない。しいて言えば、思ったほど我儘さを感じないなと感じたくらいだ。
印象に残る……、いや忘れたくても忘れられないのが二回目に会った時だ。
「剣を振るのか?」
リアの手に剣ダコがあったのだ。
「はい。多少ですが、たしなみとして学んでおります」
すぐには、信じられなかった。当然だと思う。貴族の、しかも公爵家の令嬢が剣を握るなど聞いた事がない。
「どれくらいの腕か少し見てやろう」
気まぐれだった。どうせ、その場にいても話す事は無いのだ。
だが、そんな俺をリアは一瞬で打ちのめした。
倒れた俺を自慢げな顔で見下ろすリアを見上げながら、自分の身に何が起こったか分からなかった。痛烈な打撃の痛みの中、俺が一瞬で負けたのを理解するまで少し時間が必要だった。
それからだ。リアに興味を持ったのは。いや、違うか。最初は悔しさだったな。年下のしかも女に負けたのだ。今まで負け知らずだったこの俺がだ。
改めて剣術の稽古に打ち込み、何度も何度も立ち会いに挑んだが勝つ事が出来なかった。
悔しさから始まったリアへの興味だが、剣術だけでなく、見ていて面白い娘である事に気付くまで時間は掛からなかった。そして、たまに心に刺さる言葉を口にした。面白くも、不思議なところもあったのだ。
「俺はここから、街を眺めて、想像しているのだ。もし、自分が、王家になど生まれなかったら、と……」
王宮の城壁で思わず王家に生を受けた事を嘆いた時だった。
王家に生まれる。それは恵まれていることかもしれない。豊かな生活が保障されている。飢えることなど無い。だが、同時に自由も無い。
帝王学ともいえる教育の中で平民の話を聞く。だが、それは俺の中では、本の中の世界だ。そして、その本の世界に憧れる。無い物ねだりだが、自由を感じた。
俺は王宮の中で与えられるのみ。生涯手に入れる事の無いものだ。
「殿下はご自分から何かしようとか、やってみようとは、思われないので?」
リアの一言。
そうだった。学問をしなければいけない。剣術魔術の稽古をしなければならない。婚約しなければならない。自分で自分の立場をわきまえ、そうするべきだと考えていた。
でも、俺は自分で何かしようと考えた事はなかった。すべて、周りにお膳立てされ、俺はその上を歩いてきただけだった。そして、たまたま何もかもうまく人より出来ただけ。
何故か、自分が小さな男だと感じたな。目の前の小柄なリアが大きく見えたものな。あの言葉があったからこそ、料理を始めようと思ったのだ。
そういえば、この日だった。俺が初めて贈ったネックレスを付けていたリアに俺の事を殿下ではなく、レオと呼ぶように言ったのだった。
確か、俺もリアと初めて呼んだのだったな。どんな反応されるか柄にもなく心配だったがな。難しいそうな顔をしていたが、そのまま押し切った。
それからもリアには、随分楽しませてもらった。
父上との謁見の場で転ぶ。パーティーでくだらない勝負を挑んでくる。ああ、あの雪合戦という勝負はまだしていなかったな。あれも決着を付けたいものだ。
叔父上の従者の占いでは、真っ白な未来とか言われていたな。でも、不思議に思わなかった。あのリアなら、どんな未来でも自分の意思で変えてしまいそうだからな。
でも、一番驚き、後から笑わせてもらったのは、やはり副院長の頭だろうな。おかしな行動をするリアでも、人のかつらを勝手に取るなんてことをするとは思わなかった。
思い返せばキリが無い。それくらいリアには楽しませてもらった。俺の想像を遥かに超える行動で楽しませてくれた。
「殿下。ナタリア様の馬車が止まっております」
マルラスの言葉で、過去の思い出から引き戻される。
「ここは?」
「平民街の一画にございます」
平民街? リアは何をしにきたのだ?
