伊邪那岐尊黄泉より帰還する事
岩戸を閉めた。
そのまま岩戸に背を預け、ズルズルと座り込む。暴れる心臓と上がる息が腹立たしく、彼は奥歯をかみしめて胸を抑えた。
……妻が。
蘇ったのは、黄泉の国で目にした、惨たらしい姿で亡者に慰み者される妻の姿だった。今は亡き妻を黄泉の国より奪還しようとここまで来たが、目にしたのは何処までも受け入れ難い現実である。顔を覆って、彼は震える肺で息を吐き出した。どうして。
「どうして……」
どうして妻との約束をたがえたのだろう。決して今の私を見ないでと言われていたはずなのに。もし約束をたがえたら、その時は妻と共に亡者と化し、黄泉を彷徨うこととなると、言われたはずではなかったか。実の子に焼き殺された妻が、亡者の世界で無事でいられる訳がないではないか。
自分がすべて悪い。わかっていた。自責の念から逃れられず、彼は何度も心の中でどうしてと繰り返す。約束をたがえた自分を妻が追ってくる事も想像できたはずなのに、目の前の現実が受け入れられず、彼は逃げ出した。妻から。
……どん、と音がした。誰かが岩戸を向こう側から叩いている。岩戸の隙間から、焦がれにこがれた妻が、悲痛な声音で彼を呼んでいた。
「どうして逃げるの!? まだそこにいらっしゃるのでしょう! お願いです、戻ってきてくださいませ!」
彼は応えなかった。応えられなかった。岩戸の向こうから聞こえてくる妻の声は、生きていた時と寸分も変わらない。それが逆に悲しかった。
「ねえ……私、あなたを怒らせましたの? あなたの気に入らない事をしましたの? ……っなら、改めます! 気に入らない所全て直します、だから……だから……!」
「違う! あなたは何も悪くないんだ……!」
彼は振り返り、岩戸にすがりついて叫んだ。今も愛している妻の健気な言葉に、それ以上黙っていることはできなかった。今まで胸の奥に閉じ込めていた自責の念が口をついて出る。自分で閉めた岩戸を叩いて、彼は叫んだ。
「悪いのは私だ、全て私が悪いんだ……!」
「では共に……!」
駄目だ、と呟き、彼はかぶりを振る。「……それでもやはり、あなたと共には行けない……!」
どうして、と悲鳴じみた声が聞こえた。彼のどうして、とは明らかに違う妻の声色。非難の色を濃く混ぜた、彼をなじる声色に、彼は低くかぶりを振って呟いた。
「私には、この世界を守る義務がある。あなたと生み出し、あなたと育て、あなたと愛した世界だ」
妻は応えない。沈黙の不安に押しつぶされる前に、彼は再び口を開いた。
「まだ、私はこちらでやり残した事がある。あなたの分まで為すべき事があるんだ。……本当は、あなたと共にそれが出来ればいいと思っていた。あなたなしでは私は何もできないと、何度となく思い知らされた! けれど……けれどそれが、叶わないの、なら」
肩を震わせ、彼はため息をつく。それが彼女の前では言い訳にすぎない事を、彼は知っていたが、それでも譲れない意思である事は確かだった。妻の為にも、ここで彼女の想いを叶えてやる訳にはいかない。
それでも妻は応えなかった。岩戸の向こうと此方、隔てられた互いの沈黙に、先に耐えられなくなったのは夫の方だった。
己の意思を貫き、けじめをつけようと、彼は口を開き、決別の言葉を舌に乗せる。しかし、それを口の外へ出す事は出来なかった。
「……どうすれば、またあなたと一緒にいられますか?」
力なく、妻が呟いたその一言が、彼の耳をくすぐり、舌を凍らせる。妻は息をのんだ夫の気配に気づかなかったのか、岩戸の向こうで表情を凍らせた小さな声で続けた。
「どうしたら、あなたは私と一緒にいてくれますか? この世界がなくなれば、あなたは私と来てくれますか? あなたはそれを許してくれますか?」
妻の名を呼ぼうとして、彼は唐突に胸を貫かれるような衝撃に襲われた。立ちくらみの様な感覚に額を押さえ、よろめいて一歩下がる。
泣いているのが分かった。妻が声を殺して、表情を隠して、泣いているのが。
泣かせているのは自分だという、自覚もあった。だが、言葉が見つからない。生きていたころの妻であれば、絶対に言わなかった言葉を吐き、生きていたころの妻であれば、絶対にしなかった事をしている。しかし、岩戸の向こうにいるのが、確実に妻だという事を、彼は確信していた。
