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いたみを遠く思ひ出づる日

作者: 星谷菖蒲

 共に生きていく。

 そう選んだのは自分自身であったけれども、こうして考えてみる以前から人間と共に生きてきて、これからも共に生きていくことが当たり前だと思っていた。元々自分という存在が、人間と長く年月を経ることによって生まれたものだからかもしれないけれど。


「いくら仕事がないからとはいえ、僕を雑用にするの止めてくれないかなあ」


 事務所を当てにするのは止めようか、と思いながら手元の小さな紙を見る。暇なら買い物をして来いと、完全に命令口調で言われて渡されたものだ。小ぢんまりとしたその探偵事務所と自分は関係がないわけではないが、従業員ではない。それなのにこうしていいように使われていて、やるせなさがこみ上げる。

 事務所に関係なさそうな重たい本を資料だといって買わされるのも毎度のことだが、その資金はどこからくるのか気になるところである。どれも決して安いものではないというのに。

依頼人は多くないものの、まったくいないわけではない。だからお茶っ葉やお茶請けを用意しておくことは問題ないと思うし、当然だとも思う。それを自分に任せる時点で何か間違っている気もするが、それよりもやはり、荷物持ちだとか便利なやつだとかにしか思われていないことの方が問題だ。


「やっぱり、仕事が見つかるまで行くの止めようかな」


 そう言いながらも店先で物色していると、ふと顔を上げた先に一人の少女がいた。深みのある藍色の着物に、長い黒髪を団子にまとめている。少女が歩くと、髪に挿したかんざしと着物の袂が揺れた。最近は袴を穿いているハイカラとかいう少女をよく見かけるから、普通の着物を着ている人を見るのは久しぶりな気がする。自分も未だに着物なせいか、妙な親近感を覚えた。


「あれ」


 はた、と視線が合った……ような気がする。

 反射的に顔をそらしてしまったから、真偽のほどは定かではない。ゆっくりと顔を元の位置に向けたけれど、少女はいなかった。歩いていたのだし、別に立ち止まったわけではないのだから当然と言えば当然だった。

 とりわけ器量の良い娘ということもなかったけれど、一瞬だけ見えた少女の真っ直ぐな瞳に胸がざわついた。

 気もそぞろに買い物をして、足りないものばかりだと怒られたのは夕方のことだった。




「ここへ来るのも来ないのも勝手だが、あとで仕事をくれと泣きつくなよ」

「泣きついたことないけど」


 嫌いと言うよりは苦手だ、と声の主に対して思いながら、来客用の長椅子に座って自分で煎れたお茶を飲む。頼まれていた物をいくつか買い忘れたけれど、そもそも事務所の従業員でもない相手に頼むのが悪いのだと心の中で責任転嫁した。


「だいたい、方相(かたあい)の事務所じゃないのに、君は何でそんなに偉そうなのさ」


 質問に答えず新聞の向こうに隠れてしまった方相を無言で睨んでいると、正面に事務所の主である御鳥(みどり)が腰を下ろした。


「それより当てはあるのかい、始?」

「ないよ」


 即答すると、御鳥はすぐに言葉を返せず引きつった顔で固まった。

 御鳥は勿論だけれど、方相も実際の所かなりのお節介だと思う。止せばいいのに、関わるから面倒なことになる。きっと当人たちもそれを理解しているだろうけれど、それでも首を突っ込んでしまう性なのだろう。


「ええと……それは、大丈夫?」


 新聞の奥で方相の笑う声が聞こえた。方相は当然だが、御鳥もこれでなかなか失礼だ。顔が笑いを抑えられていないことに気付いているのだろうか。


「なんとかするよ。別に仕事がなくても死なないし」

「この時代で無職は見られたものじゃないけどな」

「方相は一言多い!」


 二人のことは嫌いではないけれど、いいように使われたりいじられたりするから、それにはうんざりしている。


「君ら、結構失礼だよね。……帰るよ、仕事の邪魔をしちゃ悪いし」


 あるかどうか知らないけど、と最後に方相を睨み付けると、読み終えた新聞を畳みながら二対の目で見据えられた。ただでさえ目つきが悪いのに、事務所にいる時は四つ目を隠す般若面をかぶらないものだから、方相に直視されるのはかなり苦手だったりする。


