第八十話 名もなき子 前編
イストガレスの陣地――
広大な野営地の中央、本陣の周囲では今日も慌ただしく兵が行き交っている。
鍛錬の音、鉄のぶつかる音、遠くから聞こえる号令。
そんな戦場の延長のような場所に、ひときわ場違いな笑い声が響いていた。
「まってー!」
桃色の髪を揺らし、無邪気に走る少女。
素足に近い軽い靴。
防具も武器も持たず、ただ軽やかに大地を蹴る。
その様子を、腕を組んで見守るのはリズだった。
「ルゥも大きくなったよねー。
うちに来た時にはまだちっちゃかったのに」
どこか感慨深げな声。
「ルゥはいっぱいご飯食べたからちゃんと大きくなれたよ!」
胸を張る少女。
兵士たちが思わず吹き出す。
彼らは知っている。
この少女が、ひとたび戦場に出れば“災厄”と化すことを。
だが今は――
ただの、よく笑う少女だった。
――時は十八年前。
深い森の奥。
外界と隔絶されたエルフの集落。
白木の家々と、澄んだ空気。
精霊が宿ると言われる巨木に囲まれたその里で、一つの産声が上がった。
「おぎゃー、おぎゃー」
新しい命。
だが、その姿を見た助産のエルフは一瞬、言葉を失った。
桃色の髪。
そして、エルフよりもわずかに短い耳。
混血。
ドワーフとの子。
それだけでも十分に異端だった。
だが、真に里を震わせたのは――その直後だった。
赤子が泣いた。
その瞬間。
空気が軋んだ。
見えない圧が波のように広がり、家屋の窓が震える。
結界を維持していた魔術紋が一瞬、明滅した。
長老の杖が、音を立てて床に落ちる。
圧倒的な魔力。
エルフという種族は、生まれつき魔力量が多い。
だが、それを遥かに凌駕する量が――
産まれたばかりの赤子から、制御不能のまま溢れ出していた。
泣き声に合わせて、魔力が波打つ。
抑制がない。
リミッターが、存在しないかのように。
助産をしていた者が膝をつく。
「……っ」
呼吸が苦しい。
赤子はただ泣いているだけだ。
だが、その魔力は明確に“暴力”だった。
母親は、震える手で我が子を抱いた。
だが抱いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
(私は、この子に……殺されるのだろうか……)
産後で弱った身体には、あまりに重い圧。
近づくだけで鳥肌が立つ。
心臓が跳ねる。
同族のはずなのに、本能が拒絶する。
里の空気は、急速に冷えていった。
混血。
そして怪物。
誰も口には出さない。
だが視線が語っていた。
エルフとドワーフのつがいなど、本来あり得ない。
それだけでも異端だった母親は、赤子の存在によって完全に孤立する。
そして、決定は早かった。
追放。
母子共に、里を去れ。
母親は赤子を抱き、森を歩いた。
頼れるのは、父であるドワーフの男のみ。
だが――
ドワーフの里もまた、混血を受け入れなかった。
その男は既に追放されていた。
三人は森の奥に小屋を建て、ひっそりと暮らし始める。
だが、問題は終わらない。
赤子は、時折、理由もなく魔力を漏らした。
泣く。
笑う。
驚く。
その感情の起伏に呼応するように、魔力が脈動する。
母親は夜ごと、怯えた。
この子は、いつ自分たちを殺すのか、と。
三年が過ぎたある日。
群れから逸れた魔獣が小屋を襲った。
ドワーフの男は斧を握る。
だが数が多い。
牙が迫る。
爪が肉を裂く。
もう駄目だ。
そう思った、その瞬間。
世界が、沈黙した。
次の瞬間、爆ぜた。
圧。
森が震え、空気が裂ける。
魔力が爆風のように拡散し、魔獣の肉体が宙に舞う。
木々が薙ぎ倒され、大地が抉れた。
父も母も、その場で意識を失った。
目を覚ました時。
そこは血の海だった。
魔獣の残骸が散乱し、森は半径数十メートルに渡って消失している。
中心に立っていたのは――
桃色の髪を、真紅に染めた幼子。
笑っていた。
無邪気に。
その目を見た瞬間。
思考が止まる。
本能が拒絶する。
これは子ではない。
これは――災厄だ。
二人は、後ずさった。
呼吸が乱れる。
幼子は、何も知らない。
ただ、嬉しそうに両親を見る。
だが、その笑顔が――怖い。
二人は、逃げた。
振り返らなかった。
幼子は、森に一人、残された。
名前すら与えられずに。
そして――
この子は最後まで、実の親にすら名前を呼んでもらうことは叶わなかった。
それが、ルゥ・ナビア。
名を持たなかった、名もなき子。