「おそらく、ここに入られたかと」
マルラスが指差すのは、一軒の家。リアの馬車が止まっている前だ。ここは何だろうか。サンバルト家の別邸とも思えない。
「どうされますか?」
マルラスの問いに口を噤む。
勢いよく追いかけてきたのはいいが、この先を考えていない。
過去から急速に現在へと思考が戻ってきて、さっき寮の前で俺を見ていたリアの冷たい目を思い出す。
リアにあのような目を向けられるのも当然かもしれない。
もちろん俺だって、フォルクの無実を信じている。助けてもやりたい。それに、師範が役を解かれるのも理不尽に思う。
しかし、俺が救いの手を差し伸べるのは無理だ。状況だけ考えたら、誰がどう考えてもフォルクに不利だ。そこに、俺が私情を挟むわけにはいかない。王太子、そして将来この国の王となる者として、当然の事だ。
父上も政治に私情は挟まない。国が乱れる元だ。己を律し、公平な政を行うのは王としての務めだ。
フォルクもそれは分かっているはずだ。そして、リアも俺の立場を分かっているはずだ。
正しいはずだ。俺は判断を誤っていない……か? 本当に?
自問自答してみる。そして、もう一度思い返していく。
王となる人間? 公平? 私情?
本当にそうなのか?
過去に自分の心の内が蘇ってくる。さきほどまでの思い出とは違って見えてくる。
周囲の望む俺を演じたのは、見捨てられない為。
冷めた目で見ていたのは、心を保つ為。
感情を押し殺していたのは、恐怖しない為。
自由に憧れていたのは、ただ逃げ出したかったからだ。
ああ、そうだったのか。
俺は臆病なのだ。母を失い、父上が新たな妃を設け弟が生まれてから、そして自分の立場が弱い事を自覚してからは尚更だ。別に是が非でも王になりたいとは思っていない。だが、王太子にならなければ自分の存在意義が消えそうで怖かったのだ。
すべて保身の為だったのか。俺に尽くしてきた人間すらもその保身の為になら平気で切り捨てようとする臆病で卑怯な男だ。
自分は優秀であると、人より優れているとずっと誤魔化し続けてきた心の奥底だ。
再び、リアの冷たい目が頭に蘇ってくる。
どうして、俺にあんな目を向けたか分かった。俺の臆病で卑劣な心を見抜いたからだ。
でも、だったらどうすればいい? 答えが出てこない。
分からない。いくら考えても分からない。
教えてくれ。頼む。俺には分からない。
「リア、……会いたい」
不意に出てきた言葉に自分でも驚く。
しかし、リアならきっと教えてくれそうな気がする。
「殿下……。本当に困難に遭遇した時や心が弱った時に思い浮かべる方がその人にとって一番大切な方だそうですよ」
御者のマルラスがこちらを振り返り静かに話す。
「誰の言葉だ?」
「ケイス様にございます」
「ケイスか……」
あの女好きの言葉など信じられるか。甘い言葉を息をするように簡単に口から出す男だぞ。
「あながち的外れとも思えませんが……」
そう言って、マルラスは前を向く。
「俺は……」
リアが大切? だが、大切とはどういう意味だ?
分からない事だらけだ。
俺は思わず頭を抱える。
その時、強い魔力を感じる。その直後、大きな爆発音がする。
魔力と音の出元は、リアの入ったと思われる家だ。
「リアッ!」
俺は馬車を飛び出す。
「殿下っ、お待ちを!」
慌てて付いてこようとするマルラスを馬車で待っているように命じる。
万が一の時は、すぐに馬車を出せるようにしておくようにも命じる。
大丈夫。俺は冷静だ。
リアに何かあったのか? いくら剣術に優れているとはいえ、放っておけない。
入り口を見つけ、魔力の元へと向かう。
そこで目にしたもの。
何が起こっている? 自分の目を疑うとはこのことか。
リアの侍女二人、それにあれは、確かリアの使用人だ。大の男を次々と蹴散らせていっている。
思わず、近くの木の影に隠れる。
男たちがあっと言う間にやられた。
残っている男に見覚えがある。確か、騎士団の副団長のはずだ。怒りの表情で剣を構えている。
「相手は私がしましょう」
リア、何を言っている? 相手は騎士団の副団長だぞ。しかも、真剣だ。
慌てて割って入ろうとする俺に目の前でまたしても信じられない光景が繰り返される。
