第六十五話 慢心の森
白い天幕の中、ロバーツ・バーソロミューは静かに鎧を締め直していた。
準貴族として生まれ、剣を学び、軍に入り――
家名に胡坐をかくことなく、己の腕と功績で中隊長の地位を掴み取った。
それが、ロバーツの誇りだった。
(血筋だけの連中とは違う)
そう思ってきたし、実際そうだと信じて疑わなかった。
胸元に走る一本の古傷。
エルドゥの雷撃が刻んだ痕跡。
指先が一瞬だけ止まる。
「……油断しただけだ」
低く吐き捨てる。
あの時は、伝令などというくだらぬ口上に警戒を怠った。
本気で殺し合う前に終わっただけだ。
(獣のような力押しに、不意を突かれただけだ)
――負けではない。
そうでなければならなかった。
「ロクに部下の管理もできぬマイケルも無能なことよ」
そもそも、元上官のマイケル大隊長も気に食わなかった。
時世が読めない。決断が遅い。
あの程度の男が大隊長の座にいること自体、王国軍の停滞の象徴だと思っていた。
そのマイケルは、死んだ。
大隊長の席は、空いている。
そして今――
皇太子クエスターから、直々に指令を受けている。
(ワシは期待されている……違いない)
そうでなければ、他の中隊長ではなく、自分が選ばれる理由がない。
ロバーツの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
***
皇太子の間は冷え切っていた。
「ロバーツ・バーソロミュー。怪我からの復帰、ご苦労だった」
皇太子クエスターの声は淡々としている。
「はっ。王国のため、また剣を振るえることを誇りに思います」
「ならば、早速働いてもらおう」
投げ渡された地図。
赤く囲われたスフォンジーの森。
「元王女アリアが民を連れて出奔した。
潜伏先はこの森と見ている」
胸の奥が熱を帯びる。
「調査を命じる。銀の戦乙女配下も潜んでいる可能性が高い」
一拍。
「捕縛できるなら捕縛。
難しければ――殺せ」
ロバーツは即座に跪いた。
「必ずや、ご期待に沿ってみせます」
それは忠誠であり、同時に野心だった。
***
出立前。
中隊は整然と並び、士気は高い。
だが、副官だけが慎重な顔を崩さなかった。
「ロバーツ中隊長……スフォンジーの森ですが」
「何だ?」
「あの森は危険度が極めて高いです。
見通しは悪く地形は複雑で、凶暴な敵性生物も多い。
現地に詳しい者――元レンジャーを雇うべきかと」
その言葉を聞いた瞬間。
ロバーツの脳裏に、雷光が走った。
森。
レンジャー。
獣のような巨体。
――エルドゥ。
一瞬だけ、視界が歪む。
(違う……あれは油断だ)
ロバーツは顔を歪め、副官を睨みつけた。
「……貴様、今なんと言った?」
「は、ですから――」
「レンジャーだと?」
声が低く、怒気を孕む。
「貴様は、あの連中を信用しろと言うのか?
剣も礼節も持たぬ、森かぶれの獣どもを?」
「しかし実際、森での生存能力は――」
「黙れ!!」
怒声が天幕を震わせた。
「私は油断しただけだ!
負けたわけではない!!
あの時、本気で斬り合っていれば結果は違った!!」
副官は息を呑む。
「同じ過ちは繰り返さない。
だが――他人の力を借りる必要もない」
ロバーツは剣を掴み、言い切った。
「我らは王国軍正規兵だ。
森だろうが戦場だろうが、踏み潰して進む」
「……承知しました」
副官はそれ以上、何も言わなかった。
だが、その沈黙は従属ではなく、諦観だった。
***
スフォンジーの森は、静まり返っていた。
異様なほどに。
風は弱く、木々は身じろぎ一つしない。
鳥の囀りも、獣の気配もない。
あるのは、湿った空気だけだ。
肺に絡みつくような重苦しさが、肌にまとわりつく。
「……不気味だな」
兵の一人が、思わず漏らした。
ロバーツは歩みを止めず、前を見据えたまま言い放つ。
「臆するな。森など、戦場の一形態に過ぎん」
腰の銀製エストックに、自然と手が掛かる。
「敵がいれば斬る。それだけだ」
その瞬間だった。
――ギャアアアッ!!
絶叫。
森の奥、木々に遮られて姿は見えない。
だが、それが斥候の声であることは、誰もが理解した。
「何事だ!!」
問いかけは、答えを得る前に呑み込まれる。
森が――牙を剥いた。
藪が弾け、影が躍る。
現れたのは狼型の魔獣、ヴォルフ。
筋骨隆々の体躯、濡れた毛皮、赤く爛々と光る眼。
そして、木の上から。
鎌のような前脚を持つ、カマキリ型マンティスが降り注ぐ。
――それも一体や二体ではない。
「迎撃!! 陣形を――」
ロバーツの怒声は、途中で掻き消えた。
兵が倒れ、悲鳴が上がる。
視界は悪く、木々が剣の振りを阻む。
足元はぬかるみ、踏み込むたびに体勢が崩れる。
(クッ、足場が悪い……それに囲まれている)
前方だけではない。
背後、側面、頭上。
獣たちは、森そのもののように襲いかかってくる。
「中隊長!! 退却を!!」
副官の叫び。
「戦うのだ!押し返せ!!」
ロバーツは吠え返した。
「王国軍だぞ!! この程度で退くな!!」
銀のエストックが閃く。
突き。
刺突剣の真価は、最小の動きで最大の殺傷を生む点にある。
一突きでヴォルフの喉を貫き、鮮血が飛び散る。
「続け!!」
兵たちも奮起する。
槍が突き出され、剣が振るわれ、襲いかかる猛獣が倒れる。
一瞬だけ――
戦線は、持ち直した。
ロバーツの胸に、確信が灯る。
(やれる……!!)
だが、森はそれを許さなかった。
マンティスが側面から飛来し、兵の首を刈り取る。
別のヴォルフが背後から喉笛に噛みつく。
「後ろだ!!」
叫んだ瞬間、足が滑る。
ぬかるみに足を取られ、体勢が崩れた。
その隙を、逃す敵ではない。
鋭い爪が鎧を掠め、衝撃が走る。
「ぐっ……!!」
ロバーツは歯を食いしばり、無理やり体を起こす。
だが、次第に分かってきた。
この森では――
まるで隊列を組めない。
思った以上に指示が届かない。
そもそも武器の間合いすら、奪われる。
戦っているのは魔獣だけではない。
森そのものだ。
「……退却だ!!」
ついに、命令を出した。
だが、その声は、もう届かない。
隊は分断され、各個撃破されていく。
逃げる兵。
倒れる兵。
助けを求める声。
ロバーツは必死にエストックを振るい、道を切り開いた。
それでも――
奮闘は、敗退に変わる。
***
森の外へと、辛うじて脱出した時。
中隊は、半数以下になっていた。
息を切らし、泥にまみれ、血に染まった兵たち。
ロバーツは、銀のエストックを地面に突き立て、肩で息をする。
胸が痛い。
肺が焼ける。
――負けた。
それだけは、否定しようのない事実だった。
だが、それでも。
(次は……違う)
そう思わなければ、立っていられなかった。
ーー続く