「お前よりはまだあると思うがな」

「宇治、言い過ぎ……」


 御鳥の言葉を聞き終える前に、事務所を飛び出して乱暴に扉を閉める。大きな音がして、中から物が落ちる音がした。方相の机に積んであった本であればいいなと思いながら、足早に歩き出した。




「とはいえ、仕事なんて簡単に見つからないよなあ」


 徳川幕府の頃と違って、維新後からは身元が分からない者を雇ってくれるところは減った。この大正という時代は、人間にとっては便利で暮らしやすい時代なのかもしれない。けれど街に光が溢れ、時代がかったものを排他しようとする動きが現れ、自分や御鳥のような妖怪たちにとっては生きづらい時代になってしまった。

 人間に化けていることが得意なだけの自分では、そもそも何もできないかもしれない。人間についてはそれなりに詳しい自信があるけれど、それが人間らしさと直結するわけではない。仕事が見つかったとしても、それができるかどうかは別問題なのだ。


「……なんで妖怪になんてなっちゃったんだろう」


 自我を持たなければ、幸せだったのだろうか。それとも、幸せという感情さえ持たないままだったのだろうか。

 本来の姿のままでいれば、道の隅で朽ち果てることができるだろうか。

 時折、そんなことを考えてしまう。


「あ、……雨……」


 ぽつりと頬を濡らした滴を拭って空を仰ぐと、雨粒が次々に落ちてきた。小さな水滴は大きな粒となって、肌に触れれば痛いほどの強さで降り注ぐ。傘は持っていないけれど、それでも構わない。何となくこのまま雨に打たれていたい気分だった。余計なことを考えずに、ただ自分が存在していることを感じられるからかもしれない。

 人間と共に生きていくと決めた。

けれど、これからの時代に自分たちのような妖怪という暗闇の世界の住人は必要ないのかもしれない。自分はそれほど古い妖怪ではないから分からないけれど、方相ほど古い妖怪ならば、何度も何度も時代が変わっていく様を見てきたはずだ。それは方相にとって、妖怪にとってどのような意味を持っていたのだろう。これから移り変わっていくこの国は、自分たちに対してどのような意味を持つのだろう。


「……せめて、役に立てるならいいのに」


 こんな姿じゃ、雨に濡れて駆ける人間を助けることもできない。本来の姿に戻れば、一人か二人くらいは雨からその身を守ってやることができる。

 突然怖くなった。自分の記憶にある人々は、傘になった自分を喜んで使ってくれた。しかし今ここにいる人々は、果たして自分を使ってくれるのか。汚い傘だと置き捨てるかもしれない。あるいは、気付きすらしないかもしれない。そんな恐怖が生まれてしまい、立ち止まったまま動けなくなった。

 雨は好きだ。自分が、唐傘という自分の存在している意味を確認できるから。けれど同時に、自分の存在を否定する可能性をも秘めていることに気付いてしまった。

 ――俺は人によって存在を肯定され、同時に否定される。

 いつだったか、方相が言っていたことがある。その時は言っている意味が実感を伴って理解できなかったが、今ならしっかりと理解することができる。所詮、自分たち妖怪の存在は人間に左右されるのだ。

 それでも人間と共に生きていくことを選んだのは自分だ。こうして唐突に、時代と共に変わっていく人間への恐怖を理解してしまうとは思っていなかったからその道を選べたのかもしれない。そしてそれを理解していてなお、この道を選んだ方相は、よほど人間のことが好きなのだろう。


「僕は、どうなんだろう」


 人間の手で生み出され、人間の手を渡って、長い年月を経て人間の手から離れて妖怪になった。人間のことが好きかと問われれば好きな気もするし、本当にそうかと問われればそうではないような気もしてくる。本来は長く形を保っていただけの器物なのだから、自我を形成したとしてもたかがしれているのかもしれない。自分は、自分の存在意義について深く考えることすらできないのだろうか。


