鍵穴
皆さんは、もしも街の奇妙な所に鍵穴があったらどう思われますか?
そんな所にあって何の役に立つのかと思ってしまいますか?
意味がないように思えて、実はとても大事な役割をしているのかもしれませんよ
その鍵穴は……
「はぁ……」
思わず溜め息が零れ落ちた。
彼は四十代のしがないサラリーマンをしている。
人生の楽しみと呼べるようなことは半分以上終わってしまった。
それ故か最近は何事にも張り合いがなく、良い事も全然ない。
仕事は未だ大きいことをやり遂げていない為下から数えた方が早いような階級。
同期の奴はもっと上で良い椅子に座っているのに……そう思うと余計に肩が沈んだ。
今日も上司にみっちり絞られてきて、仕事が終わり帰路についているのにも関わらず重い足取り。
家に帰っても愛想のない妻と、高校に入ってからろくに口を利いてくれなくなった娘がいるだけ。
家にも外にも自分の居場所は無いように感じられた。この足の重さはそれ故なのかもしれない。
唯一楽しみがあるとすれば、風呂上がりのビールくらいだろうか。
しかし逆に、楽しみがそんなことしかないのかと思ってしまうとまたまた肩ががっくりと沈んでいってしまう。
「すぅ……、はぁぁぁ……」
もう一度大きく溜め息を吐いた。それもわざわざ大きく息を吸ってからだ。
こうすれば少しは体から嫌なことが抜けていってくれる気がしたのだ。実際にはそんなことある訳もないのだが。
昔誰かが言っていた気がする。
『溜め息を吐くと幸せが逃げて行っちゃうんだよ』と。
じゃあ俺にはもうひとかけらの幸せも残っていないかもな、などと昔の誰かに言ってみたりする。
それにしても足が重い。
またあの自分の存在がほとんど無視されている家に帰るのかと思うとドンドン足が重くなる。
「……」
たまには違う道から帰るか、となんとなく目に留まった曲がり道を見ながら思う。
どうせ帰りが遅くなっても怒る者はおろか気に掛ける者もいないのだから、と若干ヤケクソ気味になりながら通ったこともない道を歩き慣れているかのようにズンズン進んでいった。
途中いくつも分かれ道があったが、悩まず選ばず本能の赴くままに進む。
すると、二車線ある広めの道に出た。
「……ここ、どこかで……」
初めて来る所だが、何故か見覚えのある道だった。
首を傾げて必死に思い出そうとするがなかなか出てこない。
また適当に歩き始めると、大きな灰色の建物が目に留まった。正確にはビルの側面である。
しかし側面とは言え、違和感がとてもある。恐らく百人の人間に見せればそのほとんどが違和感を感じるだろう。
何が違和感かと言えば、窓が無いのだ。窓どころか換気扇の出口やドアはもちろん、ガラスの一枚付いておらず、おまけに無地の灰色一色だ。
――否、今は夜で街灯や辺りの光で照らされている所しか色は分からないが、少なくとも側面の広範囲は無地である。
やはりどこかで見た気がした。
この光景、この場所……。
「あ!」
唐突に声を上げた。
思い出したのだ。
この場所をテレビで彼は見たのだ。
この場所、この近辺で何度か通り魔殺人が起こっており、度々ニュースになっていた。
比較的近所で起こった事件だった為、彼の印象にも残っていたのだ。
何人もの人間が殺害されるこの場所をネットでは『呪われているのではないか』と騒がれたこともあったが、ただの偶然として処理されている。
そんな奇妙な場所に偶然とは言え辿り着いてしまった辺り、とうとう彼も精神的に追い詰められてしまう。
「遠回りなんかするんじゃなかったな……」
灰色のビルの前で――正確には横で再び溜め息を零した彼はポツポツと歩き始めるのであった。
そこで彼が街灯に反射して銀色に光る『何か』を発見した。
「なんだ?」
その『何か』はビルに付いており、屈まないと何なのかが良く分からないほど下にあった。
彼は膝をゆっくりと曲げ、屈みこんで『それ』を見た。
「……鍵穴?」
……鍵穴だった。
何か特別な鍵穴ではない。至って普通の丸くプリンのような形をした鍵穴だ。
問題は鍵穴ではない。何故こんな所に鍵穴が付いているのかということだ。
先程も言った通り、このビルの側面――即ちこの鍵穴が付いている面はドアも窓もガラスも柄すらない違和感だらけの壁だ。
鍵穴があったところで、開けられる物など何もない。
鍵穴のある位置だって、ビル正面寄りの中途半端な所だ。入口の鍵穴とは思えない。
そもそもどんな設計士が入口の鍵穴をこんなビルの側面に付けようなどと提案するのだ。
では一体この鍵穴は何なのか。
この鍵を開けると、何が開くのか。
そもそもなんでこんな所に付いているのか。
「あああああ‼」
彼は考えるのも嫌になって頭を掻きながら勢い良く立ち上がり再び帰路についた。
少し前からその光景を見ていた者がいるとも知らずに……。
「……」
家に帰ってからも彼はずっと先程見た訳の分からない鍵穴のことを考えていた。
