11 8月25日
その日は特に暑い日だった。
そういう日に限って…なんて事は無く、何時もとなんら変わらない一日であった。
2月と8月は経済の低迷期であるため、ニッパチと呼ばれるように、このハイヤー会社も御多分に漏れず、暇な時が流れていた。
中林さん?
営業の三嶋が、光雄に声をかけた。
「以前中林さんが運転した、松丸工業さんだけど、えらく先方さんが気に入ってくれて、中林さんで専属契約したいって言ってきてくれたんだ。出来るかな?」
入社間もないドライバーに、この様な声がかかるのは稀であり、誇るべきことである。
運や迷信を信じない光雄でも、これは運が巡ってきたと考えることは無理もないし、断る理由も無い為、光雄は二つ返事で承諾した。
「じゃあさ、これから松丸工業さんへ行けるかな?」
「もちろんです。」
専属契約とは、いわゆるお抱えの運転手さんの事で、緑ナンバーのハイヤーを運転する、その人専用のドライバーとなる契約のことである。
通常この契約は、営業社員がこの人ならと推薦し、面接と試乗した上で締結されるものであるが、今回は先方希望ということで、面接のみだけであった。
恰幅の良い専務が上機嫌で光雄と三嶋に話しかける。
「いやあ、あのゴルフの時の中林クンの機転の利かせ方とか、渋滞の時に僕を楽しませてくれた事とか、やけに印象に残ってね、専属契約を三嶋さんから勧められた時に、まずは君にお願いしたいと思ったんだよ。」
そのゴルフとは、ラウンド中に急に会社に戻らなくてはいけなくなり、帰りの道中、御多分に洩れず渋滞のどツボにハマりかけていた時、ここで降りますといきなり宣言し、首都高を途中のランプで降り、裏道を駆使してなんとか時間に間に合わせた時のことである。
ただ、迂回路もそこそこ混んでおり、イライラしかけた専務に対し、和ませるような会話で、安心をさせたという新人らしからぬ行動を披露したことが、今回の決定打となったようだ。
「どうだろう、中林クン。君がうんと言ってくれればすぐにでも契約したいのだけどね。」
そもそも選択権がこちらにあるということ自体、普通ではない。
やれと言われたら合法の範囲でやる。
それがハイヤーマンなのだ。
ましてこのご時世、コストカットの嵐で、役員のハイヤー利用も伸び悩んでいた。
渡りに船と、光雄はやらせて欲しいと意思を表明した。
隣では三嶋がにっこりとしていた。
「それじゃ、来週の月曜日からでもお願いするよ。朝は早いけど、僕の時間を作ることに協力してほしい。」
時間を作って欲しい。ハイヤー乗務員の本懐でもある専務の言葉は、光雄の心に響いた。
来週の月曜日ということは、28日からだな。
収入は駒ヶ根の時の1.5倍になっているし、安定もこれで確保できる。
何より智花にこれで安心をしてもらえる。
この後に仕事が入ってしまったので、遅くなってしまったのだか、光雄は嬉々として、帰宅した。
暑い時はシャワーだけ浴びる。湯船なんかに浸かったら、熱中症で死んでしまう。
夕飯を食べながら、光雄は智花をダイニングテーブルにつかせた。
そして智花に嬉しそうに今日の出来事を話した。
「すごいじゃない!」
智花も嬉しそうに反応する。
「でもさ、ほとんど毎日泊りになるかもだよ?」
「私は大丈夫。あなたの喜んで仕事をする姿も大好きだから!」
二人の楽しそうな会話に起こされたのか、小学3年生となった長女の翼が起きてきた。
ニコニコしている両親に釣られるように、翼が光雄に話しかける。
「今日もね、未来ちゃんと遊んだんだよ。未来ちゃんパパも、マリオカート手伝ってくれて、150ccのスターカップの解き方を教えてくれたんだ。」
