第四十七話 黎明の抱擁
王都から離れたとある場所で。
夜明け前の森を抜ける細道。
森の奥を抜ける獣道を、黒馬に乗った二人が走っていた。
風が冷たく、夜気が肺を刺す。
それでも、彼の背には確かな温度があった。
男の名は――セツナ・ミナヅキ。
かつて王国軍元帥の副官にして、“残雪使い”の異名で知られた剣士。
長い白髪をひとつに束ね、右目には深い裂傷。
眼帯はせず、傷跡をそのまま晒している。
その隻眼の鋭い氷色の瞳が森の奥を射抜くたび、周囲の闇すらひるむように静まり返った。
彼は口数が少なく、ただ煙草をくわえたまま手綱を握る。
灰色の煙が夜風に溶け、白い息と交わった。
黒と白を基調とした和装の戦闘服の右袖からは逞しい腕が覗き、
腰には淡い氷気を纏う長刀《残雪》が佩かれている。
「もう大丈夫だ」
馬の手綱を操るセツナが短く言った。
無精髭。寡黙で感情をあまり見せない。
「貴方は……なぜ私を助けたのですか?」
「我が友に恩がある。友の願いを継いで動いているだけだ」
「願い……?」
セツナは振り向かず、淡々と続けた。
「王国から離れ、己の信義で戦っている者たちがいる。 “銀の戦乙女”も、そのひとりだ。」
アリアは息を呑んだ。
「……オリビア・エルフォード。」
「名を知っているのか。」
「はい。……王国の士官学校の伝説は王宮に響くほど有名でした。
最年少で中隊を率い、女性でありながら騎士叙勲と二つ名を受けた英雄。
――その方が、今は反逆者に」
「だが、“敵”と断じるのは容易い。真に何が正しいかは……その目で見ろ」
短い沈黙のあと、アリアははっきりと答えた。
「……会わせてください。銀の戦乙女に」
セツナが初めてアリアを見た。
冷えた空気の中で、その瞳にはどこか“敬意”に似た光があった。
「……戻って身を隠すならば、まだ間に合うぞ」
一瞬、風が止まった。
「戻りません」
アリアの瞳に、確かな光が宿る。
「私は王の娘として――罪を見逃せません」
風が強く吹き抜けた。夜風の冷気が肌を刺す。
「……その覚悟、承った」
セツナは手綱を再び操り、黒馬は再び走り出す。
王都を離れた黒馬の蹄鉄が、運命の分岐点を踏みしめていた。
遠くで梟が鳴き、草木がざわめいた。
冷たい夜気の土を、黒馬の蹄鉄がひとつ、またひとつと刻まれる。
木々の間に、やがて朝の光が滲み始めていた。
♢
森の奥に、空を切り裂くような大木がそびえていた。
枝の間から朝の光が射し込み、霧が金色に揺れている。
そこに、厚い石造りの立派な門と見張り台があった。
門の前には警備兵が二人、弓を構えて立っている。
「止まれ。何者だ」
警備兵の声に、セツナは煙草をくわえたまま手を上げる。
「セツナ・ミナヅキだ。オリビアに伝えろ。客を連れてきた」
兵士が目を見開き、慌てて駆けていく。
アリアはその背を見送りながら、静かな森の息吹を感じていた。
王城の重苦しい石の空気とは違う――
この場所には、確かに“生きている人々”の匂いがあった。
門が軋む音を立てて開く。
その向こう、木漏れ日の中から現れたのは、銀髪の騎士――オリビア・エルフォード。
「思いがけぬ訪問ですね。して、その娘はどなたでしょう」
薄手の上衣に外套を羽織り、腰には光を反射する双剣。
凛とした姿勢、鋭い眼差し。
まるで、噂で聞いた“銀の戦乙女”そのものだった。
「服装から見て、何らかの理由で城を逃げ出した侍女でしょうか」
「……シルヴァラン王国、第二王女アリア・ルクセリア・シルヴァラン殿下だ」
セツナが低く告げると、周囲がざわめく。
オリビアは一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「まさか、王家の方が……ここに来るとは思いませんでした」
アリアはその言葉に首を振る。
「私はもう、王家の者ではありません。――罪を正すために、ここへ来ました」
その瞳には、恐れではなく意志が宿っていた。
オリビアはその目を見て、短く息を吐く。
「……ならばようこそ。我らの拠点プラチナムへ。私たちは“救うために”戦っています」
一瞬、沈黙。
互いの瞳が、静かに重なり合う。
――この瞬間、王国の“正義”と“反逆”が、ひとつに結ばれた。
♢
オリビアとの対面を終えたアリアは、ラウニィーに案内されて拠点の奥へと通された。
木造の小屋が並び、忙しなく動く人々の間を抜ける。
その一角にある小さな来客室で、アリアはようやく腰を下ろした。
窓から差し込む光は、もう昼の色を帯びており幾日も続いた逃走の疲労が、一気に押し寄せた。
目を閉じると、遠くで風鈴のような音がした。
――久しく感じていなかった、“静けさ”だった。
「少し、お休みを」とラウニィーが微笑む声を聞いた記憶を最後に、
アリアの意識は、穏やかな眠りに落ちていった。
……どれほどの時間が経っただろう。
目を覚ました時には、窓の外は薄闇に沈み、森の虫の音が響いていた。
焚火の灯がちらちらと壁を染め、夜の匂いが部屋に流れ込む。
――その夜、アリアは初めて“失ったもの”と向き合うことになる
焚火がぱちりと弾け、夜の静寂に微かな火の粉が舞った。
森の拠点――プラチナムの夜は穏やかで、星々の光が枝葉の間をこぼれていた。