唯一の楽しみであったはずの風呂上がりのビールに口を付けることを忘れる程に。
ひたすら呆然と考えている。
(また明日行ってみるか)
結局答えの出ないまま、彼は手に取ったビールを勢い良く飲み干していく。
翌朝、彼はいつもより早めに家を出た。
理由は言うまでもない。
しかし一晩明けて彼は、昨日見た鍵穴は何かの見間違いだったのではないか、と考えるようになっていた。
一晩明けて記憶がちょっと薄れたことに加え、夜の暗い時に見ておまけに精神的にも平常心とは言えない状態だったのだからそう考えるのも無理はない。
出来れば余計な考え事もしたくないし、見間違いであってほしいと彼は心ひそかに思っていた。
昨日初めて行った場所とは言え歩いて行ける程度の距離。目的地が決まっているのなら昨日のように細めの道を何度も曲がらなくても着けてしまう。
そして、
「……」
昨晩訪れたビルまでやってきた。
昨日とは違って明るい為、ビルの姿が良く観察できる。
やはり側面は灰色一色の窓一つない地味な壁であった。
そして昨日は見なかったビル正面は意外と普通だった。
各階に窓が均等に付いており、正面真ん中には自動扉も備わっている。自動ドアの上辺りには会社名も書かれていた。
正面だけ見れば至って普通のビルだ。
こうなると何故側面をあんな地味にしたのか益々問い詰めたくなる。
しかし、会社へ行く前にわざわざここへ寄ったのはビル観賞をする為ではない。昨晩見たあの奇妙な鍵穴を確認する為だ。
「やっぱり……見間違いじゃなかったか……」
いくら平常心でなく、薄暗かったとは言え何か別の物を鍵穴と見間違えることはそうそうないだろう。
辺りは人通りが少なかった為昨日の様にまた屈んで鍵穴を良く見てみた。
ドアなどで使われている鍵穴そのものだ。プラスチックの偽物という訳でもない。
となると、益々どうしてこんな所に鍵穴が?
結局疑問は昨日と同じところに戻ってしまった。
「通行人のいたずら……な訳ないよな……?」
接着剤か何かで付けられているのではないかと試しに指で鍵穴を摘み、ビルから取ってみようとするが鍵穴は全く微動だにしない。
そもそもいたずらにしたって違和感だらけだ。何故こんな所にしかも鍵穴なんかを付ける?
付ける物なんて他にいくらでもあるだろう。
結局考える程に疑問が膨らんでいく一方で何一つ解決しそうになかった。
すると、
「っ!?」
背後に気配を感じ、フッと後ろを見た。
そこにはこちらをじっと見ている老人が立っていた。
いい年のおっさんがこんな道の隅で屈み込んでぶつぶつ何か言っていればこんな視線を向けられるのも当然の話。
彼は鞄を持ちそそくさとその場を立ち去った。
「…………ん」
(一体あの鍵穴は何なんだ)
「…………君」
(しっかり壁に付けてあるってことは工事関係者が付けたってことだよな)
「……い……いる……か」
(オブジェ? けどなんであんな目立たない所に? けど壁に何もなくて地味な灰色一色なのは少しでも目立たせる為か?)
「おい!!」
「っ!?」
会社に着いてからもずっと鍵穴のことを考え通しだった彼は上司の呼び掛けにも気付かなかった。散々名前を呼ばせた挙句、肩を揺さぶられ大声を出させたところでようやく我に返ったのだ。
「も、申し訳ありません」
「昨日言ったことがまだ身に染みていないのかね? これを今日中に仕上げておいてくれ」
「はいっ」
彼は上司にペコペコと頭を下げみっともないと思いながら仕事に戻るのであった。
今日は……と言っても毎日の日課である訳ではないが、鍵穴ビルには行かなかった。
まっすぐ家に帰り、風呂に入ってビールを飲んでテレビを見ていた。
もう鍵穴のことなんて忘れようとしていた。
いくら考え込んだところで答えが出る訳でもないのだ。仮に答えが出たとして、だからどうなる訳でもない。
あの鍵穴は彼の生活にはまるで必要のないものなのだから。
『次の珍しい光景はこちらです』
「……」
呆然とテレビを見ていた彼だったが、今見ている番組はちょうど日本各地の珍しい光景や物などを紹介する番組であった。
それにピクリと反応する。
これは視聴者から寄せられている情報を元にスタッフが現地でその光景を調べる物であり、情報を提供する視聴者はその光景が何故起こっているのかを知っている必要がないのだ。
つまり……、
「これにあの鍵穴を応募してみればあれが何なのか分かるかもしれない」
しかも番組に採用されれば賞金も出る為、まさに一石二鳥であった。
彼は急にウキウキとし出し、早速応募方法を調べ始めるのであった。
翌日の休日。
彼は朝から駅の近くに出かける用があった為雨の中傘を差して家を出た。
用が終わる頃には雨もすっかり止んでいて、傘を片手に今度は例の場所を目指した。
昨晩の番組に応募する際は必ず写真またはビデオを添えて送るようにとあった為、今から撮影をしに行くのだ。
もう鍵穴が何故あんな所にあるのかなんて微塵も考えてはいなかった。
