10 ハイヤー乗務員として
光雄は41歳にして、二度目の転職をした。
ハイヤーというものは、東京と、それ以外の地域では、同じ名前でもその交通機関の性格が大きく異なってくる。
東京以外では、タクシーの延長線上か、もしくはタクシーそのものだったりする。
しかし、東京では、個別高級輸送機関という意味になる。
タクシーと違って、車体に行灯が付いていない、運転席と助手席のドアに会社の名前が書いておらず、マークだけ。
外面を見ると、それ位しか違いはないだろう。
しかし、光雄が入社して目にした現実は、目から鱗が落ちるほどの違いであった。
まず、タクシーは、流し営業といって、街中で不特定多数の客を運ぶのが基本である。
車種もコンフォート等で、LPGが燃料という事が多い。
それに対してハイヤーは、営業所で待つ。その日の仕事をデスクが割り振り、客の所に向う。
車種はクラウンやフーガ、ベルファイヤー、更にセンチュリーやレクサスもあった。もちろんガソリンエンジンであるし、中にはハイブリッド車もある。
タクシードライバーというと、言い方は失礼だが、第二ボタンまで外したワイシャツにベスト、運転席には、数珠のようなカバーが定番で、ぶっきらぼうだが人懐こいというイメージがあるが、ハイヤーマンは真夏でもネクタイ、スーツを着用。
必要な時以外は客に対して話しかけてはいけないし、問いかけに対してもトンチンカンな答えは禁忌である。
隊長と呼ばれる教官の指導のもと、同期の仲間が次々に脱落して行く。
あるものはタクシーへ、あるものはトラックの運転手へ、あるものは音信不通となった者もいた。
そうして骨の髄までハイヤーマンとしての考え方を叩き込まれて行ったのだ。
ハイヤー乗務員の生活は不規則であった。土日であろうと、客から要望があれば、朝4時にはゴルフの送迎をし、ラウンド中は出口付近を目配せする。
平日は、各企業のスポットの仕事がある。接待のため、銀座で何時間も待機する事は、ザラであった。
光雄はそういった不規則な生活のために、帰宅する際、何もなければ帰るコールをするし、夜の8時までに連絡がなければ、その日は泊まりという事で、智花と取り決めていた。
「中林さーん」
ある程度仕事も覚え、正式採用となったある日、デスクが光雄に仕事を割り振った。
指示書には、信じられない文字が記載されていた。
『駒ヶ根トータルライフ 麻木社長 中林さんを希望。会社〜接待〜自宅送り』
紛れもなくあの社長である。
どこで調べたのか?
今度は何のつもりか?
前の会社には、誰にも転職先は告げていない。中林さんを希望?
受注した営業さんは不審に思わなかったのか?
しかし、気持ちは吹っ切れている。
あくまでも運転手とお客様だ。
そう考えることにし、光雄は仕事を受けた。
普段と変わらない接客で、光雄は麻木社長を迎えた。
先にも述べたように、ハイヤーマンは客に対して話しかけてはいけないという大原則があるので、道中終始無言を貫こうとしていた。
そこに麻木が光雄に話し掛ける。
「中林さん、最近どう?」
「おかげさまで。」
素っ気なく答える。
「貴方が会社を去ってから、色々と考え方を変えてみたの。」
「左様でございますか。」
あくまでも運転手とお客様、運転手とお客様、光雄は平常心を心掛けた。
麻木は話を続けた。
「正直に言うと、他にもお金で社員を買っていたわ。男の社員だけでなく、女の社員もね。
でも、愛人契約を辞めようとしたら、どうなったと思う?」
「申し訳ございませんが、わかりかねます。」
「みーんな去っちゃった。所詮お金だけのつながりだったんだよね。身体は買えるけど、心は買えないんだね。阿部も、渡辺も、太田も……」
「……」
ハイヤー乗務員の大原則に、話を膨らませてはいけないということもあったため、光雄は何も答えなかった。
「貴方はそんな私を見限った。でも、私に気付かせてくれた。本っ当に感謝しているわ。」
「恐れ入ります……」
「ただね、いつもお酒を飲む時に使わせてもらっているハイヤーの別の運転手さんに、どう話をしたのか、貴方がいるという事を教えてもらったの。居ても立っても居られなくなって、今日依頼をする時に、貴方を指名させてもらったんだ。」
一体どこの誰が、僕の個人情報を漏らしたんだ?コンプライアンスはどうなっているのか?訝しみながらも形式上返事をする。
「ありがとうございます。」
「多分貴方を指名するのは最初で最後。一つお願いがあるのだけど、今日の酒席での相手を、ご自宅まで送ってもらえる?
拘束時間でお給料が違うんでしょう?
せめてものお礼にお願い。」
少し考えたが、こう答えた。
「デスクに相談し、許可を得てから回答させて頂きます。」
麻木社長が宴席に行っている間、光雄はデスクにお客様のご要望で、他のお客様をご自宅までお送りしてほしい旨ご希望があったと報告した。
この後の仕事は特段組まれておらず、承諾するようにと指示があった。
3時間後、麻木は男と出て来た。
光雄はその男に見覚えがあった。どこで出会ったのかはわからないが、確かに会った事がある。
「こちら松谷警察署の副署長さんの松井さん。私を自宅まで送った後に、松井さんをご自宅まで送ってね。」
ハイヤーのバックミラーは、直接客と目が合わないように、防眩側にセットするものであったため、暗がりの鏡の中では、表情はうかがい知れなかった。
とにかくハイヤー乗務員は、平常心を求められる。
くちゅ、くちゅ、とディープキスをする音が聞こえてくる。
静粛性を考えたハイヤーでは、衣擦れの音すら室内に響き渡るのだ。
「アン、駄目、今日だけは駄目っ」
そんな声が聞こえてきた。
光雄はとにかく早くこの場から解放されたかった。
30分程で、麻木の自宅マンションに到着した。
「今日はありがとう。ここでちょっと待ってて。」
そう言うと、松井と麻木は部屋に消えて行った。
およそ1時間の後、松井一人が車に乗り込んできた。
「南松谷⚪︎丁目のステージマンションへ頼む。」
そこで光雄は思い出した。
同じマンションの理事会で会った事がある、娘の同級生のパパさんだ。
しかし、例えそうであっても話しかけてはいけない。
「かしこまりました」
そう答え、車を走らせた。
初めて行くところはナビをセットする事が多いが、自分の住んでいるマンションへ行くのにそれは不要であった。
20分程すると、見慣れたマンションの車寄せに到着した。
光雄は乗車のお礼の挨拶をし、車に乗り込もうとした時、松井が声をかけた。
「何か困った事があったら相談してください。きっとお力になれると思います。」
そう言うと、メモに携帯の電話番号を記入して光雄に渡した。
営業所へ道中、光雄は日々の記憶が鮮明になってきているのを感じていた。
そして、あの電流はホームページを見た時以来、来ていないことも。
既に時計は深夜の2時を超えていた。