16 解放
8月という事もあり、6時を過ぎるともう、さんさんと太陽が辺りを照らしつける。
光雄の両親が病院を出ると、テレビ局のレポーターが数人近寄ってきた。
ここに光雄が入院している事をどこで聞きつけたのか?何本ものマイクが寄ってくる。
「中林容疑者のご両親ですよね、今のご心境をお聞かせ下さい。」
「息子さんが麻薬事件の抗争に関わった事について、どのようにお考えですか?」
全くデリカシーもあったものではない。
ただ、ここで怒鳴り散らしても何も産み出さない。
そう考えた健三は、一言。
「息子はなにもしていないと信じています。失礼します。」
タクシーを捕まえて、松谷警察に向かった。
「まだお話し頂けませんか?光雄さんの命に別条はないとお伝えしましたよね?
だったら、奥さんも約束を守って欲しいンですよね、や・く・そ・くをね。」
矢嶋の執拗な取り調べが続いている。
「ですから、残念ながら、私は何も存じ上げませんと約束通り、事実を申しています。」
助けて!お義父さん!叫びたい気持ちで智花は一杯だった。
既に携帯の電池は切れているだろう。
お義父さんとのライフラインはもう途切れていると考えるのが普通だろう。
こういう場合は、知らない事は知らないと毅然とした方が良いのだろうか?
何度目が判らない沈黙の後、電話が鳴った。
「矢嶋課長?少し良いですか?」
矢嶋が電話に出た部下に呼ばれる。
何やら暫く話し込んだ後、不機嫌そうな顔をしながら近づいてきた。
「今日の所はここまでだ。ただ、覚えておけ、これで終わりと思うなよ。お前らが犯罪者という事を刻み付けてやるからな!」
智花は思った。
何故矢嶋はここまで汚く罵るのだろうか?でも、何とか乗り切った。光雄くん…
解放された安堵と、すぐにでも光雄の所に向かいたいという衝動に駆られていた。
朝のワイドショーで、この事件の事は大きく取り上げられた。
難しい顔をしたコメンテーターが、まるで光雄の自業自得のような発言をする。
他のチャンネルでは、警察の発表に基づいて事実を淡々と伝え、また他のチャンネルでは背後関係について、面白おかしく勝手に推測して電波を垂れ流していた。
健三のコメントを親バカ発言と断罪する局もあった。
電話を置いた俊晴は、苦々しい顔をして、テレビを見ていた。
まずは生活安全課の暴走には釘を刺した。
ただ、マスコミ対策は出遅れた。暫くは我がマンション住人に影響が出るだろう。
そして、光雄の容態が安定した今、最大の問題は俊樹のドラッグであった。
俊晴は制服に着替えて、車に向かった。
やはりマスコミはこのマンションの入り口に張っている。
副署長である自分が何か答える訳にもいかないだろう。裏の通用口から、そそくさと車を走らせた。
智花が病院に向かったのとほぼ入れ違いで、健三を乗せたタクシーが警察に到着した。マスコミは門外にいて、囲まれるような事はなかった。
「生活安全課はどちらだ?」
まだ人気の少ない警察署に健三の声が響く。
婦警が生活安全課に案内した。
「中林の件で捜査している責任者を出して頂きたいッ」
「何なんですか?あなたは?」
何やら作業をしていた署員が健三に詰め寄る。
「中林よ う ぎ しゃの父親だ。証拠品について、お聞かせ願いたい。」
ザワザワしていた課内が一瞬シーンとなる。
「私が責任者の矢嶋だ。あなたは?」
「失礼。中林光雄の父親だ。不当に我が息子の光雄に容疑をかけて、あまつさえ全く関係のない妻、智花に任意同行と言いつつ、熾烈な取り調べをした事は遺憾である。
病院の光雄の証言から、新たな事実が判ったので、私が立会いの元、確認を頂きたい。」
「捜査事項については、何もお話し出来ない。以上だ。お引き取り下さい。」
「私が知りたいのは真実だけだ。新たな事実が判ったと言っているだろう?
逆に捜査に協力をしようと申し出ていると考えられないかね?」
「お引き取り下さいと申し上げたはずだ。それとも、『捜査の妨害』をしたと公務執行妨害で捕まりたいのか?