ビルに着き、辺りに人気がなくなったところで手早く撮影を済ませた。
また屈み込んでこそこそ写真を撮っていたら誤解され兼ねない。
無事写真も撮れたところで立ち上がってその場を後にしようとするが、
「またいらしていましたか」
「えっ!?」
急に声を掛けられ、思わずビクリとしてカメラを落としそうになってしまう。
声を掛けたのは先日も彼をじっと見ていたあの老人だった。
「おじいさん、私に何かご用ですか?」
写真を撮っていたことを誤魔化すためにあえて質問をした。
「いえいえ、用ということは」
「そうですか。では私はこれで――」
「ただ……」
早く立ち去りたい彼を引き留めるかのように老人は言葉を遮り、
「次はあなたなのかと」
「?」
彼は老人の意味深な発言に思わず怪訝そうな表情をした。
「と、言いますと?」
「時々いるのですよ。この鍵穴に気付いて虜になってしまう方が。……あなたで四人目ですかな」
「虜と言う程では……」
と否定してみるも、上司の呼びかけすら耳に入らなくなる程考え込んでいたのだからあながち間違いではないのかもしれないと思ってしまう。
「と言うか、おじいさんこの鍵穴が何なのかご存じなんですか?」
「もちろん。わしはこのビルの管理人ですから」
と言うことは、わざわざ番組に応募なんてしなくともこの鍵穴の正体が分かるということだ。
聞いた後は賞金目的で番組に応募すればいい。
とりあえず賞金よりもやはりこの鍵穴の秘密の方が知りたかった。
「おじいさん、これが何なのか教えて下さい」
「……気になるのでしたら――」
老人はポケットから何も付いていない鍵を取り出し、
「ご自分で確かめられてはいかがです?」
老人は鍵を彼に差し出し、にっこりと不気味な程の笑みを浮かべながら、
「ただし、どうなっても責任はとれませんがね?」
その表情といい、言い方といい、不気味で仕方なかったが、今老人の手に自らを悩ませた謎を解く『鍵』が握られているという事実。知りたいという欲。
気付くと彼は鍵を受け取り、あの謎多き鍵穴に差し込んでいた。
ゴクリと唾を飲み込む。
一体何が起こるのか、何が開くのか。
老人のあの不気味な笑みを思い出す。
恐ろしい。
しかしもう彼の手は止まらなかった。
ガッチャン。
――と、数秒に亘って鍵の開く音が響いたように錯覚してしまう。
もう一度ゴクリと唾を飲んだ。
何が起こる?
――ビルが変形するのか?
――隠し扉が現れるのか?
――何かが爆発するのか?
彼が今考えられる限りのことを考えてからゆっくりと、まるで伝説の剣でも引き抜くかのように繊細に、鍵を抜いた。
……。
「あっ‼」
彼は思わず声を漏らした。
変形でも隠し扉でも爆発でもなかった。
もっともっと『小さかった』。
あの鍵穴が、鍵穴自体が小さな扉の様に開いたのだ。
鍵穴の後ろにはこれまた小さな穴が開いている。
「……」
彼は思わず絶句した。
たったこれだけの為に自分は悩まされていたのかと。
彼はガックリと脱力して横を見た。
しかしそこにあの老人の姿はない。
「?」
と、その時だ。
しゅぅぅぅ、と今開いた穴から黒っぽいガスのようなものが噴き出した。
しかしモクモクとはしておらず、霧のような感じだった。
彼は慌てて立ち上がり、自分にまとわりつくように集まってくる黒いガスを振り払おうとする。
「なっぁんっだっ!?」
鍵も放って両手をブンブン振り回すがガスはドンドン彼の体内に侵入していく。
穴からガスが出なくなった頃には仰向けに倒れ込んでしまっていた。
そして頭の中を引っ掻き回されるように様々な負の感情が彼を襲う。
(なんでみんな俺をのけ者にする!? 何故俺をこんなにも不幸にするんだ!? みんな殺してやりたいぃ‼ いや殺すんだ‼ 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す)
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すぅぅぅぅぅぅ‼‼‼‼」
彼は周りの人々が足を止める程大声で騒ぎ立て、そして――。
『次のニュースです。以前ネットで「呪われた場所」として有名になった通り魔事件の現場でまた新たな通り魔事件が発生しました。この現場での通り魔事件は今年に入ってから実に四度目で、ネット上では益々呪いの噂が強まっています。犯人は四十代のサラリーマンで、持っていた傘を凶器に通行人の目を次々と刺していき、たまたま通りかかった警察官に身柄を拘束されました。この事件で死亡者も出ており警察では――』
「いやぁ助かりましたよ。これでまたしばらくは大丈夫でしょう……」
――不可思議なお話。
いかがでしたか?
あの黒い霧が何だったのか
何故穴からあんな霧が出てきたのか
あの老人が何者だったのか
設定はしてありますがしかし、全ては皆様のご想像にお任せしますよ
ご来訪ありがとうございました