第六十話 名君か、それとも、暴君か
広間はひどく静かだった。
まるで水底のように空気が重く、声を出す前に喉が冷える。
それでもエヴァは一歩も退かなかった。
帝国侯爵ジョシュアが彼女をじっと見つめる。
咎める視線でも、見下す視線でもない。
(……測られている)
敵か味方か――ではない。
“この者はどこまでが本物か” を確かめる目。
「名を」
短い声だった。
「プラチナム使節代表、エヴァ・エルスです。今回の交渉における代表を務めます」
声は震えていない。
ただ静かに、しっかりとジョシュアに届くように。
ジョシュアはわずかに顎を引き、続けた。
「帝国侯爵、ジョシュア・クロフォードだ。……ラグノから報告を受けた。お前たちが帝国兵の命を救ったと」
「ラグノ隊長の部下の方々は、魔物の凶爪に倒れかけていました。助けるのは当然のことです」
「当然、か」
ジョシュアはゆっくり歩き、近づいてくる。
一歩ごとに、床全体がわずかに震えたようにさえ感じた。
「……“当然”という言葉は、覚悟のない者が口にすれば軽く響く。だが――お前は違うらしい」
エヴァの心臓が少しだけ跳ねた。
ジョシュアは続ける。
「帝国は恩を決して軽んじない。だがそれと交渉は別だ。ここからは、“国家”同士の話になる」
「分かっています。……だからこそ、ここに来ました」
「ならば――その覚悟を見せてもらおう」
黒い瞳が鋭く光った。
エヴァは一歩、さらに前へ出た。
「――戦争を、止めてほしい」
静かな広間に、エヴァの声だけが落ちた。
対するジョシュア・クロフォードは、椅子に片肘をついたまま、わずかに眉を動かしただけだった。
「……プラチナム、だったか。森に落ち延びた王国離反者の集落」
エヴァは頷く。
「私たちは帝国と争うつもりはありません。
ですが、王国と帝国の戦いが続けば……いずれ森にも戦火が届きます。
だからせめて、争いを止める方向へ動かしていただければと」
ジョシュアは鼻で笑った。
「勘違いをするな。
帝国は、戦を止める理由を持たん。
王国を叩き伏せる絶好の機会――逃す道理がどこにある?」
わかっていた。
だが、こうも端的に切り捨てられると胸に刺さる。
「……しかし」
「力の序列は明白だ。
帝国>王国>お前たち《プラチナム》。
最弱が、最強に説得をするのは滑稽だな」
冷たい言葉だった。
だが、現実でもあった。
ガレンが拳を握りかけるのを、エヴァが目で制す。
(ここで感情的になってはだめ。負ける)
⸻
「……ですが、戦いを続けるなら、帝国軍は王国と戦いながら“森”も相手にすることになります」
「ほう?」
ジョシュアの視線が動く。
エヴァは一歩前へ出た。
「エルフ族の機動力を、あなた方はご存じでしょうか?