「あの」


 本来の役目も果たせず、人間のことをどう思っているのかさえ分からない自分という存在は、一体何なのだろう。


「あの、もし」

「……え?」


 雨の音に混じって、か細い声が聞こえてきて振り返った。すっかり濡れた髪が肌に張り付いているし、着物も水を吸って重たく垂れている。道の真ん中で立ち止まっているはた迷惑な自分にようやく気付いたのはその時だった。


「あ、すみません。お邪魔ですね」


 ぺこりと頭を軽く下げて道を譲ろうとすると、白い手拭いが差し出された。差し出している手は小さく、綺麗な藍色の袂が見えた。つい最近、どこかで見かけた気がする。


「とても濡れていらっしゃいますが、大丈夫ですか? よろしければこれをお使いくださいませ」

「いや、それは……!」


 顔を上げて申し出を断ろうとすると、一人の少女が真っ直ぐな瞳で覗き込んでいた。特別な器量というわけではないけれど、なぜか心惹かれる――いつぞや視線が合った気がした少女だった。


「傘をお貸しできたらいいのですけれど、」

「結構です! 僕、風邪ひかないですから。それにこれも、悪いです」


 濡れた手で触れてしまわないように、差し出された手を戻すように促す。心配そうに見上げる目に、なぜだか胸がざわついた。

 突っ立って考えていたことなど、頭からすべて吹き飛んでしまった。ただ、少女の視線から逃れたい一心で背を向ける。方相の視線とは違って、息苦しさは感じない。けれどどうにも落ち着かない。


「ですが……」

「家、近くなので本当に気にしないでください」


 軽く頭を下げてから駆け出す。近くどころか、行く当てもないのに走り出した足は止まらない。しばらく走ったところで滑りそうになって立ち止まった。肩で息を整えながら後ろを振り返る。少女の姿はもう見えない。


「……何、考えてたんだっけ」


 悩んでいたことが急に馬鹿らしくなって、結局雨の中を歩き続けた。早く仕事を見つけて、受け取れなかったあの手拭いをいつか受け取れるようになりたかった。




「始、そこのお膳を椿の間に持っていってくれ」

「あ、はい!」


 ふらりと街を歩きながら仕事を探していると、身元不詳でも構わないという料亭を見つけた。犯罪者はお断りなんだけどな、と笑いながら迎え入れてくれた店の主人は、料理のいろはを教えてくれた。今まで一度も包丁を握ったことがないと言ったら、さすがに驚かれた。


「ついでに藤の間のお膳も下げておいて」

「わかりました」


 結局、自分は料理には不向きだと判明したので主に配膳をしている。慣れない仕事に失敗をすることもまだ多い。注意はするけれど、決して追い出すことはない主人には感謝してもしきれない。

 いいところだな、と思う。

 自分は元々商家で使われていた傘だから、ある程度の賑わいがあるところで働く方が性に合っているのかもしれない。御鳥の事務所は、方相がいることを差し引いても静かすぎて何となく落ち着かない。

 昼から夜にかけて店を開けているから、自然と事務所に行く機会も減った。おかげでここしばらく、一言多い方相に悩まされることもない。


「あら。始さん、お疲れ様です」


 空になったお膳を持って厨房に戻る途中、従業員ではない女声が聞こえて振り返る。


「あ、ああ。こんにちは、お嬢さん」


 藍色の着物を着た主人の娘が立っていた。女学校を卒業して時折習い事に出かけているこの少女は、自分だけではなく、従業員を見かけると必ず挨拶をしてくれる。

 初めて店の中で会ったときは、互いに「あの雨の日の」と言ってしまった。彼女はお気に入りだという藍色の着物をよく着ていて、好んでいるのか似たような色合いの着物も何枚か持っているようだ。おかげで、彼女の印象はすっかり藍色の着物になってしまった。