難なく副団長の剣を受け止め、流れる様な動きで副団長の動きを奪う。
俺は夢を見ているのか……。呆然と立ち尽くす。
「私は逃げも隠れもしませんわ。そんな必要ないですもの」
リアの広げた鉄扇に白ユリの紋章が描かれている。俺の婚約者の証だ。そうあそこで、仁王立ちしているのは、リアだ。けれど、状況が飲み込めない。
「こうなったら、ヤケだっ!」
倒れていたはずの副団長がリアに切りかかる。
駄目だ。侍女たちは間に合わない。このままでは、リアが――。
「リアーッ!」
俺の大切な人を傷つけようとする者は許さない。
渾身の魔術を放つ。
意地を張るのはよそう。マルラスの言う通りだ。俺はリアが大切だ。素直に認める。
俺を楽しませてくれる。
新たな事に気付かせてくれる。
俺の知らない事を教えてくれる。
大切。俺は思う。それは、何に変えても守りたいものだ。
それはリアだ。俺はリアを守りたい。
「嘘? 何でここに?」
俺の姿を見たリアが目を見開いて驚いている。
だが、今は副団長だ。どんな理由か知らんが、リアを傷つけようとしたこいつを許す訳にはいかない。
「貴様、誰に向かって剣を向けたのか分かっておるのかっ!」
切り刻んでやりたいところだが、すでに気を失っているようだ。
いや、そもそもこれはどういう状況だ? リアの無事を確かめ安心したせいか再び疑問が沸き起こってくる。
「これは、どういう事だ? 一体、何があった?」
俺の問いに目を逸らすリア。
「答えろ、リア。一歩間違えれば、命を落としていたのだぞ」
フォルクの件が絡んでいるのか? だとしても、危険過ぎる。
「世直しですわ」
「世直し? 何だ、それは?」
俺は頭が悪くなってしまったのだろうか。今日は理解できない事ばかりだ。それとも、元々、自分で思っているほど優秀ではなかったのか?
「ですから、世直しは世直しです。世の中の悪を懲らしめ、理不尽に苦しめられている者たちを救っているのです」
やはり理解出来ない。必死で頭を回転させているが無理だ。
「権力や富を持つ者の虐げられている弱き者は世に多くいます。それらの民を助けているのです」
言っている意味は分かる。でも、まだよく理解出来ない。
「理解が追いつかない……」
一通り尋ねた後に出たのは、生まれて初めて口にした言葉だった。
「この事を口外される事は、どうかご勘弁を」
言えるわけない。誰も信じないだろうしな。俺でも、きっと信じない。断言できる。
だが、このまま頷くのもな。世直しとやらをやめる気はないようだが、こっちとしては気が気でない。リアを大切と思い始めた今、こんな危険な真似を黙って見過ごす訳にはいかない。
「俺もその世直しとやらに参加する!」
俺が出した黙っておく代わりの条件。
これなら、リアの無茶を見張っていられる。
明らかに嫌そうな目を堂々と向けるな。傷つくじゃないか。
「……王太子であるご自分のお立場をお忘れですか? このような事させる訳には……」
都合よく身分の事を言えるもんだな。
「お前にだけは、立場うんぬんを言われたくない」
これだけは、間違っていない自信がある。
「ならば、こちらも条件があります」
リアの提示してきた条件はうっかりポジション。ドジな下僕? 何だ、それ?
「今後はハチよ。世直し中はハチと名乗ってくださいね」
名前の意味は分からないが、あまり良い意味ではないような気がしてならない。うっすらとにやけているリアの顔を見てそう思う。
「気のせいよ、ハチ!」
それを告げると、耐えきれないとばかりに笑いだすリアである。
そんな彼女の笑顔を見て、俺は内心ほっとしていた。
リアとまた今まで通りの関係に戻れる。その為なら、下僕にでも喜んでなろう。
いや、今までとは違うか。今日は分からない事だらけだったが、一つ分かったことがある。
自分のリアへの想いを分かってしまった。
興味を引く見ていて面白い婚約者から、いつの間にか自分でも気づかないうちに守りたい、側にいて欲しい婚約者に変わっていた。自分の立場の為の政略的な婚約だったはずなのにな。
自分で自分を物好きだと笑ってしまうな。
そして、少し照れくさい。
この気持ち、もう少し秘密にしてもいいだろう。
リアだって、俺に隠れてこんな事をしていたのだからな。それくらい構わないだろう。