森と一体化する彼らの奇襲は、大軍では対応しきれない。
前線で王国軍と戦いつつ、後背からゲリラを受ける――それは帝国の兵を無駄に削ることになる」
「……脅しか?」
「いいえ。現実の話です」
ジョシュアの口元がわずかに吊り上がる。
「そんなものは――」
肘を持ち上げ、冷ややかに言い放つ。
「森ごと、飛空艦で焼き払えばいい」
広間の温度が下がった気がした。
ガレンが思わず噛みしめる。
だが、エヴァは怯まなかった。
むしろ静かに言葉を重ねた。
「森を、焼くのですね」
「当然だ。帝国の進軍を妨げる障害は全て焼却する」
「では質問を変えます」
エヴァはカバンを開き、いくつかの木箱を取り出し、ジョシュアの前に並べた。
「“これらの資源” もろとも、あなたは焼く覚悟がおありですか?」
⸻
木箱を開くと――
スフォンジーの森の恵みが彩りを放つ。
・希少な果実
・濃厚な蜂蜜
・乾燥茸
・香草
・森の動物の乾燥肉
・そして――
ひときわ美しい 翡翠色の果実 が入っていた。
ジョシュアの瞳が僅かに揺れる。
「……これは」
「スフォンジーの森でしか採れません。
栄養価が高く、保存も利き、兵糧に最適な物もある。
帝国の戦線を維持する上で、非常に価値があるはずです」
ジョシュアは一つ摘み、光に透かした。
その瞳には――“欲望ではなく合理的な査定” が走っていた。
「本物か?」
「どうぞ。お確かめください」
ジョシュアはためらわずかじる。
次の瞬間。
「……っ……!」
喉がわずかに震えた。
甘味、酸味、香り――
口に広がる複雑な味わいに、彼はほんの一瞬だけ目を見開いた。
(──効いた)
エヴァは確信した。
⸻
「森を焼けば、これらはすべて失われます。
帝国にとって、非常に大きな損失ではありませんか?」
ジョシュアは沈黙する。
エヴァは続けた。
「戦争をすれば失う。
戦争を止めれば――得られる。
森の資源も、交易も、食料供給も、帝国の兵站を支える莫大なメリットも」
ガレンとエルビスが息を呑んだ。
エヴァの声は震えず、明瞭で、冷静だった。
「私達プラチナムは、帝国と争う理由を持ちません。
しかし争いが続く限り、森は帝国の敵にもなり得る。
ですが――」
エヴァはジョシュアに正面から向き合う。
「手を取り合えば、森は“帝国の味方”になります」
「…………」
「殺し合い、奪い合うのではなく。
互いに利益を生む関係になることは――できないでしょうか?」
広間に、深く長い沈黙が落ちた。
⸻
ジョシュアは、もう一度グリーン・アップルを見つめた。
視線に宿るのは、迷いではない。
“計算” だった。
(この男は情では動かない。
だが、利益で動く――そういう男)
エヴァは呼吸を整える。
ジョシュアはゆっくりと口を開いた。
「……森を焼くのは容易だ。
だが――その代償がこれほど大きいとなると、話は変わる」
ガレンとエルビスが思わず息を呑んだ。
エヴァはジョシュアへ’’口撃’’を続ける。
「焼くか、それとも、採るか。ジョシュア侯爵の選択の結果は帝国の歴史にすら残るかもしれません。
先を見据えた名君か。それとも荒野を作った暴君か。」
ジョシュアは口の端を吊り上げる。
「プラチナム……。
お前たちの提案は……ただの理想論ではないらしい」
ジョシュアは椅子から立ち上がる。
「よかろう。
戦争を止めるとまでは言わん。
だが――“価値があるなら”、大いに検討に値する」
エヴァは胸の奥を締め付けられるような安堵を覚えた。
勝ちではない。
しかし“拒絶ではない”第一歩だ。
ジョシュアは背を向け、扉へ向かいながら最後に言った。
「お前の口にした“交易”――継ぐ価値があるか、判断してやる。
帝国にとって利益となるなら、戦の形を変えることも吝かではない」
こうして、プラチナム使節団とジョシュア侯爵との邂逅と対談は交易を行う方向で舵が切られ、終わりを迎えた。
⸻
会談後、扉に手をかける直前――
「……其方の名。エヴァ・エルスだったな……」
ジョシュアの声に、エヴァの足が止まる。
「覚えておこう。
帝国に物を言わせた者の名だ」
扉が閉まり、静寂が戻った。
エルビスがようやく息を吐く。
「お、おい……エヴァ……今の、勝ったのか……?」
エヴァは首を振る。
「いいえ。
でも――“土俵”に上がることはできた」
ガレンも深く頷いた。
「それで十分だ。お前は……よくやった、エヴァ」
エヴァは小さく笑った。
(ここからが本番……帝国との、新しい関係の始まり)
――続く