「今日も精が出ますね」


 にこりと微笑むお嬢さんに、何となく胸のあたりが落ち着かなくなる。


「し、仕事ですから……お嬢さんはお稽古帰りですか」

「ええ」

「今日は……お花でしたか?」

「ええ。よく覚えていらっしゃいますね」


 お嬢さんの言葉にやはり何となく照れくさくなって、頭を下げるのもそこそこにその場を立ち去った。長話をしていると、後で主人に注意されるというのもある。

 ここで働くようになって、少しは人間の暮らしを身近に学び、人間らしく考えられるようになってきたと思う。

 働くということは大変であると同時に、人々のためになっている。互いに人々のためになることをすることで世間は成り立っており、多くの人間はそれにやりがいを感じているようだ。


「すみません、遅くなりました」

「おう、そこに置いといてくれ」

「はい」


 返事をして指示された場所に空の膳を置くと、手持無沙汰になってしまった。仕事を探してみるけれど、新しく出すお膳もなければ、下げに行く予定の部屋もない。料理の手伝いもできないし、皿洗いは人手が足りている。


「始」

「え? あ、はい」


 仕事をもらえるのだろうかと思って返事すると、品書きにはない控えめの膳を示された。運べということだろうが、特に注文を受けていないはずだから、どこへ持っていくものなのかさっぱり見当が付かない。


「あの、どこに?」

「母屋の方だ」


 母屋、と頭の中で建物の図面を引く。店と、主人一家が住まう静かな母屋とは、二階の渡り廊下でつながっている。母屋へ行く用事はいつも同じため、すぐに自分の仕事を察した。


「分かりました。行ってきます」


 母屋へ――お嬢さんへ食事を届けたら、その日の仕事は終わり。いつもより少し早いけれど、これ以上することもないのだろう。時間ができるのなら、久しぶりに事務所へ顔を出すのも悪くないと思った。




 いつも眉間にしわを寄せている方相のこれほど間の抜けた顔を見るのは、初めてかもしれない。


「唐傘、正気か?」

「解釈はご随意に、と言ったけれど、何をどう解釈したのか聞きたいところだよ」


 読みかけの新聞紙を畳んで机に置き、お茶を飲もうと手を伸ばしては躊躇うことを繰り返す方相が面白くて、ついつい見てしまう。

 料亭で働いていることとその成り行きを話していたら、他者に興味を持たなさそうな方相が、お嬢さんのことについて突っ込んできたから話をした。何を考えているのか訊ねられたから、好きに解釈をしてくれと言った。すると先の言葉と、間抜け面が返ってきたのだ。


「まさかとは思うけれど、方相、僕がお嬢さんに恋をしているとでも勘違いしてない?」

「え、違うのかい」

「御鳥まで……」


 通りで反応がおかしいわけだ。話を聞いていて、何をどう曲解したらそうなるのか教えてほしいものだ。


「唐傘、お前恋などしたことがないだろう。それで今現在、その娘に惚れていないとどうして断言できる」

「だからだよ」


 片眉を吊り上げた方相や、目の前の御鳥は同じ妖怪であっても、自分とは根本的に違う。二人はそれを理解していない――否、理解していても納得できないのかもしれない。所詮異なるものは、互いを完璧に理解することなどできないのだから。


「僕は付喪神(つくもがみ)だ。恋愛なんてするだけ無駄になる」


 御鳥や方相がどうなのかは知らない。けれどあの(さとり)とか言った妖怪は、妖怪の父親と人間の母親の間に生まれたという。いつの間にか自我を持っていた自分とは異なり、親から生まれる妖怪もいるのだ。御鳥や方相はそちら側だが、自分は彼らとは違う。親と呼べるのはせいぜい作ってくれた人間くらいだろう。


「知っていたかい? 付喪神は、子を作れない」


 人間と過ごした時間が自分という妖怪を生み出しているから、姿かたちや思考はおそらく人間に限りなく近い。けれど、決して交わることはできないのだ。

 形ある物は、いつか失われる。


「でも、」

「恋愛は、生殖活動に付随しているものだ。僕たち付喪神には、恋愛感情が必要ない」


 理解してもらえるとは思っていない。それも、御鳥には。妖怪と人間は共に生きていけると、そう思う。けれど子孫を作り命の営みを行えるかといえば、自分に関してはできないと言える。それを認めてしまうのは、御鳥自身にとって辛いことかもしれない。だから認めろとも理解しろとも言わない。ただ、付喪神とはそういうものなのだと知ってほしいだけだ。


