17 戻らないモノ
松谷警察署での記者会見が開かれる1時間半前、智花は日協医大病院にいた。
看護師長と呼ばれる年配の女性に連れられて、ICUに入った。
「今当直の先生をお呼びします。」
看護師長は部屋を後にした。
点滴のチューブに何本もつながれ、ピ、ピ、と光雄の鼓動に合わせて機械が電子音を奏でている。
取りも直すも、それは光雄の生命が維持されているという事でもあった。
しかし、右の肩の辺りはギプスで大きく盛り上がり、左足の辺りにある足首の膨らみとは非対称に、あるべきものが無かった。
智花は言葉が出なかった。
涙だけが止まらない。
当直の医師が入ってきた。
「中林光雄さんの奥さんですね。」
初老の白衣の男性が声をかけた。
「そちらにおかけください。」
医師は光雄のベッドの脇にあるパイプ椅子に智花を座らせた。
「旦那さん、光雄さんの容態についてですが、先程ご両親が見えられた時に一旦意識を回復されました。少し興奮状態でしたので、意識を失ったあと、鎮静剤で眠ってもらっています。」
「あの…命に別条は…?」
「ご安心下さい。安定しています。間も無くICUから、一般の病室に移動してもらいますよ。ただ…」
医師が口ごもる。
「車に右肩と右足を踏まれて、更に悪い事に、右脚は踏まれた状態でアクセルを踏まれたのでしょう、修復は不可能な状態でした。」
「つまり…」
「その状態で接合手術をすると、生命に危険が及ぶ可能性があった為、ご両親に確認を頂き、切断に及んでいます。」
「そんな……そんな……」
「多分そんなご主人を勇気づける事ができるのは、奥さんだけです。あと1時間位で目を覚ますと思いますから、それまでこちらでゆっくりしていて下さい。寝ていらっしゃらないでしょうから。」
確かに昨晩から智花は一睡もしていない。
泣くのは体力を消耗する。
医師の言っていることは間違いないだろう。
警察署にいる時以外は、殆ど泣いていた。そして、過酷な運命にまた涙がこぼれ落ちる。こんなに泣いたのはいつ以来だろう?
どの位時間が経っただろうか?
いつの間にか智花は光雄のベッドで俯せで寝ていた。
とも…か…
呻き声が聞こえた。虚ろなまどろみから、ハッとして、光雄に語りかけた。
「光雄君、判る?私、智花!」
「けい…たい…証拠…俺は…ない…。何も…」
携帯?証拠?
そういえば、健三もとにかく証拠を残せと、モバイルデバイスを使えと言っていた。中林家ではそういう教えなのだろうか?
一昔前ならいざ知らず、今時のスマホは音質が良い。声紋の判別も出来よう。
「あし…痛い…ないはずのあし…すごく…痛い。もう、しご…とが…出来ない」
酸素マスクを装着した、傷だらけのその痛々しい顔から、涙がポロポロ落ちている。
光雄は目をつぶり、コーッとマスク越しに深く息をして、智花に語りかけた。
「電話台の…下に、緑色のふ…ファイル…。家…持ってきて…大事な…」
「何?持って来ればいいの?ファイル?」
「そう、ファイル…ここに…来る…まで、中は…みな…い」
光雄の目は懇願していた。
「解ったわ。今すぐ持って来るね。」
せっかく意識が戻り、少しでもそばにいたいのに、励ませられるのは私だけなのに。
そう智花は思ったが、今は光雄の望みは何でも叶えようと思い、近くにいた看護師に事情を話し、自宅へ向かった。
光雄は智花のいなくなった病室で、これから自分が下す決断が本当に正しいのか、眼前に広がる病室の格子模様の数を数えながら、真剣に考えていた。
あの電流は、きっと今感じている痛みだったのだろう。
智花が来る前に、少しだけ考える時間があった。
人生、の節目節目に感じた違和感、智花は僕のターニングポイントだろうと言っていた。
しかし、幾つかの節目では、感じなかった。
特に麻木社長に啖呵を切って前の会社を辞めた時、当然来るものと思った衝撃が来なかった。
そして奇妙なのは、時々、それもあの痛みがでた時に、人生のダイジェスト版?と思える感覚があったこと。
直近から思い出すと、一昨日、布団に入って突然消えたあれ、そして、智花のご主人様電話。気を失う位衝撃的だったっけ。
どうせ入院もしているし、時間はある。あの電流がいつからかを考えてみて、その逆の行動をとったらどうなっていたかをシミュレーションしてみよう。
まず、事故の前日、布団に入って消えたあれ、あまりにも気持ちの良いマッサージでねてしまったが、寝ないで夫婦の関係をしていたら?