元陸上自衛隊の中林陸将補?
残念ながら、あんたは退官した今、何の公的権力は無い。そればかりか、晩節を汚すような愚行に走る程の、出来た息子なのかねぇ?中林容疑者さんは。あっはっはっ」
矢嶋の口調からは、明らかな敵意と挑発に満ちたものが感じられた。
矢嶋のデスクの後方で、大きくため息をつく署員がいた。
証拠品として押収した、光雄の携帯電話の暗証番号が、解読できていないのだ。
「やしまさーん、その方に、暗証番号を聞いたらどうッスかねぇー?これ以上やると、データがオールリセットされるかもしれないッす。」
確かに今時の携帯電話は、10回連続でパスワードを間違うと、本体をリセットしてしまう様に設定も出来る。
しかし、矢嶋は健三に相談することはなかった。
「……犯罪者じゃないなら、仕立て上げるまでだ。」
悪魔の呟きは誰にも聞かれることはなかった。
「構わん、リセットされても致し方ない。やるんだ。」
「はい、あー、これも違う。やしまさーん、リセットの設定はされてなかったッす。」
リセットされれば良かったのに…チッと矢嶋は舌打ちをした。
「副署長、ご出勤早々で申し訳ありませんが、県警本部の薬物銃器対策課から、野明課長がいらっしゃいました。」
そうだよね、麻薬捜査だと、やっぱり生活安全部じゃなくて、刑事部が出張って来るよね…
松井は大きくため息をついた。
署に着いたらもう県警本部から、無頼派の刑事部の課長さんが来てれば、それは憂鬱にもなろう。
ましてや、生活安全課に、光雄の状況を無理矢理聞き出し、智花を解放させたという、後ろめたさもあった。
「判った。生活安全課に寄ってから…」
「いえ、その生活安全課にいらしているそうです。」
まずい。何も対策をしていない。
自分が仕向けたとはいえ、光雄に恐らく罪はない。いや、むしろ被害者だ。
重い足取りで3階に向かった。
そこで目にしたのが、健三と矢嶋の口論であった。
「何の騒ぎだ?ッ!中林一佐?」
「ん!松井クン、実は光雄がベッドで、携帯電話に決定的な証拠があると話してくれたのだ。それを説明しても、この責任者は公務執行妨害を盾に、取り合おうとせんのだ。」
興奮しながら健三が松井に詰め寄ろうとする。
「まあまあまあ、それじゃあ、その証拠とやらを、みてみようじゃないか。」
松井が口を開くよりも先に、野明が興味深そうに、口を挟んできた。
「課長ッ!いけません!我々警察に不利益となる可能性は、排除すべきです!」
「ん?、不利益?矢嶋君は何を言ってるんだ?
我々警察は、真実に基づいて犯罪を白日の下にするのが仕事だろう?」
野明は、シワの寄った顔の口角を上げ、眉間にしわを寄せた複雑な表情で語った。
「はッ、失礼致しました。おい、携帯電話をこちらに。」
矢嶋は携帯を松井らのところに持って来る。
「中林一佐、暗証番号はご存知ですか?」
「ああ、知っている。ただ、一佐はやめてくれ。退官した公的権力の無い、一介の老人だよ。私は。」
健三は自虐的に肩をすくめてうそぶいた。
「一本とられましたなあ、矢嶋クン」
野明は細い目を更に細くして矢嶋の方を見た。
ボイスメモで録音された内容は、警察にとって、衝撃的なものであった。
まず、光雄は偶然遭遇した事故の被害者であること。
エクスタシーの過剰摂取、着衣を乱された状態で発見された和気井瑞穂とは、面識がない模様。
第三者に因る犯罪であること。
そして、意識を失うまで、冷静に記録した光雄の行動。
「あーあ、捜査のやり直しじゃねーかよ!だからこんなの聞かない方が…」
矢嶋が投げやりにボヤこうとした瞬間、野明の怒号が飛んだ。
「バカモノォッ!」
それから2時間後、松谷警察署では、昨夜の発表を訂正する記者会見が開かれた。