「おとろし、今更お前が口を挟めたことじゃない。そういう理になっているんだろうさ」


 頬杖をついた方相は真剣な目をしていた。金色に光る瞳は、御鳥でも自分でもない誰かを映しているように思えた。


「わかったでしょ? 僕がお嬢さんに恋をするなんてこと、あり得ないよ」


 こちらに向けられた方相の視線から逃れるように、顔をそらす。沈みがちの声で御鳥は「うん」と頷いた。

 窓の外を見ると、すっかり暗くなっていた。仕事が早く終わったとはいえ、多少のこと。長話をしていては、当然時間も遅くなる。


「そろそろ帰ろうかな。明日も仕事あるし」

「そうかい。気をつけて……あ、雨が降ってる」


 窓から往来を見下ろした御鳥の言葉に、眉を寄せる。


「御鳥、傘借りてもいい?」

「勿論」


 濃い藍色の和傘と、緋色の和傘がある。方相は貸してくれないだろうから、目だけでどちらが御鳥の物か問う。ところが御鳥はまた窓の外へ顔を向けてしまったので、不運にも方相と目が合ってしまった。


「好きな方を持って行けばいいだろう。というか、傘が傘を使うとは奇妙な話だ」

「今は人間なんだけど」


 厄介な相手から許可が出たので、事務所の主人ではないものの、方相の言葉通り好きな方を使わせてもらうことにした。

 傘の時は濡れることを厭わない、というよりは濡れていないと落ち着かないくらいだけれど、人間の時はそのあたりの感覚も人間に近い。雨に濡れるというのは唐傘としての安心感と同時に、何とも言い難い不快感を与える。


「それじゃ、遅くないうちに返しに来るから」

「待ってるよ」


 新聞を広げて顔を隠した方相と、やっと顔を上げた御鳥に別れを告げて事務所を後にした。

 雨は、強くないけれど長く続いた。




「始さん」

「こんばんは、お嬢さん」


 雨脚が強く、客入りが悪いためいつもより早く店を閉めることになった。時刻はそう遅くないし、往来には街灯があるため常闇にはならないけれど、厚い雲が空を覆っているため、やはりどことなく暗い。

 少しずつ仕事ができるようになって、お嬢さんに夕餉を出した後も片付けや翌日の仕込みを教えてもらえるようになった。難しいことばかりだし、これが今後役に立つ事かわからないけれど、とても楽しいと感じている。

 人間のためになることが嬉しいのではなく、人間と共にいられることが嬉しいのだとわかったのは、ごく最近のことだ。結局まだ返せていない傘を眺めながら、昔から自分の根本は変わっていないのだと気付いた。


「私も手伝いましょうか?」

「大丈夫ですよ。あとは暖簾(のれん)をしまうだけですから。お嬢さんは母屋へ戻ってください」


 表からは下げてあるものの、入り口に置いておいては邪魔になってしまう暖簾をかついで、お嬢さんに母屋へ戻るよう促す。

 ここ数日は、お嬢さんといても胸がざわつくことはなかった。むしろ一緒にいない時の方が落ち着かない気持ちになる。人間よりは唐傘として過ごしていた頃の気持ちに近いかもしれない。そばにいると安心する人間というのはいるものだ。


「あら。始さん、素敵な傘をお持ちなのですね」


 お嬢さんの声に足を止めて、入り口に立てかけてある濃い藍色の和傘を見る。御鳥の事務所で借りて、数日雨が続いているからそのまま借りっぱなしになっている物だ。


「借り物なんですけどね」


 暗くて見づらいだろうに、よほど藍色が好きなのだろう。このまましらばっくれて自分のものにしてしまおうかと思ったけれど、これが御鳥のだったら可哀想だし、傘が傘を持っているというのはやはり変な話だ。借り物だと言ってしまったわけだし、いつか返しに行かなければならない。