屈託のない笑顔で嬉しそうに報告する。そのそばで、一瞬智花の顔が曇ったのを、光雄は見逃していた。
「へー、じゃあ、今度パパの休みの時にマリオカートを買いに行こうか?」
ソファで足をバタバタさせながら、翼は叫んだ。
「本当?ヤッター!」
「それじゃ、夜も遅いしもう寝なさい。夏休みの宿題は朝早い時間にやるんだよ。」
「わかったー。おやすみー」
翼は元気良く部屋に帰っていった。
「しばらくは、これをネタにお手伝いとか、やってもらえばいいじゃん?」
「そうだね。でも、あまり甘やかさないの。あなたは翼に甘々ね。」
「まあ、今迄我慢させてきたし、夏休みの最後の思い出でも作ってやろうよ。
ところで、未来ちゃんって、松井さんのところの?ピアノの先生だよね、ママさんは。」
「…そ、そう。結構お邪魔させてもらってる。翼のレッスンのない時も、碧葉が下の美裕ちゃんと同い年だからね。」
その話題にはあまり触れて欲しくない。できればあの契約が成立するまで。智花はドキドキしながら、しかし、変に会話を変えて怪しまれないようにしなければと、慎重に言葉を選んだ。
「ママ友のネットワークは大切なんだよなー、明らかに子供のトモダチ関係に影響するもんな。」
大きくあくびをしながら、
「じゃ、明日も早いから、寝るわ。ん!ぐわっ!!」
ここしばらく出ていなかった電流である。それも特大級の、痛みすら伴う激しいものであった。
痛い!足が砕けるようだ!砕けたこと無いけど。
目の前で悶絶している光雄を前に、智花は別の心配をしていた。
光雄がこんな状況じゃ、するまで持っていけない。せっかくのチャンスなのに。呪縛から解放される最大の機会なのに……
智花は光雄がいつも寝ている和室になんとか運んでいき、敷いていた布団に寝せたところ、光雄の表情が途端に和らぐ。
「はぁ、はぁ、一体今のは何だったんだ?それも布団の上に来たら急に止んだみたい。いつものしびれ程度じゃ済まないぞ。」
「何の分岐点なんだろうね?」
智花が光雄に相槌を打ちながらも、心の底では、『お願い、私を抱いて。早く解放させて』と思っていた。
「専属の件かな?それとも別の…」
悩む光雄をよそに、いかにして自分から誘わず行為まで持ち込むか、智花はある事を思い出した。
それは、インターネット掲示板【ゼロチャンネル】の夫婦板にあった、セックスレス解消のスレッドに書かれてあった。
【まずはスキンシップを図ること、別にエッチなものではなく、肩もみとか、腰とか、とにかく相手を慈しむように、会話を楽しむように解消していけばいいかもな】
【禿同。男でも女でもコミュニケーションが大切だよね。今日試してみる。】
【お前らドサクサに紛れてガバッとやるなよ、ムード作りだ。】
男性目線の意見が多い中、女性からと思われる書き込みも散見される。
電流の件もあるから、マッサージから始めよう。
そう決めて、智花は光雄に提案した。
「ねえあなた、疲れているだろうし、さっきの件もあるから、マッサージしてあげる。うつ伏せになって。」
確かにこの頃疲れている。運転姿勢もいわゆる10時10分ハンドルで、肩は凝るし、腰も同じ姿勢を取るため、身体中ゴリゴリだ。
「お願いしようかな?どういう風の吹き回し?」
「頑張っている人へのご褒美よ。」
うつ伏せ状態の光雄お尻のの上に、智花が跨がる。
優しく、また時には力強く、癒すようにじっくりと揉みほぐして行く。
10分位たった時であろうか、智花は光雄の異変に気づいた。
いびきをかいて寝てしまったのだ。
「しまった…上手すぎた…。」
光雄の寝起きは最悪で、とにかく機嫌が悪い。このまま起こしても、期待通りの事は起きないであろう。
このまさかの展開に、智花は呆然と光雄を見つめるだけであった。