第五十一話 灰の街に立つ声
第五十一話 灰の街に立つ声
王国へ続く街道は、昼の光を浴びているのに、どこか薄暗く感じられた。
アリアは馬上から伸びる自分たちの影を見下ろしながら、指先に力を込める。
(たった四日。
セレスティアに入って、まだ四日しか経っていないのに――)
世界はもう、あの頃とまるで別物に見え始めていた。
隣にはエルドゥ。
後ろにはフィオとカイル、セレナ、クレア。
六人は列を組み、王国の外縁部に広がる貧困街を目指していた。
目的は二つ。
一つは貧困街と王国の街から、プラチナムへ移住を望む人々――
保護を必要とする者と、セレスティアの理念に共感してくれる者を連れて帰ること。
もう一つは、王に直接会い、戦争の停止と、王国に蔓延した腐敗を正す交渉をすること。
それが、セレスティアに入って最初の大仕事だった。
♢
やがて視界に、灰色の巨大な壁が現れる。
王都の華やかな城壁ではない。
人と希望を閉じ込めるためだけに作られたような、冷たい壁。
「あれが……貧困街」
アリアが小さく呟くと、前を行くエルドゥが頷いた。
「そうだ。何も変わっちゃいねぇ。変わっちゃいねぇからこそ、今日来た意味がある」
馬を降りると同時に、セレナがアリアの横に並んだ。
「ここから、私は動く」
「王の居場所を探るんですよね」
「えぇ。今、王がどこで誰と会っているのか。
戦況をどう認識しているのか。事前に掴んでおきたいの。
アリアが王と会うときの“切り札”にもなるから」
セレナの声はいつも通り冷静で、迷いがない。
「気をつけて下さいね。セレナさんが捕まったら、私……王どころじゃなくなっちゃいますから」
「ふふ、それは困るわね。必ず戻る」
軽く頭を下げると、セレナはフードを目深にかぶり、
壁沿いの影へと音もなく消えていった。
♢
「じゃ、俺らはどう動く?」
カイルが手綱をくるりと回しながら尋ねる。
「フィオさんとカイルさんは、馬で貧困街の中を回って頂きたいです。
『広場に集まってほしい』って、できるだけ多くの人に伝えてきて下さい。
危なそうな場所は、無理に行かないで下さいね」
「任せて! 叫ぶのは得意だから!」
フィオが元気よく胸を叩く。
カイルが苦笑しながらも頷く。
「了解。、アリア。必ず広場をいっぱいにしてみせるよ」
二人は馬に飛び乗り、狭い門をすり抜けていった。
蹄の音が、貧困街の中に響いていく。
♢
「アリア殿下、こちらへ。広場までは、一本道です」
クレアが一歩前に出て、慎重に周囲を伺いながら言った。
「……クレア」
クレアは振り返る。彼女の灰色の髪が揺れた。
「もう殿下じゃないって言ったでしょ? ……クレアが私を呼ぶなら、“アリア”でいいの」
クレアは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに答えた。
「……では。アリア“様”。 それなら――お許しいただけますか?」
「……様?」
アリアは眉をひそめ、頬をふくらませた。
「しかし、呼び捨ては……恐れ多くて」
クレアはあたふたしている。
「私は、ずっと殿下の侍女です。急には変われません」
「むぅ……」
アリアはほんの少し唇を尖らせる。
それでもすぐに、ふっと力を抜いた。
「……まぁ、いいわ。今日のところは、それで“我慢してあげる”」
クレアの目が優しく和らぐ。
「ありがとうございます、アリア様。 では――行きましょう」
アリアは頬を膨らませたまま、けれど、どこか嬉しそうに並んで歩き出した。
♢
「着きましたね、エルドゥさん」
「おう」
三人は門をくぐり、貧困街の中へと足を踏み入れた。
空気が、一気に変わる。
湿った匂いと、焼けた金属のような臭い。
崩れた家屋。穴だらけの服。ぼんやりと座り込む子ども。
アリアは胸の奥がぎゅっと掴まれるような感覚を覚えた。
(ここが、ずっと“国のために切り捨ててきた場所”。
王女として見て見ぬふりをしてきた現実)
足が止まりそうになる。
しかし、エルドゥの背中が前にある。その大きな背が、彼女を引っ張る。
「アリア様。顔、こわばってますよ」
クレアが心配そうに覗き込んでくる。
「……緊張してるんだと思う。クレアは?」
「わたくしですか? そうですね……緊張もありますが、それ以上に、やっと“動き出せる”と感じています。
オリビア様たちは前線で戦ってくださっていましたから。今度は、わたくしたちの番だと」
クレアの言葉は柔らかく、けれど芯があった。
アリアはその横顔に少し勇気をもらう。
「……うん。そうだね」
♢
やがて視界が開ける。
貧困街の中心にある、小さな広場。
壊れかけた噴水。
かつて商人が立っていたであろう石畳。
そこに、ぽつぽつと人が集まり始めていた。
洗濯物を抱えた女性。
仕事帰りの男。
痩せた腕をした老人。
好奇心と警戒が入り混じった子どもたち。
少し離れた通りから、フィオの声が飛んできた。
「広場に集まってくださーい! 話がありますーっ!」
その後ろをカイルの馬が走り抜ける。
「危険な話じゃない! 聞くだけ聞いてくれればいい! 来てくれ!」