……壊れてしまったのだ。
導いた答えに、彼は膝から力が抜けていくのを感じた。辛うじて一歩踏み出し、岩戸に縋りついて妻に声を掛けようとする。妻は彼と住む世界を違えた事実と、その世界で受けたむごたらしい現実と、そして何より、その様を夫に見られた事実に抗いきれず、壊れてしまったのだ。
「分かってくれ。私は……」
「だって!」
言い掛けた言葉を、強い口調で遮られる。彼は息を飲んで妻の言葉を待った。
「だって……だって私っ……もう壊すことしかできないんだもの!」
血を吐くような妻の言葉に、息をつくのも忘れて彼は岩戸を凝視した。その向こうで泣いているのだろう妻の一挙手一投足を、一つももらすまいと全神経を集中させる。聞かなければならない、と彼は感じた。それがどれだけ、悲しく無惨な現実であろうとも。
「私の身体……もう、どこもかしこも穢れてどろどろで、あとは土に還るばかりで……穢す事しかできないんだもの! 愛しても愛しても、穢していくばかりなんだもの! もう……もう今のあなたに愛してもらう事出来ないんだもの! あなたの赤ちゃん、産んであげる事が出来ないんだものっ……!」
泣きながら訴える妻の声を、彼は目を閉じて聞いていた。肩を震わせ、唇を震わせ、それでも必死に泣くまいと努めながら、悲痛な妻の絶叫を岩戸越しに聞くしかなかった。
(……ああ、そうだ……)
……泣きじゃくる妻の声を聞きながら、すまないと謝ろうとして、ふと彼は思い出した。
それは、嘗てこの国を生んだばかりで、泥と土ばかりの大地に、初めて花を咲かせた日の事。
「凄い凄い! ねえ見てあなた! こんなにきれいなお花!」
妻ははしゃいで、靴が土に濡れるのも構わず、花の傍へ駆けてった。そして愛おしそうに花を抱いて、その花に話しかけるように囁いたものである。
「お前は凄いね。こんな汚れた土の上に、こんな綺麗な姿で生まれて……」
その背中を見ていた彼は、妻のほっそりとした肩が小刻みに震えだしたのを見て、首をかしげ、問いかけた。
「泣いて……いるのか?」
「だって……凄いわ。汚れた場所から、こんな素晴らしい姿が……!」
泣きながら振り返り、必死に微笑もうとしている妻を見て、彼はその背中を静かに抱きしめた。髪に唇を寄せて首筋を食むと、くすぐったそうに身をよじった彼女は、それでも必死に言葉を継ごうとする。
「愛おしい。私、この世界が大好き。あなたと一緒に生んだ世界。私とあなたの世界……」
「私も……あなたと世界が愛おしい」
心の限りを尽くして、彼はそう応えた。いつまでも、この花は彼らと同じく、いつまでも鮮やかに咲きつづけるものと、そう思っていた。……妻がこの世界を去るまでは。
「……だから……考えなきゃ。あなたがこちらへ来てくださるように、考えなきゃ。私はもうそちらへはいけないもの。考えなきゃ……そうだわ!」
いつの間にか泣きやんだ妻が、急に華やいだ声を上げる。彼は驚き、そして次の瞬間には、彼女の放った信じられない一言に絶句する事になった。
「私、これから毎日、そちらの世界から千人の民をこちらへ招待するわ! ここは確かに穢れているけれど、静かで、優しい場所よ。きっとこちらを気に入ってくれるはず!」
「何を……言って……!」
余りの言葉に、彼は妻を制止しようと試みた。しかし、壊れた妻の耳に、彼の声は届かない。彼女は嬉しそうにうっとりとした声で続けた。
「そうすれば、いつかその千人の中に、あなたが選ばれてくださるはず。そうすれば……ね、ずぅっといっしょよ」
彼は肩を落としてうなだれた。それが意味する所を、妻は全く理解していない。そんな事をすればこの世界は、たちどころに穢れた骸だらけになる。骸はやがて土となり、世界は土へ還る事になるだろう。このままいけば。
あなたは世界を滅ぼす気か、と怒鳴りかけて、彼の脳裏によみがえったのは、嘗ての妻の言葉だった。
――お前は凄いね。こんな汚れた土の上に、こんな綺麗な姿で生まれて……――
汚れた土から、綺麗な姿、が。