「始さん、お仕事頑張っていらっしゃるから、私そのうち素敵な傘を贈りますね」


 結構ですと断る暇も与えないまま、お嬢さんはお気に入りの藍色の袂を翻して母屋の方へ行ってしまった。

 外では、雨が強く地面を叩いていた。




 暖簾をしまう時、納屋が少し散らかっていたので整頓していたら、いつの間にか店の方は静かになっていた。主人に声をかけて、遅くならないうちに出なければ迷惑になってしまう。厨房には姿が見えなかったので、母屋の方だろう。


「……」


 床がぎしりと鳴り、ふと、疑問に思う。よく考えてみれば、自分がまだ挨拶をしていないのに主人が店を離れるだろうか。それにいつもは静かとはいえ、主人がお嬢さんと一緒にいるのなら、賑やかな声が聞こえるはずだ。

母屋の空気がやけにざわついているように感じる。


「……」


 立ち止まり、耳を澄ませた。母屋は広いけれど、音を拾えないほどではない。乱暴な物音と人の声が聞こえた。

 嫌な予感を押さえつけて、音を立てないよう静かに歩き出す。部屋中の明かりが消えていることに、今更気が付いた。


「……」


 足音を立てないように歩かなければならないのに、声が近付くにつれて早まる足を止められない。


「誰だ!」


 視線の先の暗がりで声がした。手に持っていた物を投げると、声の主は鈍く呻いた。


「始、まだ残ってたのか!」

「こいつ従業員か? おい、寝てないで縛って――」


 明かりを見慣れてきたとはいえ、自分は暗闇の世界に生まれた存在だ。ここが母屋の居間で、主人とお嬢さんが二人の人間に詰め寄られていることはすぐに分かった。主人は身体でお嬢さんをかばっていて、脅されているものの二人とも怪我はないようだった。


「強盗か」


 光あるところに、闇はある。人の心も同じ――徳川の頃から、何も変わっていない。

 先ほど呻いた方が近寄ってくる気配がしたので、御鳥や方相のように物理的に対抗することはできないけれど、自分にできることをやろうと睨み付ける。


「ひ……っ」

「おい、どうした!」


 息を飲んで怯む様子を見せたので、そのままもう一人を睨み付けた。主人とお嬢さんに向けて何かを突き付けていたが、手に持っていた何かを取り落して顔を強張らせる。


「ばけ、化け物……!」


 いつの時代だってそうだ。

 自分たち妖怪は、人間から見れば化け物で。

 そしてそう呼ばれることで存在を保って来た。

 あやしのもの。

 それが、自分だ。


「ここから離れろ」

「は、はひぃ!」


 転がるように、暗闇の中を騒々しく駆けて強盗は逃げて行った。大きな物音や悲鳴が聞こえるから、風すらも怖れながら慌てているのだろう。すぐに刀を振り回す士族崩れでなくて良かったと思いながら、主人とお嬢さんに声をかける。


「お二人とも、怪我はありませんか?」

「は、じめ……お前……」


 未だにお嬢さんをかばったままの主人の目に怯えが宿っているのを見て、悟る。

 言い訳などできっこない。一つきりの目を伏せて、唇を噛み締めた。いくら優しい主人でも、自分が妖怪だと知ってしまったからには雇い続けてくれないに違いない。お嬢さんに見られなかっただけ、不幸中の幸いというものだろう。


「お前、それは……」

「お世話になりました。…………さようなら」


 父親の腕の中で怯えたままのお嬢さんと、困惑したような顔を向ける主人に背を向け、床に落ちている物を拾って駆け出した。




 自分を否定される前に逃げ出した。

 唐笠(からかさ)(はじめ)という一人の人間を認めてくれた人に、唐傘という妖怪として存在を否定されることがたまらなく怖くなった。

 妖怪であることを背負って人間と共に生きていくことの辛さを、重さを、初めて理解した。

 今までは分かったような気になって、何も分かっていなかったのだ。

 走って走って、水溜まりに足を取られて転んだ。舗装もされていない人通りのない道で、泥まみれになりながら、雨に打たれながら、それでも名誉の負傷を負った藍色の傘だけは手放さずにうずくまる。


