107 権力に近い場所
朝から恒例である剣の早朝稽古である。
一通りの稽古を終え、一息ついていた。レオはまだ、剣を振っている。いまだ私に勝つ事が出来ず、しかもこの前、立ち上がれなくなるまで打ちのめされたせいか一段と稽古に熱が籠っている。
「父から聞いていましたが、ナタリア様の腕は本物にございますね」
レオの従者だ。名前は、フォルク。稽古で何度も顔を合わすうちに、気軽に話すようになっていた。そういえば、剣の腕前もなかなかだったな。
「父?」
「あっ、申し訳ございません。そう言えば、言っておりませんでしたね。私の父は王宮剣術師範役ビゼルにございます」
ああ、あの人の息子さんか。それで、剣術に優れているのね。師範には随分、世話になったものね。レオが入学してからは、会ってないけど、元気かしらね。
「まあ! 師範の息子さんでしたの。知らなかったですわ。師範は、お元気?」
「はい。今でも剣術師範を務めさせて頂いております」
そう返事するフォルクは、確かにあの師範の精悍な顔と似ているかもしれない。師範には、口髭があったから気づかなかった。
「久々にお会いしたいですわ」
「父がその言葉を聞けば、喜ぶでしょう。もっとも、私自身も最近会ってはいないのですが」
ああ、そうか。レオの従者として学院に詰めているのだ。そうそう家族とも会えないだろうな。
「まあ……。息子さんになかなか会えないのも、師範もお寂しいでしょうに」
アシリカもあまり実家に帰ってないけど、大丈夫なのかな。一人娘だし、ご両親寂しがってないかな。
「ははっ。寂しがるような父ではありませんよ。何をおいても仕事一番の人ですから。私が殿下の従者になった時、家族の事は忘れ、殿下の事だけを考えて行動するように言われたくらいですからね」
そうフォルクは苦笑する。だが、その表情からは、そんな父親を誇りに思っているのが感じられる。
「お父上様の事を尊敬されていますのね」
師範、立派な人だったもんな。
「真面目だけが取り柄の仕事しか頭にない人ですけどね」
私の言葉に照れを隠そうとしているのかフォルクは、父親を揶揄する。
自らも父親である師範と同じ剣を嗜んでいるのだ。幼い頃から父親に憧れていたのだろうな。
「おい、その父親に聞いておいてくれ」
素振りを終えたレオが側にやってきた。
「どうしても、リアに勝てん。何が足りないのだ?」
フォルクの差し出したタオルで汗を拭いながら、レオがフォルクに尋ねる。
「父なら、鍛錬あるのみ、と答えるでしょうね」
一度ちらりと私を見てから、フォルクが答える。
「……言いそうだな」
くすりとレオが笑う。
「リア、絶対にいつか勝つからな」
この台詞、何度聞いたことだろうか。
「楽しみにしておりますわ」
それに対するいつもの返事を私も口にした。
その日の午後。授業が終わって、マリシス様による王妃教育である。朝から、剣の稽古と勉強会、授業を受けてからのマリシス様の講義。けっこうハードな一日である。
その王妃教育だが、多岐に渡ることを学ぶ。
もちろん、一般的な教養や礼儀作法を踏まえた上で、王宮独自のしきたりなども学ぶのだが、同時に、身の処し方も教わる。
身の処し方。それは、言葉だけ聞けば、この状況の時には、どうすればいいかという事を習うように感じる。確かにその通りなのだが、『この状況』というその状況がいかにも王宮らしい。
エルカディアの街から見上げる荘厳な王宮はまさに権力の象徴である。それは、貴族にさえ別の世界であると感じさせる威厳を放つものである。その王宮に集まる権力を巡って、多かれ少なかれ軋轢、つまり権力闘争が起きる。権力の集まる所に争い有りとは、世の常であるが、それへの対処。それが身の処し方である。
その権力闘争にいかに巻き込まれないか、万が一巻き込まれたらどのように対応すべきか、それを妃教育の一環として学ぶのだ。
内容が内容だけに、普段より険しい顔でマリシス様は話している。
聞いているこっちも眉間に皺が寄っているけどさ。だって、深く考えなくても面倒なのが嫌って程理解できる。
断罪はお断りだが、婚約破棄だけなら飛び跳ねて喜ぶだろうな。
「もしもの時は、下の者を犠牲にしてでも、その身と立場を守らなければなりません」
かつてレイボーン侯爵家女当主として、そして、社交界の大物として名を馳せたマリシス様である。酸いも甘いも知り尽くしているのだろう。
「……しかし、ナタリアお嬢様には、無理かもしれませんね」
