106 気高さ
その日の夜、ベッドの中でシルビアから話してもらった事を思い返しながら考えていた。
アシリカとソージュが突然、マナーに関して厳しくなり、令嬢としての立ち居振る舞いに口煩くなった理由をである。
王太子の婚約者として、注目を集める私である。他の人なら気にも留められない行動でも、私がすると注目を集める。その上、いまだに我儘ナタリアの噂も根強く残っている。
どうやらそれらが合わさって他の生徒たちの間で、私の印象はよく思われていないらしい。
もっとも、三公爵家の一角であるサンバルト家の娘であり、王太子の婚約者である私に面と向かって、批判したり、口悪く罵る者はいない。
これには妬みなども含まれているとは思うが、アシリカやソージュにとっては私への悪評が心苦しいものだったのだろう。
さらに彼女たちを追い詰めたのは、彼女たち自身の事もある。
公爵家など高位の貴族の子弟の従者や侍女は、その家に古くから仕える者の子供や、下位貴族の末子から選ばれることが多い。そんな中、私の侍女は二人とも貴族と接点の無い平民出身。ソージュに至っては、孤児だった。それも、口さがない者たちの話題に上っているらしい。
あんな平民出の侍女を連れているから、公爵家の令嬢にもかかわらず、令嬢らしからぬ振る舞いをする――。
彼女は、王太子殿下の婚約者として相応しくないのではないか――。
そんな言葉に、アシリカとソージュが、自らを責めているのが深く考えずとも想像出来る。責任感が強い二人だし、何よりも私の事を考えてくれているからね。
きっと、自分たちが私の足を引っぱっているとでも考えているに違いない。だからこそ、あそこまで厳しく接しているのだろう。私をどこに出しても、恥ずかしくない、非の打ち所の無い令嬢とする事で、悪評を打ち消そうとしているのだ。
私がノートル公爵家のミネルバさんのような、誰がどこから見ても文句の付けようの無い完璧な令嬢だったならば、何も言われなかったのかもしれない。
でも、私は、アシリカたちが言うようにガサツだ。それなりの令嬢教育は受けてきたが、どうも性に合わない。そもそも転生前は、私も庶民だ。堅苦しい生活は、慣れたとはいえ、肩が凝る。ある意味、私自身も生粋の令嬢とは言えないのだ。
「いや、そんな言い訳を言っている場合じゃないよね……」
ベッドの中で呟く。
やってやろうじゃないか。
アシリカとソージュが悩み抜いて、あそこまで必死になっているのだ。私が頑張らないで、どうする? 周りが見惚れるほどの令嬢ぶりを存分に見せてやろうじゃないか。そして、あの二人の期待に応えるのだ。
悪評なんて、あっという間にぶっ飛ばしてやるわ。
私は、ベッドの中で強く決意していた。
翌日から、私は一段と気を張り詰めていた。今までは、アシリカとソージュの目を気にして気を張り詰めていたが、今は違う。
歩き方から一挙一動、話し方はもちろん、今まで叩き込まれながらも、気にしていなかった令嬢としての作法を細部まで徹底する。
自分の意思で、令嬢らしいを真っ当しようとしていた。
一瞬たりとも気を抜く訳にはいかないのだ。
「あの、お嬢様……」
最初、突然の私のやる気にアシリカとソージュは喜んでいたが、五日後には、不安そうな目で私を見てきていた。
「少々、気を張り詰めすぎでは……」
一日の授業を終え、廊下を進む私の背後からアシリカが声を掛けてくる。
「どういう事でしょうか? 私は、普段通りですわ」
そうよ。これが、私よ。公爵家の令嬢として、完璧にこなしてみせるわ。
あっ。油断しちゃダメだ。背筋を伸ばして、真っすぐに前を見て……。
気のせいか、食欲も無くなってきたかもしればいけど、ダイエットと思えば丁度いいよね。ほら、ほっそりしている方が、さらに深窓の令嬢らしいしさ。
しまった。また余計な事を考えてしまった。集中しなくちゃ。
えっと、背筋を伸ばして……。
あれ? 妙に静かね。さっきまで、授業が終わった後のざわつきがあったような気がしたけど。それに、世界がぐるぐる回ってる?
