第四十三話 光環の街、名を問う朝
朝霧はもう薄く、澄んだ青が空の端を広げていた。
獣道が石畳に変わる、その境い目に近づきながら、黒衣の旅人がつぶやく。
「もう少しで、拠点だな。……ん?……」
エヴァは足を止め、瞳を大きくした。
風に乗って、木槌の音や人々の笑い声、焼き上がったパンの香りまで漂ってくる。
視線の先、かつて森の陰に埋もれていたはずの拠点の外周には、見事な石造りの城壁と見張り台。
門の手前には、湖から引いた澄んだ水がさらさらと流れる堀。
水面に朝日が乗って、細かい鱗のようにきらめいていた。
堀に架かるのは新しい木橋。
継ぎ目はきっちり合わされ、鉄の鋲が等間に並ぶ。
どこもかしこも「きちんと造られている。」
「なんじゃこりゃーーーー!!ま、街が出来ている!!こ、これが本当にあの拠点か?!と、とりあえず進んでみるか。」
半ば自分に言い聞かせるように独りごちると、エヴァは外套の裾を押さえ、橋を渡り切る。
堀の水は涼やかな匂いを運び、足音が板に乾いた拍子を刻んだ。
城門の上、胸甲をまとった兵が身を乗り出す。
見張り台の旗が、朝の穏やかな風に二度、三度揺れた。
「エヴァ….様ですか?」
戸惑いと緊張が混じった声。
エヴァは顔を上げ、やわらかく微笑む。
「あぁ、少しお忍びでな。オリビアはいるか?」
見張りの兵がはっと背筋を伸ばす。
「すぐお呼びします!少々お待ちください!」
別の兵が梯子を駆け下り、走って内側へ消える。
残った兵は手早く合図を送り、鎖の音がこだまする。
門機構の滑車が回りはじめ、格子門がゆっくりと上へ上がっていく。
金属が擦れ合う音が、まだ新しい街の朝を引き締めた。
◇
そのころ——
オリビアはキッチンに立っていた。
窓から差す陽が白磁の皿に四角い光を置き、香草の緑が鮮やかに浮き上がる。
パンはこんがりと焼け、表面に走る細かなひびから湯気と小麦の甘い匂いが立つ。
鍋では鶏肉のスープがことことと鳴り、刻んだ野菜が柔らかな色に落ち着いていく。
流し台の蛇口からは、拠点の給水路経由で引いた澄んだ水が勢いよく流れ、木のボウルを濡らした。
この家は二人で暮らすことを前提に設計されている。
広いリビング、二人分の衣装を余裕で収めるクローゼット、そしてラウニィーが「一緒がいい」と譲らなかった大きなベッドのある寝室。
内装も家具も“質素”ではない。
きちんとした造り、手触りの良い木、丁寧に織られた布。
街全体がそうだ。
まるで長く住むことを疑わない家々。
寝室の扉がきい、と開いて、眠たげな顔がのぞく。
「おはよ、ラウニィー。朝ごはん食べましょ。」
ふわりと近づいたラウニィーが、無邪気に笑ってオリビアの腕に絡む。
「おはよ、リヴィ。今日もかわいい♪うーん、いい匂い♪」
「はいはい、早く食べましょ。」
口では軽くあしらいながら、オリビアの目元は甘くほどける。
ラウニィーは当然のように腰に抱きついたまま椅子に腰掛け、オリビアがスープをよそう間も、頬を肩にすり寄せて離れない。
「ほら、こぼれるわよ。」
「こぼれても拭いてくれるでしょ? リヴィはやさしいもん。」
「甘えすぎ。」
「甘やかしてくれるって知ってるから甘えるの。……だめ?」
視線が合う。
オリビアは小さく息を笑いに漏らし、額を指先でつつく。
「だめじゃないけど、スープは熱いからね。気をつけて。」
二人のそんなやりとりを、温かな湯気が包む。焼き上がったパンを割ると、ぱり、と軽い音。
ラウニィーはそれを両手で受け取り、猫のように鼻先を近づける。
「ん〜〜、幸せ。」
その時だった。
家の前の石畳を打つ駆け足。
きっぱりとした足音が近づき、扉が遠慮がちに、しかし急を告げて叩かれる。
ドンドンドン。
「失礼します!オリビア様、エヴァ様が単身で街の入り口にいらしております。オリビア様を呼んでほしいとのことです!一緒に来ていただけますでしょうか?」
オリビアは椅子から立ち上がり、扉を開ける。
伝令の兵は汗を額に光らせ、胸の前で拳を握って待つ。
「わかったわ。すぐにいく。」
背中から、拗ねた気配がまとわりつく。
「えぇー、リヴィ〜行っちゃやだよ〜」
ラウニィーが背後から抱きつき、頬をすり寄せ、オリビアの指をぎゅっと握る。
兵士が気まずそうに視線を逸らすほどあからさまな甘え方に、オリビアは困ったように笑って肩をすくめた。
「少しだけ待ってて。すぐ戻るから。」
「……ほんと? 嘘ついたら泣くからね。」
「泣かないの。朝食、先に片付けておいて。お願いね。」
「むぅ……。わかった。」
ラウニィーは名残惜しそうに腕をほどき、しかし皿を重ねたり、パン屑を集めたり、拗ね顔のまま甲斐甲斐しく動き始める。
オリビアは外套を取り、髪をひとつにまとめ直して玄関を出た。
◇
城門前。
堀を渡る木橋の先で、格子門はゆっくりと上へと昇り切った。
朝の光に、門番の槍先と鎖の鉄が白く光る。
門の陰から現れたのは、黒髪を風に遊ばせるエヴァ。