アリアはその様子を見て、小さく笑った。
「二人とも、頑張ってる……」
「ええ。頼もしいですね」
クレアが静かに頷く。
「アリア様、そろそろ“前”に」
「うん」
アリアは噴水の縁に立ち、広場を見渡した。
視線が一斉に集まる。
(ここからが、本番だ)
喉が乾く。
でも、それも“覚悟”の一部だと飲み込んだ。
♢
「集まってくださって……ありがとうございます」
最初の一言は、驚くほど素直に出てきた。
「私はアリア。 ――王国の元・第二王女です」
ざわ、と空気が揺れる。
王女。貧困街にとって、その二文字は決して優しい響きではない。
「今日は、皆さんに“お願い”をしに来たわけではありません。
皆さんの未来について、“選んでほしい”ことがあるから、ここに立っています」
アリアは息を吸い込んだ。
「……王国の飛空艦に、貧困街の人たちが“燃料”として使われていました」
その瞬間、広場の空気が固まった。
笑い声が止まる。
子どものささやきが止まる。
風の音ですら遠くなる。
アリアは視線をそらさなかった。
「私は、その話を最初に耳にしたとき、信じたくありませんでした。
飛空艦の動力に、生きた人間が使われているなんて……そんなの、あってはならないことだから」
拳を握る。
「だから私は、王に直接問いただしました。
“こんなことが行われているのか”と」
あの日の玉座の間の光景が、脳裏に蘇る。
王の表情。沈黙。短い肯定。
「王は否定しませんでした。
“国を守るためには仕方がない”と、そう言いました」
誰かが、小さく悲鳴を上げた。
誰かが、膝から崩れ落ちた。
「……その瞬間、私は王女をやめることにしました。
そんなことを“仕方がない”で済ませる国に、王女として座り続けることはできないと思ったから。
王国を出て、戦争から、腐敗から、目を逸らし続ける自分を終わらせたかったから」
アリアは続ける。
「けれど、王国を出た私はすぐに追われました。
兄に命を狙われ、逃げ込んだ先で……私は倒れました」
短く息を呑む音が、あちこちから聞こえた。
「そのとき、私を助けてくれたのが、オリビアさんたち――セレスティアの仲間たちでした」
今度は、少しだけ声が柔らかくなる。
「私は、そこで初めて“国の外”から王国を見ました。
プラチナムという街で、セレスティアのみんなと話をして。
戦場で仲間を家族を大切な人を失ってきた人。
貧困街出身で、それでも人を守ろうとしている人。
戦争で家族を奪われたのに、それでも誰かを恨まない人」
たった四日。けれど――
「……セレスティアに来て、私はまだ四日目です。
たった四日。でも、その四日でも、私は自分がどれだけ何も知らなかったのかを思い知らされました」
自嘲でもなく、誇張でもなく、それはただの事実だった。
「王国の真実。
貴族たちの腐敗。
戦争の裏で命を削られていく人たち。
そして、それに立ち向かおうとしているオリビアさんたちのこと」
「彼女たちは完璧ではありません。
迷うし、傷つくし、泣きます。
でも、それでも――“戦争のない世界を作る”と、本気で言いました。
それを信じて、命を懸けて今この時も戦っています」
視線が、少しずつ変わっていく。
疑いから、探るような色へ。
探る色から、わずかな期待へ。
「プラチナムは、そんなセレスティアが作ろうとしている街です」
アリアははっきりと言う。
「プラチナムには、階級が存在しません。
“上”と“下”に分ける仕組みを、最初から作らないことにした街です。
もちろん、移住したら仕事はしてもらいます。
働かずになんでも与えられる場所ではありません」
「でも、そこでの仕事は、“生まれ”では決まりません。
ここが貧困街だから、王都だから、貴族の家だから――
そういう理由で未来が閉ざされることはありません」
アリアは貧困街の人々を見渡した。
その顔。その瞳。その震える肩。
「貧困街だから。
そんな理由で、自分たちの未来を諦めてほしくない」
「だから、皆さんに“選んでほしい”んです。
ここに残るのか。
プラチナムへ移住するのか。
どちらを選んでも、間違いじゃありません」
広場の空気が揺れる。
「ただ一つだけ、譲れないことがあります。
――“あなたたちには、未来を選ぶ権利がある”ということです」
アリアの声が、強くなる。
「貧困街に生まれたからといって、誰かの燃料にされる道しかないなんて、間違っています。
戦場に近い所に住んでいるからといって、戦争に飲み込まれるだけで終わるのも、間違っています」
その言葉は、まるで長く凍っていた水面に落ちる小石のように、静かで、しかし確実に波紋を広げていった。
♢
広場のあちこちで、反応が分かれていく。
目を輝かせる者。
眉をひそめ、不安に震える者。
腕を組み、露骨に批判的な視線を向ける者。
「貴族が腐ってるなんて、前から知ってらぁ!」と叫ぶ男。
「それでも、ここを離れたら生きていけねえだろうが!」と噛みつく声。
アリアは、そのどれもを否定しなかった。
それは全部、今日まで生き抜いてきた証だから。