「うっ……」


 雨に打たれて惨めな気分になることなど初めてだった。寒くて冷たくて、どうしようもなく悲しかった。


「……うう……」


 嗚咽を噛み殺しながら、着物がぐしょぐしょになっても雨に打たれていた。




「……で?」

「と、とりあえず着替えなよ」


 入り口で仁王立ちしている方相を押しのけて、御鳥が事務所の中へ入れてくれる。着替えを持ってくるという御鳥に対し、上から下までびしょ濡れなのをさすがに見咎めてか、方相が手拭いを何枚か投げてよこす。せっかくの好意はありがたかったけれど、腕を持ち上げる気力さえなくてそのまま突っ立っていた。目の前で大きな溜息が聞こえる。


「はあ……だから(ろく)な事にならん。人間と関わると」


 手拭いで乱暴に頭を拭かれて、さすがに顔を上げる。


「その汚い泥水を事務所にまき散らされたら面倒なだけだ」

「……君の机を濡らそうか?」

「斬るぞ」

「……」


 憎まれ口を叩くとすぐさま切り返された。黙って為すがままにされる。再び視線を落とすと、方相の金色の髪に滴が飛び移ってきらきらと輝いていた。

 明治、大正と時代は変わった。最近では金色の髪も、以前ほど珍しくなくなった。黄金色の四つ目と髪を持つ方相は、かつてどれだけの人間から恐れられ、拒まれただろう。


「始、これ使っていいよ」

「……うん」


 妖怪にも、人間にも、方相は同じ態度をとる。当然のことながら取っ付き難い印象を与えるけれど、彼の言葉の端々からは本当に人間が好きなのだと伝わってくる。人間の想いから生まれた御鳥とは違い、人間を想うために生まれた方相だからこそ滲み出てしまうのだろう。


「予想はついているが、聞いた方がいいのか?」

「いいよ。どうせ笑われるだけなんだから」


 開かず一緒に濡れてきた藍色の傘を緋色の傘の隣に立てかけて、御鳥から着物を受け取る。色の抜けたそれは、元は傘と同じくらい深い藍色だったようだ。


「お茶を煎れようか。貰い物だけれど、おいしい煎茶があるよ」


 湯を沸かしに行く御鳥の背中を見送り、ようやく自分で体を拭き、適当に着替えた。

 いつもなら有無を言わせず紅茶を淹れさせる方相は、何も言わずに机まで戻った。気を遣っているのが分かりやすい。普段は容赦ない方相にまで気を遣われて、おかしいやら惨めやらで気持ちはぐしゃぐしゃだった。

 客用の長椅子に、乾いた手拭いを一枚敷いてから座る。結い上げた髪を下ろして拭いていると、目の前に温かそうな湯気を昇らせる湯のみが置かれた。いい香りがする。


「どうぞ」

「……ありがとう」


 そっと両手で包むと、芯まで凍えた肌にはとても熱く感じられた。


「宇治も」


 御鳥が方相の机の上にも湯のみを置くと、方相はさっそく手を伸ばして口をつけた。御鳥も自分の席に戻り、少し冷ましてから口をつける。


「あ」


 湯気を払うように息を吹きかけていると、湯のみの中に何かがちらつく。


「茶柱だ」


 ぽつんと揺れているそれは、寂しげに、けれど確かにそこにあった。一日も終わるという時にずぶ濡れの自分に、幸せが訪れるというのだろうか。


「唐傘」

「……何」


 何となく口をつけられないまま水面を見つめていると、空になった湯のみを眺めながら方相が声をかけてきた。


「正気に戻ったか?」


 その問いで、しばらく前のやり取りを鮮明に思い出した。思い切って湯のみに口をつけるとまだ熱く、けれど無理矢理喉の奥へ流し込んだ。


「言ったでしょ。僕は、恋なんてしない」


 いつかは朽ちゆく、形ある物。

 その思いは、人間の形を保っていても消えることはない。自分は、人間とは違う。そして他の妖怪とも違う。

 付喪神の成れの果てがどうなるのか、よく知らない。人間の持つ、未来への不安という感情に似ているかもしれない。けれど彼らは、最後には死んでしまうことを知っている。自分はそれさえも分からない。いつか朽ちると思っていても、確信しているわけではない。