ふっ、と厳しい顔つきを緩めて、柔らかく微笑むマリシス様である。
「きっとあなたなら、私などが思いつきもしない方法で解決してしまうのでしょうね」
そうね、私だったら絶対にアシリカやソージュを犠牲になんてしたくない。
「でもね、覚えておいてくださいませ。妃という立場、決して権力とは切っても切れない立場である事を。そして、それを利用しようとする者も存在するといおう事を」
身分の差、そして男女の性差に厳しいエルフロント王国である。王妃や王太子妃という王や次代の王の配偶者でも、表向きは政治に口を挟まない。あくまでも、夫を支え、次の世代へと繋げる為に子を産み育てるのが、一番の仕事である。
だが、実際は、権力そのものである王に一番近しい者として、大きな影響力を持つ事になる。もちろん、妃という存在そのものにも権威がある。
「そして、アシリカさんにソージュさん。あなた方側仕えの者も他人事であはありません。妃のすぐ側にいるのは、あなたたちになるのですから」
なるほど。ごく近い人物、侍女や侍従などにも、当てはまるという訳か。
緊張の面持ちで、アシリカとソージュも頷く。
「少し怖がらせてしまいましたか。でも、心配ありません。殿下やサンバルト卿がおられるのです。きっと、守って頂けます。それに……」
少し、言い淀んでから、マリシス様が口を開く。
「やはり、私には、あなた方なら自らの力で切り開いていけると思います」
いや、不安で仕方ないです、と思ったのは、私だけじゃないはずだ。
両隣に座るアシリカとソージュの顔を見て、そう思っていた。
マリシス様の講義が終わり、何となく重苦しい雰囲気である。
講義内容が王宮の権力闘争。必要な事かもしれないが、生々しすぎる。
「ねえ、少し散歩でもしない?」
うん、少し歩いて気分を変えよう。
「かしこまりました」
アシリカもすぐに賛成する。多分、同じ気持ちだったのだろう。
小高い丘の上にある私の寮から小道を下っていく。
遠くに見える林の木が風に吹かれて揺れている。その風がこちらにもやってきて私のツインテールを揺らす。
乱れた髪をアシリカがさっと手ぐしで直してくれる。
「ありがとう」
思えば、彼女たちもとんでもない事に巻き込んでしまったかもしれないな。王宮へ一緒に行く事になるのだからね。もっとも、その前にヒロインが登場して巻き起こる騒ぎにも巻き込んでしまうかもだけどさ。
いや、そもそも世直しにも巻き込んでいる。二人はそれに対してどう思っているのかな。
「ねえ、どう思う?」
「何がでございますか?」
アシリカが不思議そうに聞き返す。
「私の――、いや、えっとね……」
私の侍女になって、後悔してない?
それは、彼女たちにあまりにも失礼な言葉だ。そう思い、咄嗟に言葉を口に出すのを止める。
もし後悔するような二人なら、ここまで私に付いてきてくれない。無茶している自覚もある。そんな無茶にも付き合ってくれているのだ。クレームが来る時はあるけど。
「いえね、レオ様の従者も大変よね」
無理やり別の話題を捻り出す。
「確かにそうですね。殿下のお側なら、私たちよりもいろいろあるのでしょうね」
一瞬怪訝そうな顔をしたアシリカだが、すぐに頷き返す。
「ですが、優秀な方ばかりですから、大丈夫でしょう」
王宮に行った時に何度も見たが、レオの従者は十人近くいた。それぞれが、文武両道の上、何かしらの特技も持っているそうだ。
その中でも、王太子に付き添い学院に来たフォルクなどは、一番信頼され、同時に期待もされている優秀な従者という事になる。
「大丈夫よ。アシリカとソージュも優秀よ」
「おだてても何も出ませんよ」
ウインクする私に、アシリカが首を横に振る。
「夜食、何か狙っているもの、あるのデスカ?」
ジト目でこっちを見ないでよ、ソージュ。
「もう! 本心から言っているのよ。本当に、私は……、あれ?」
私の言葉が途中で止まる。
少し先に、ごみを拾っている人がいるのに気づいたからだ。いや、別に、ごみを拾っている人が珍しい訳ではない。学院の敷地は広大だが、建物も含め、綺麗にされている。それも、ああやって、掃除をしてくれる人がいるからだ。
私の言葉が止まったのは、その人が見知った人物によく似ている、というか、その人本人だったからだ。
「えっと、クレイブ?」
そう、目の前で、集めたごみを背負った籠に入れているのは、クレイブだ。
「こりゃ、嬢ちゃんじゃないか。こんな所で会うとは奇遇じゃの」