装いは簡素だが、眼差しの芯に揺るぎがない。
エヴァは手を振り、快活に笑った。
「オリビア!おはよう!急に来てすまない。」
オリビアも同じように笑みで応じる。
「エヴァ、おはよう!こんな急にどうしたの?知らせの一つでもくれればよかったのに。」
「いやー、なんというか、ちょっと様子を見に来たつもりが、こちらもびっくりしているというか….あはは」
苦笑に混じる素直な驚きが、門上の兵たちにも伝わってほころびが走る。
オリビアは軽く肩をすくめ、手で示す。
「そういうことね!ふふっ…。それじゃあ、ようこそ!理由を説明しながら街を案内するわ!それよりご飯は食べた?私も途中だったから、よかったら一緒に食べましょ!」
エヴァが一拍おいてから頷く。
「あ、あぁ、ありがとう。今回はお忍びだから、よければオリビアの家にお邪魔してもいいか?」
「もちろん!じゃあ家まで案内するわね!」
門兵が安堵の息を吐き、街路の見回りに戻っていく。
三人(途中からラウニィー合流を見込んで)を想定したのか、近くの兵が門の開閉機構を点検しながら「歓迎」の合図旗を掲げた。
拠点の朝は、来訪者にももう“街の朝”と変わらぬ柔らかさを見せる。
◇
住宅街へ足を踏み入れたエヴァは、思わず足を緩める。 石畳はまっすぐで、家々の壁は同じ色調で揃えられているが単調ではない。
窓枠の彫りや屋根の角度に、それぞれの持ち主の好みがにじむ。
軒先には花。
水瓶の透明。
子どもたちの笑い声。
市場へ運ばれていく木箱。
どれも“臨時”の匂いはない。
ちゃんと暮らすための形だ。
「……本当に、街だな。」
ぽつりと漏らしたエヴァに、オリビアは横目で笑いかける。
「拠点って呼び続けてるけど、中身はもう立派に街。堀はあの湖から水を引いたの。水路で各家にも配水できるようにしてあるわ。」
「なるほど、だから空気まで澄んでいるのか。」
歩くほどに、家の一つが大きく口を開くように広がってくる。
オリビアとラウニィーの家だ。
庭には小さな果樹、玄関脇には工具と木箱がきれいに並び、戸は重厚で開閉が滑らか。
玄関前の石段を上がると、扉がぱたぱたと内から開いた。
「おかえり、リヴィ……って、エヴァ!」
ラウニィーがぱっと笑顔になり、飛び跳ねる勢いで玄関まで出てくる。
エヴァは両手を広げた。
「久しぶりだな、ラウニィー。」
「わぁ、来てくれたんだ! ね、ね、入って入って。リヴィのスープ、最高なんだから!」
ラウニィーはオリビアとエヴァの手を掴み中へ入れる。
その様子に、エヴァは目尻を下げた。
「ふふ、相変わらず仲がいい。」
「当たり前でしょ?」と、ラウニィー。
オリビアは少し咳払いして照れを隠し、「どうぞ」とエヴァを中へ通した。
ダイニングには、先ほどの食卓がそのまま残っている。 ラウニィーは素早く椅子を引き、オリビアの分を少し近くへ寄せ、エヴァの前にも皿を置く。
「座って。ほら、リヴィ、こっち。」
「はいはい。」
エヴァは腰を下ろし、香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「いい香りだ。」
「でしょ?」とラウニィーが胸を張る。
「リヴィのごはんは世界一なの。ね、リヴィ?」
「自分の手柄みたいに言わないの。」
「だって、アタシが“おいしい”って言って育てたんだもん。」
「それは……まぁ、否定しないけど。」
目と目が合って、二人の間に小さな笑いが生まれる。
エヴァはスプーンを口に運び、息をつく。
「……温かい。沁みるな。」
「よかった。」とオリビア。
「旅の途中で冷えたでしょう。」
三人で食卓を囲みながら、オリビアとラウニィーが、拠点が“街”の形になっていく経緯をかいつまんで語っていく。
資材の確保、水路の整備、住居の設計。
安全、暮らし、誇り——順番をつけて積み上げたこと。
エヴァは黙って頷き、時おり短く尋ね、また聞く。
やがてスプーンが皿の底をかすめる音が止み、彼女はふと尋ねた。
「で、この街はなんて名前の街なんだ?」
オリビアとラウニィーは顔を見合わせる。
ラウニィーが舌を出して、肩をすくめた。
「そ、そういえば作ることに必死で決めてなかったね。」
オリビアは窓の外に視線を送り、少し遠くを見るように呟く。
「街の名前か……よし!みんなを集めて街の名前を決めましょ!その方が後々なにかと便利だわ!」
ラウニィーはがばっと立ち上がって、拳を握り締める。
「じゃあアタシがみんなを集めてくるから、オリビアとエヴァは会議室に向かっててよ!」
「ありがと!じゃあ任せるわ!私たちは会議室に向かいましょう。エヴァ。」
オリビアが席を立つ。
ラウニィーは勢いよく玄関へ駆け出した。
「任せて!」と一声残して、通りの方へ消えていく。 オリビアはエヴァと目を合わせ、肩をすくめる。
「いつもあんな調子よ。」
「良いことだ。」エヴァは笑う。
「あの明るさが、この街の灯だな。」
オリビアとエヴァは朝食を済ませ、準備をするのだった。