 それは、純粋な恐怖だ。


「最初から、僕が誰かに恋愛感情を持つなんてこと、あるわけがないんだから」


 だから。


「ただ、今の場所には居られなくなっただけ」


 そういうことだ。


「……そうだろうな。いくら人通りの少ない時間とはいえ、そんな顔で走り回ったんじゃ何があったのか一目瞭然だ」


 方相の言葉の意味が一瞬理解できず、何度か瞬きをしてようやく気が付いた。慌てて両手で顔を覆う。


「自分から妖怪だと触れ回って、お前は馬鹿か」


 主人に正体を知られてそのまま店を飛び出したから、一つ目のままだった。いくら動揺していたとはいえ、この大正の時代にあるまじき失態だ。


「ていうか、御鳥も早く言ってくれないかな、そういうことは!」

「ごめん。それに触れるのは良くないのかなと思って」


 金色に光る二対の目と、額から伸びる二つの角を隠そうともせずに呆れ顔を浮かべている方相に言われたくはない言葉だけれど、かといって言い返せばまた嫌味が返ってくるだけだろう。そもそもこういう意味ではなかったのだけれど、おそらく方相や御鳥なりに気を遣ってくれたのだ。言いたいのなら止めないけれど、言いたくないのならその必要はないと。


「俺の事務所ではないから、そこのおとろしに頼んでみることだ。しばらく厄介になる、とな」

「それじゃあ泣きついてるみたいじゃないか」


 違うのか、と小ばかにしたように笑う方相に心底腹を立てる。やはり、方相のことは嫌いかもしれない。


「歓迎はするよ。新しい仕事が見つかるまでだろう?」


 湯のみを回収している威厳のない事務所の主人は、微笑みながら方相をたしなめた。御鳥が分かっていることなのだから、当然方相も分かっているはず。それでもわざと引っかかる言い方をしてくるのだから、性格が悪いとしか言いようがない。


「そういうことだけど……」


 これでまた、しばらく雑用にされるのかと思うとやるせない。そんな心境を見透かしたような方相の視線を感じて顔を上げる。


「とりあえず、そこの使い物にならなくなった傘の代わりを買いに行くんだな」


 骨が折れて紙が破れた、泥まみれの濡れた傘。

 嫌な予感がして御鳥に視線を向けると、気付いた御鳥は口だけで「ご愁傷様」と言った。藍色の方が方相のものだったようだ。


「どうせ引きこもってて使わないでしょ」


 新しい物を買うつもりはあったけれど、素直に従うのも癪なので嫌味ったらしく言ってやる。


「ほう。俺は引きこもっていてもいいわけか」


 にやりと笑った方相を見て、墓穴を掘ったことを知る。


「……わかったよ! そのうち買ってくるから!」


 趣味の悪い傘を買ってこようと心に決めた。




 緋色の和傘を差しながら、店先を見て歩く。

 女性向けの洒落た西洋風の傘や、品の良い傘ばかりで、趣味の悪い傘など見当たらない。

 新しく買うくらいなら、適当なものを作ってくれてやる方がいい気がしてきた。しかし傘として作られはしたものの、自分が傘を張れるかとなればおそらくできないだろう。女性向けの物は高いので、一番安い物を買って帰ろうと手近な店の戸を開けた。

 色とりどりの傘が咲き乱れる中、店員と会話している男女がいる。顔はよく見えないけれど、ハイカラではない藍色の着物には見覚えがあった。

 すぐさま店を飛び出して、向かいの店に駆け込む。よく見ずに、適当に指を差して傘を買った。そのまま包んでもらい、帰途についた。緋色を揺らしながら、人ごみに藍色を探している自分に気付かない振りをした。

 共に生きていこう。

 そう思ったけれど、人間として生きていくことは存外難しいのだと知った。

部誌に提出した作品で、手直しはしていません。


題名は、石川啄木の句から取っています。

「砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く 思ひ出づる日」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 違う立場、違う種族、けれども心は変わらない。それでもやはり相容れない。 なんともやり場の無い悲しみが、切々と伝わりました。 [一言] ありがとうございます。綺麗な作品でした。
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