え? え? 何? どうなってるのかしら……。
いえ、それより、令嬢らしくしな、いと……。
ほ、ら……、背筋、伸ばし……て……さ……。
そこで、私は暗闇の中に落ちていった。その暗くなった中で、私を呼ぶアシリカとソージュの声だけが聞こえた気がした。
瞼の向こうに明かりを感じる。
背中には、ふわふわした感触を感じる。
「ん……」
閉じていた目を開ける。
「お、お嬢様っ……」
今にも泣きそうなアシリカの顔が見える。いや、目の横に涙の跡が残っているから、泣いていたのかな。
「私たちの声、聞こえマスカ?」
ソージュだ。ソージュも涙の跡があるけど、何か悲しい事でもあったの? だったら、私に任せなさい。私は、アシリカやソージュを傷つけようとする輩は断じて許さないから。
「申し訳ございませんっ!」
アシリカが叫ぶ。その横でソージュも頭を下げている。
ねえ、何を謝っているの? 何があったのか、説明してちょうだい。どうも、頭がはっきりしなくて、よく分からないのよ。
「お嬢様を倒れるまで追い詰めていたなんて、侍女失格にございます」
アシリカも頭を垂れて、涙声になっている。
ああ、私は倒れたのか。意識を失って、部屋に運ばれたのか。
頭が次第にはっきりしてきて、色々と思い出してきた。
「お嬢サマ。ごめんなさい。私、駄目な侍女デス」
ソージュも珍しく感情を露わにしている。
「何言ってるの、二人とも。私の侍女はあなたたち以外務まらないでしょ」
ようやく出てきた私のその言葉に堰を切って、アシリカが泣き出す。それにつられて、ソージュも泣き出してしまう。
泣きながらも、二人は説明してくれる。
やはり、周囲の私への風評を気にしていたようだ。そして、平民の自分たちのせいで、私の評価が下がっていると感じていたそうだ。
「私たちの事は何と言われようとかまいません。ですが、お嬢様の事だけは……」
えづきながらも、アシリカが声を絞り出す。
「この責任は取らねばなりません。旦那様に事の次第を報告し、処分を仰ぎます」
アシリカとソージュがぐっと涙を堪え、覚悟を決めた顔で私に告げる。
処分って……。アシリカもソージュも何も悪くないよ。私の為を思ってした事なのだからさ。
「ちょっと、よろしくて?」
すぐにお父様への報告を止めようとする私より先にシルビアの声が聞こえる。
「シルビア?」
どうしてシルビアがここにいるのかしらね。
「お姉さま。まだ少し横になっていた方がよろしいですわ」
起き上がろうとした私の肩をそっとシルビアが止める。
どうやら、シルビアは倒れた私を部屋まで運ぶのを、カレンさんと一緒に手伝ってくれたらしい。
「ごめんね、シルビア。迷惑かけちゃったみたいで」
「気にする事ではありませんわ」
謝る私にシルビアが優しく微笑んでくれる。
「それより……」
私からアシリカとソージュに視線を移したシルビアがゆっくりと話す。
「アシリカさん、ソージュちゃん。あなたたちは、何故、お姉さまのお側にいるのですか?」
「それは、お嬢様のお側に居たいと心から思ったからです」
アシリカに同意するかのようにソージュも頷く。
「そうですわね。その気持ち、私もよく分かります。ならば、常にお姉さまの側で見ていたあなたたちなら分かるはずです。ドレスや作法で飾られた令嬢より、お姉さまの中から溢れ出る美しさに、その強さに……」
「中から溢れ出る美しさ……」
「強さ……」
アシリカとソージュが、呟く。
「そのままのお姉さまこそ、お姉さまの気高さだと思いませんか?」
照れる。正直、照れる。思わず、ベッドの中に顔を半分埋めてしまう。
「確かに、それは分かります。ですが、お嬢様の事を悪し様に言われるのは……」
悔しそうな表情になるアシリカ。
「放っておけばいいのですわ。悪く言う者は、本質が何も見えていないのです」
妖艶な笑みを浮かべてシルビアがアシリカとソージュに横に首を振る。
「そうですわよね、お姉さま?」
ここで、こっちに振られても困るよ。何て言っていいか分からない。