いや、それ、こっちの台詞だよ。
「あのさ、何してるの?」
妙に頭からのほっかむりが似合っているけど、この人、剣聖だよ。
「見て分からんか? ごみを集めとる」
不思議そうにこっちを見ているが、こっちの方が不思議に思っているよ。
「いや、何でここでごみ拾いしているのよ? 道場は?」
「ああ、それか。いやの、ちいっとばかり金に困ってての」
顔を顰めてクレイブが答える。
「え?」
最近は、道場も門下生がわずかだが増えてきて、そんなに困っていないはずだけど。おかしいわね。入学前に行った時もそんな事全然話していなかったし。
「ああ、大丈夫じゃ。道場ではない。これは、個人的にの」
私の様子を見て、慌ててクレイブが打ち消す。
「個人的?」
個人的にお金が必要って事なのかしらね。
「いやの、最近新しい趣味に嵌ってのう。その軍資金というか、何と言うか……」
うーん。碌でもない事をしているような気しかしないな。
「ねえ、その趣味って何?」
私だけでなく、アシリカとソージュも訝し気な目をクレイブに向ける。
「な、何じゃ、その目は? 弟子が師匠に向ける目ではないぞ」
その目から逃げるように顔を背け、剣聖とは思えないうろたえようである。
「都合が悪い時だけ、師匠になるのね。で、その趣味は何?」
「クラップスじゃ……」
バツが悪そうに答えるクレイブ。
クラップス……。賭け事か!
「まさか、負けが込んで借金したんじゃ……」
「まあ、そういう事かの」
何やってるのよ。賭け事をするなとは言わないけど、剣聖と呼ばれる人間が借金してまで賭け事って……。呆れるわね。
「いやあ、勝てそうと思っておったら、つい、の」
無の境地はどうした? 相変わらず煩悩を捨てきれていないみたいだな、おい。
「で、いくらくらい借金したのよ?」
一応確認しておこう。
「うーん、金貨十枚ほどかのう」
……結構な金額ね。もっとも、借金に関しては、私も偉そうに言えないけどさ。
「そうじゃ。この事、ブレストらには内密にな」
ブレストには秘密にしているのか。本当にどうしようもない剣聖だよ。
「返せるのですか?」
呆れ顔のアシリカが尋ねる。
「大丈夫じゃ。ほれ、この通り働いておるではないか」
うーん。まあ、働いて返そうってのは立派だけどもさ。いや、当たり前か。
「剣聖の名が泣いてマス……」
そうね、ソージュ。私も心底、そう思う。
「何を言うか。ワシはな、剣に関しては誇りを失っておらん。ついこの前も、王宮剣術師範役になる為に推薦状を書いてくれと頼まれたが、断わったわい。会った事もない、実力も無い奴にそんなものは書けんとな」
「そんな事、自慢に……、え? 王宮剣術師範役ですって?」
フォルクの父親である師範がいるのに、新しい剣術師範役って、どういう事?
「ん? 詳しくは知らんが、今の剣術師範がクビになるとかならんとかでの。それで新たな剣術師範を目指すものが箔を付けようとでも、思ったのじゃろう」
クビ? あの師範が? 今朝会ったフォルクは、そんな事一言も言っていなかった。
「その話本当なの?」
「断わったわい! ま、正直ちょっと、惜しい事をしたと今は思っておるがのう」
「いや、違うわよ! 師範がクビになるって話よ」
勢いよく言った後、肩を落とすクレイブに詰め寄る。
「な、何じゃ? そんなに血相を変えて。推薦状を頼まれたのは事実じゃ。なんなら、ブレストにも聞いてみい。奴もその場におったからの。じゃが、借金の事はくれぐれも触れずにの」
うーん。どうやら、事実のようだ。クレイブがそんな嘘ついても仕方ない事だしね。
でも、どうしてあの師範がクビに? クビになるって事は、よっぽどの事だ。何か仕出かさない限りなるもんじゃない。とても、そんな不祥事を起こすような人には見えなかったけど。
その時、ふとマリシス様の講義が頭によぎる。
王宮は権力の集まる所。そして権力の集まる所には、争いがある。
まさか、師範、何かに巻き込まれたんじゃ……。
「デドル!」
デドルの事だ。近くで控えているはずだ。
「へい」
思っていた通り、どこからともなくデドルが現れ、私の前に跪く。
「師範に何があったか調べでちょうだい」
「へい。承知いたしやした」
一度頭を下げて、デドルは再び、どこへとなく消えていく。
「師範、大丈夫なのでしょうか……」
アシリカが心配そうに呟く。
「分からない」
暗くなり始めた空を見上げて、力なく答えた。