ああ、ああ、そうだ。あなたは壊れていてもやはりあなただ。あなただった。
彼は言葉もなく目の前の岩戸に手を押しあてた。このぬくもりをあなたに届けたいとばかりに、強く強く押しあてた。そうして、岩戸に唇を寄せ、囁く。
「……初めて花を咲かせた日の事を、覚えている?」
妻からの返事はない。構わず、彼は続けた。
「汚れた土から美しい花が咲いたと、あなたは泣いていた。うれし涙で、私に言ってくれた。私と生み育てた、この世界が大好きだと」
妻は聞いているのだろうか。やはり応えはない。彼は眉を寄せ、更に言葉を継ぐ。
「あの花がどうなったか、まだ話していなかった。あなたが去ってすぐ……あの花はね……色を、失った」
え、という、惚けたような声が聞こえた。妻も覚えていたのだろう。あの美しい花が色褪せたなど、信じたくないのだろう。
しかし、言わなくてはならない。彼は深く息を吸い込み、続けた。
「あなたがいた時は、あなたの力が土に宿っていたから、花も鮮やかでいられた。土が……花に色を与えていたんだ。汚れているはずの土から」
彼の言葉を、妻は黙って聞いているらしかった。彼は岩戸に唇を当てるようにして、続ける。
「……でも、私はずっと不思議だった。咲いた花はずっとそのまま。生まれて、咲いて……そのままだ。どうして止まってしまうんだろう。止まってしまった命に、一体どんな意味があるんだろう……って」
ほう、と息をつく。その答えを、去った妻が教えてくれた。
彼は知らず微笑む自分の顔を思いながら、妻に語りかける。
「私たちの力で美しく咲いた花は、ただ愛でるだけのために生きているには、余りにも強い。花に色を与える土だって、同じ位に強い。その強さに、価値を……あげたいんだ。死してなお、この世界に生きた証になる意味を」
彼は目を閉じ、睦言をつぶやくように妻に囁いた。
「……あなたの想いに応えよう」
口付けるように、岩戸に唇を当てて、彼はその言葉を舌に乗せる。そのまま、続けた。
「あなたが殺した千の骸を礎に、私はそこに千五百の産屋を建てよう」
岩戸の向こうで、妻が息を飲む気配がした。この気持ちに彼女が気づくのか、それは分からない。彼には想いのたけをできるだけ岩戸越しに、妻に伝える以外に思い浮かばなかった。
「土が無ければ命は色を失ってしまう。あなたが殺したこの世界の民は、いつかこの世界で土に還っていくだろう。……その土の上に、私は、新たな命を創造する。あなたの力を借りて……私一人ではできない事を、するのだ」
死してなお、命を育む価値を、全ての民に与える。
それが、彼の結論だった。妻の生きた証を示す事、死してなお、自分を愛し続けてくれる妻へ捧げる答えは、これ以外に考え付かなかった。
妻の声は聞こえない。泣いているのか、笑っているのか、それとも怒っているのか、彼には分からなかった。彼は額を岩戸に押し付け、更に続けた。
「いつか私も、あなたの招待に応じる日が来よう。……素晴らしいと思わないか? あなたと私の骸の上に、あなたが泣いて喜んだあの美しい花が咲く。その花はやがて朽ち、実を結び、新たな命の糧になる」
あなたの死を無駄にしないために、あなたの心を無駄にしないために、と、彼は続けた。どれだけ思ってもこの岩戸の隔たりを取り払うことはできない。それでも、と囁いて、彼は心の底からの願いを妻に伝えようと、岩戸の向こうにいる妻を、じっと見つめた。
「私はこれからも……あなたと共に国生みをしたい。あなた以外の者と世界を作るなど、考えられない」
わっと声が上がった。岩戸の向こうで、妻が泣き崩れる気配があった。
彼女が嬉しくて泣いているのか、それとも悲しくて泣いているのか、彼には分からなかった。厚い壁の向こうで、暗闇の中で、妻は声を上げて泣いている。その声を聞きながら、やがて来るだろう穢れと清めの繰り返しを思い、彼は一時、ただ子供のように、己の感情に甘えることに決めた。
膝を折り、岩戸に頬を押し付けて、妻と自分を隔てる壁を何度も殴りつける。拳に血が滲み、爪が割れるまで、何度も何度も、彼は自分が閉ざした境界線を殴り続けた。奥歯をかみしめ、頬に流れる滴をぬぐうことも忘れ、殴り続けた。