アリアは焚火の前に座り、揺らめく炎を見つめていた。
その肩越しには、オリビアとラウニィーの姿があった。
皆、言葉を探しあぐねていた。
長い沈黙のあと、アリアが小さく口を開いた。
「……王都を出るとき、私は……ひとりではありませんでした」
「私には、ずっと傍にいてくれた侍女がいました。クレアという子です」
その名を口にした瞬間、焚火の音が遠のいたように感じた。
アリアは指先を強く握りしめ、膝の上で爪が震えた。
「クレアは、私の代わりに命を賭して王国の追手を引きつけました。
私は――逃げることしか、できなかった」
そこまで言葉を絞り出すと、声が喉の奥で詰まった。
言葉が途切れ、唇が震える。
炎の揺らめきが涙を照らし、頬を滑り落ちた。
唇を噛み、涙が頬を伝う。
それでもアリアは続けた。
「……私は、助けられてばかりでした。
あの子の手を、最後まで掴んであげられなかった。
王族としての使命なんて、そんな言葉で……
彼女の命を、言い訳にしてしまった……!」
嗚咽が零れ、肩が震える。
その涙は後悔と喪失と、どうしようもない無力感の混じった、痛みの色だった。
オリビアは黙ってその姿を見つめていた。
焚火の光が、アリアの涙を照らし、悲しくきらめいた。
やがてオリビアが、静かに口を開く。
「――貴女の涙は、恥ではありません。
戦場では、守りたいと願うことさえ“弱さ”だと笑われる。
でも本当に怖いのは……守る人を失って、何も感じなくなることです」
その声は、かつて幾人も失った者の響きを帯びていた。
ラウニィーもまた、焚火の向こうで小さく息を呑んでいた。
彼女はオリビアを見つめながら、幼い日の記憶を重ねていた。
――自分の隣にも、ずっと笑っていてくれた人がいる。
それを失う痛みを、想像するだけで胸が裂けそうだった。
アリアは涙の中で顔を上げた。
赤く腫れた瞳が、まっすぐにオリビアを捉える。
「私は……もう、誰も失いたくありません。
たとえこの身が傷だらけになっても、あんな思いは二度と……!」
その言葉に、オリビアはゆっくりと頷いた。
焚火の炎が二人の瞳に宿る。
「……ならば、共に戦いましょう。失わないために。救うために」
その言葉に、アリアは涙の中で力強く頷いた。
――彼女の瞳に宿る光は、決意だった。
夜風が静かに吹き抜けた。
炎が揺れ、木々がざわめく。
――まるで、あの涙に応えるように。
オリビアの言葉に、アリアは涙の中で微笑んだ。
その笑みは震えていたが、確かに前を向いていた。
♢
夜は深まり、焚火の火は静かに赤を灯していた。
森の奥では虫の声も止み、風の音だけが漂っている。
アリアはまだ涙の跡を頬に残したまま、火の揺らめきを見つめていた。
オリビアとラウニィーはそっとその隣に座り、誰も言葉を発さずに時間が流れていく。
そこへ、木々の影がひとつ動いた。
音もなく、焚火の光に人影が浮かぶ。
「報告がある」
低い声とともに、黒装束のシノビが現れる。
セツナの部下である彼の姿に、オリビアが不穏な気配を察し軽く眉を上げた。
「内容を」
「重傷者を保護し連れてきた。なんとか命に別状はない。……“クレア”と名乗っている」
その名が空気を震わせた。
アリアの瞳が大きく見開かれ、息が止まる。
「い、今……なんと……?」
声が震えていた。
シノビは黙って立ち上がり、背後に手を差し出す。
木陰の中から、細い影がゆっくりと歩み出た。
包帯に覆われた腕、焦げ跡の残る、アリアの服である純白のドレス。
それでも、その灰色の髪と穏やかな瞳は、
アリアの記憶に焼きついたままだった。
「……アリア……殿下……」
かすれた声。
アリアは立ち上がり言葉を失った。
クレアは震える足で一歩、二歩と進む。
涙が頬を伝い、唇が震える。
「お会いできて……本当に……よかった……。
殿下が……ご無事で……本当に……」
その瞬間、アリアは駆け出していた。
焚火を越え、彼女を抱きしめる。
「クレア……! クレアなの……?
生きて……生きていたのね……!良かった…!」
言葉が涙に溶け、嗚咽に変わる。
クレアもまた、その背に腕を回し、声を詰まらせた。
「殿下に……そう思っていただけて……私は……それだけで……」
言葉はそこで途切れ、彼女の瞼が静かに閉じた。
アリアはその身体を抱きしめたまま、泣き崩れた。
オリビアは静かに手を伸ばし、その背を支え小さく息を吐いた。
隣のラウニィーは拳を胸に押し当て、
瞳の奥で何かをこらえるように俯いた。
――人は、奪われても。
――想いだけは、決して燃え尽きない。
焚火の火が、静かに二人を照らす。
炎の向こう、淡い夜明けの光が森を染めていた。
森を渡る風が、夜の涙を攫っていく。
焚火の灯がゆらめき、クレアとアリアの影を一つに結ぶ。
オリビアは静かにその光景を見つめていた。
「……この子が、王国を変える鍵になるかもしれない」
ぽつりと零した言葉に、ラウニィーは短く頷く。
やがて夜が明ける。
木々の隙間から、朝の光が一筋――アリアの頬を照らした。
その目にはもう、迷いはなかった。
「立ち止まっていられませんね」
彼女は涙の跡を指で拭い、小さく笑う。
「今度こそ、“失われた光”を取り戻します」
新しい一日が、静かに始まった。
――それは希望の始まりでもあった。