いや、これは何かが変わるとも思えない。
次、智花の謎の電話を聞いてしまった時。
あの時電話の内容をきちんと聞いて、問うてみたら?
いや、あの時は夫婦の仲が良くなかった時期だ。いい雰囲気になったのは、愛人契約の誤解が解けた後だった。
口を挟めば最悪の状況も考えられただろう。
その前、異動の時。
異動を承諾したのだが、それを断固拒否していたら?
基本的に駒ヶ根では、利益を生み出す者が多くの給料を得る、だから踏み留まれば最終的に今の職業とは出会っていないだろう。
まて、あの時単なる異動の話なのに、智花はなんで僕に向かって愛人契約とかの話をしたんだ?
愛人契約は、その後に明るみになった麻木社長の考えであり、それらしい話をした覚えは無い。
その後の智花の電話を再び思い出す。
確か『ご主人様』とか『勘弁して下さい』とか、そんな風な感じの内容だった。
もしかして、智花自身が誰かと愛人契約を結んでいたのではないか?
内容からすれば、奴隷の契約とか……
クレーム対応部署に異動してからの給料では、マンションのローン、生活費、娘の幼稚園、賄う事が難しいのではないか?
いや、今はシミュレーションだ。
疑惑を考える時ではない。
その前はいつだったか?
確か、駒ヶ根の内定が出た時だったか。
もし駒ヶ根を選ばずに、他の会社を探してみたら?
最終的に、愛人契約なんて誤解はされなかったのではないか?
誤解?誤解ではなく、自分自身がそのような事をしているのであれば、自然とそのように疑うのではないか?
結婚式の時。
そして智花を初めて誘った時。
?
初めて誘った時?
不思議と二つの記憶がある。
一つは普通にドライブに誘ったというもの、一つは誘うと同時に告白、それも今思うと、こっぱずかしい結婚の申し込みまで衆人環視の元、同時にしてしまった事。
なんでだろうか?
まあ、いい。
その時に智花を選ばなかったとしたら……
それらの追憶から、一つの仮定を導き出した。
自分が様々な選択を、最善の逆の事をしてしまった為、生活が苦しくなってしまった。
そのため、智花は自分の身を削って、生活の糧を僕以外の所から得ていた。
僕のせいで。
僕の不甲斐なさで。
20年も一緒にいて、愛をもって接して来たつもりだったのが、自己満足だけだった。
今までの『ターニングポイント』の時に、逆の選択をしていたら、智花に辛い思いをさせてなかっただろう。
おぼろげな記憶の中、どのシーンも二つの記憶がある。
上手く考えられないが、一つはオンタイム、一つはダイジェスト版の様な気がする。
この痛みは罰なのだ。
あの電流は、警告だったのだ。
智花をこれ以上辛い目に合わせられない。
光雄は、引き返さない決意を固めたところで、智花が自宅から戻って来た。
「ファイル、持ってきたよ。大変だったよ。テレビカメラが来ていて、インタビューされたの。あなたが無実だって警察から発表があったって言ってた。信じていたって答えたよ。
私、信じていたよ。ほん…と…ぅ…に」
言葉が出なくなり、再び智花の目から雫が流れ出す。
その涙と信じていたという智花の言葉に光雄の決意が一瞬揺らぐ。
しかし、自分の為に最愛の人をこれ以上苦しめられないと、心を鬼にして、残酷な決断を智花に伝えるべく口を開いた。
先程より言葉は大分出るようになっている。
「智花……ファイルを……開けて」
智花は涙を拭いながら、光雄の言葉に従った。
【来るべき時まで絶対に開封しないこと】と書かれた黒いファイルは、しっかりと封が閉じられていた。
書類が数枚入っていて、誰が見ても何のために使うものか、すぐわかるものであった。
「これは…光雄…くん?何を…」