「ま、私は私だからさ」
ベッドに顔を半分埋めたままの私である。
「……そうですね。お嬢様はお嬢様ですものね」
「いつものお嬢サマに惹かれて、侍女になったのデシタ」
ようやく、アシリカとソージュの顔が柔らかくなる。
「ねえ、今日で、令嬢特訓は終わり?」
ベッドの中から恐る恐る尋ねる。
「そうですね。ですが、だからといってあまり羽目を外すことはお止めください」
終了を告げるアシリカだが、釘を差すのも忘れない。
いやあ、でも、ほっとしたな。ほっとしたら、何だかお腹が減ってきた気がするよ。
「ねえ、何かさ。急にお腹が減ってきてさ。何かない?」
「変わり身早いデス……」
勢いよく起き上がった私に、ソージュが呆れた口調になっている。
「これも、お嬢様らしいかもですけどね……」
同じく、呆れた口調のアシリカである。
だが、二人はどことなく嬉しそうな顔つきである。
何か軽く作ります、と言い残しアシリカとソージュはキッチンへと向かう。
「軽くなくていいよ」
後ろ姿にそう声を掛けた私に苦笑いで頷く二人。
「今まで通りの三人に戻られましたね、私も嬉しいですわ」
そんな様子にシルビアが顔を綻ばせる。
今回は、シルビアに助けられたよ。感謝しなくちゃね。また元通りに戻れたのもシルビアのお陰だもの。
「ありがとう、シルビア」
お礼の言葉と同時に、私のお腹がぐうっと鳴る。
「早くお姉さまに何か食べるものを」
シルビアの言葉にアシリカとソージュは、顔を赤らめ頷いていた。
翌朝。
いつもの通り、池の畔にやってきていた。
「倒れたと聞いたが、大丈夫なのか? この後、見舞いに行こうと思っていたのだが……」
私の姿を見て、レオが眉を顰めている。
「ほう。元通りに戻ったか……」
昨日まで持ってきていた教科書と違い、木刀を持っている私に、レオが気付く。
ほっとした顔となりながらも、さり気なくアシリカとソージュの様子を伺っている。
「殿下にもご迷惑をお掛けしました。今思い返しますと、とんでもない無礼な発言の数々と態度でございました」
アシリカとソージュが深々とレオに頭を下げて詫びる。
「いや、気にする必要はない。よくよく考えてみれば、お前たちの気持ちも分からんでもないしな」
木刀を持ち、久々の剣の稽古にやる気満々の私をちらりと見た後、少し同情の籠った目をアシリカとソージュに向けている。
おい、レオ。それはどういう意味だ? 今すぐ立ち会うか?
「それより、レオ様……」
目の前のやり取りを見ていると、この前アシリカとソージュの勢いに飲み込まれて、私をあっさり売ったレオの行動を思い出す。
「久々に、手合わせ致しませんか?」
ぐっと木刀を握りしめ、レオに提案する。
「ほう。それはいいな。しかし、多少なりとも、剣を握っていなかったが大丈夫なのか? それに、昨日倒れたのであろう?」
「問題ありませんわ。その分、どこぞの侍女二人に言い負かされたレオ様に失望した気持ちを乗せますから……」
皮肉たっぷりにレオに笑顔を向ける。
任せろといわんばかりの態度の割にあっさり負けたもんな。情けない。
「い、いや、あれはだな……」
言い負かされた自覚があるようだ。
「あれは、何でございますか?」
口ごもるレオに追い打ちだ。
「あんな勢いで来られては、何も言えんだろう……」
一国の王太子ががっくりと肩を落としている。普段のレオとはかけ離れた姿である。
まあ、分かる。あの時のアシリカとソージュ、私も怖かったもんな。確かに、鬼気迫る勢いだった。
だが、それと、私を売った事は無関係である。この先の為にも、一度ここで締めておこう。現れたヒロインに篭絡され、あっさり売られるのも問題だしね。
「では、始めますか……」
木刀を構える私に、レオが顔を引きつらせる。
「お、おい、リア。殺気が籠っているように感じるのは気のせいか?」
「気のせいですわ」
その日、レオは久々に立ち上がれなくなるまで、剣の稽古に勤しむ事になった。