閑話 セレナ・エルンスト――帰らぬ巣
噂は街の隅々へと滴る水のように広がっていた。酒場の騒ぎ声に混ざり、商人の口角に引っかかり、子供たちの囁きになってはまた別の耳へ流れた。
セレナはそれを確かめるように、夜明け前の薄い光の中を歩いた。人々の顔を観察し、反応をひとつずつ胸の奥に刻む。手にした短刀は鞘の中で冷たく沈んでいるが、彼女の指はその重みを頼りにしてはいなかった。頼りは、あのとき鍛え上げた自分の体と、闇の力だけだ。
「まだ、届いてるわね」
ラウニィーの声が背後から柔らかく響いた。ふたりは短く目配せをする。ラウニィーの存在は、いつもその背を少し軽くしてくれる。けれど今日、セレナは別のことを考えていた。――父の顔を見に行こうと、決めていた。
生家は、変わらず大きかった。高い石造りの門、手入れされた中庭、奥へ続く長い廊下。――しかしそこに温もりはない。父は屋敷の主としての威厳だけを身にまとい、その視線は娘を暖かく包むものではなかった。
「……久しぶりだな、セレナ」
父の声は、儀礼的で、冷たい。歓迎の色はなく、驚きよりも面倒臭さが先にあるように聞こえた。
「父上。少し話がしたくて戻りました」
セレナは礼など取らず、まっすぐに父の顔を見た。幼いころの望みだったものは、もう今は要らない。問いかけるのは真実だけだ。
「王都の噂を聞かれますか? 飛空艦のこと。――あれは、何が燃料なのか、ご存じですか?」
父の眉が一瞬だけ動いた。驚きだろうか、それとも単純な理解の遅れか。
「燃料だと? 魔石か新型の結晶か、何かだろう。そんなことを聞くとは、妙だな」
セレナは言葉を選ばずに続けた。
「もし、無辜の民が犠牲になって飛空艦が飛んでいるとして――父上は、どうしますか?」
父は視線をそらさず、しかし冷淡に答えた。
「王国のために多少の犠牲はやむを得ん。国の存続は最優先だ。賤民など、国の秩序のために整理されるべき存在に過ぎぬ」
その言葉は、セレナの胸を鋭く突いた。望んでいた答えではある。だが、それが彼の“父としての愛”の否定であることも、はっきりと示していた。
「……そう」
セレナは短く返すと、ゆっくりと立ち上がった。胸の中が静かに燃え上がる。戻る理由はもう無い。求めていた愛はここにはなく、父の信じる王国と自分の信じる人々とは、交わらない。
自室は昔のままだった。小さな机、薄いカーテン、そして――窓辺に置かれた、小さな鳥のぬいぐるみ。色褪せた綿、縫い目の粗さ、母が作った手仕事の跡が残る。それは幼いセレナが最後に抱いた温もりだった。
母の声が、ふと思い出される。
――「あなたは、わたしの誇りよ。胸を張って、生きて」
涙は出なかった。代わりに、胸の奥で何かが静かに決まった。
セレナはぬいぐるみを指先で撫でると、そっと懐に忍ばせた。小さな布片が、これからの自分の“証”になる。
「私は行きます」
そう一言だけ残し、彼女は生家を後にした。振り返りはしない。戻る場所はもうないのだ。
合流地点に戻る道は、人で溢れていた。噂が生んだ波が確かに動いている。北門の石段に腰掛け、セレナは仲間たちの到着を待った。ラウニィーは少し遅れて来ると言った。エルドゥの者たちは既に走り去っているはずだ。
しかし、待ち時間は短く終わる。背後から、鋭い気配が近づいた。皮革の擦れる音、軽い足取り。軍用の歩調ではない。情報部――王国の影を纏う者たちが、ゆっくりと輪を形成していく。
「よくも……そんな噂を」
先頭の男が舌打ちする。黒い鉢金、紋章の入った甲冑、そしてその目に宿るのは冷淡な確信だ。あと四人、影のように隠れていた者たちが、するりと姿を現す。計五名。情報部の戦闘員たちだ。彼らは噂を摘み取るために動く。方法は――力、だ。
「逃げるつもりか?」
男が嘲るように言う。周囲にはささやきにも似た興奮が走る。だがセレナは浅く息を吐いて、短刀の柄に指先をかけた。
「ここで、とどまるつもりはない。ただ――話をしたかっただけ」
男が笑う。嘲笑は刃のように冷たかった。
だが次の瞬間、空気が裂ける。セレナの瞳が黒く光り、暗い霧が地面から立ち上る。闇魔法が蠢き、音を吞み込むようにして広がる。
五人は反応が一瞬遅れた。セレナはその隙を逃さず、両手に短剣を取り勢いよく跳んだ。短剣は闇の刃と化し、音もなく男の首筋を引き裂く。残る者たちも矢継ぎ早に動くが、彼女の動きは猫のようにしなやかで、そして容赦がなかった。
闇の渦に巻かれ、視界を奪われた戦闘員が斬られる。別の者が飛びかかるところへ、足元から闇の蔓が絡みついて引き倒す。セレナは短剣を振り、影を操り、敵を一人、また一人と切り倒していった。血の匂いと鉄の冷たさが運命を告げる。
戦いは短かったが激烈だった。五名――情報部の精鋭は、全滅した。石畳に倒れた彼らの鎧は、夜の街灯に鈍く光る。セレナは息を荒げながら立ち尽くす。体に小さな擦り傷はついているが、大きな損傷はない。それでも全身に冷たい疲労が浸みていた。
やがて遠くで、鐘の音のように足音が重なり始める。増援だ。王国の情報網はすぐに動く。隠れる猶予は無い。
「来るぞ。撤退するわよ」
ラウニィーの声が後ろから届く。彼女は駆けつけたのだ。エルドゥ配下の者たちも姿を現し、セレナの周囲を固める。
「大丈夫か、姉御!」
「生憎ね。いいえ、大丈夫よ。さぁ、行くわ」
セレナは懐の鳥を確かめると、握りしめた。小さなぬいぐるみは温かくはないが、確かな重みが彼女の胸を支えた。
群れは走る。夜の門を抜け、石畳を蹴って王都を離れた。噂は既に街を変え始めている。だが、戦いは終わってはいない。足音は後ろで確かに続いている。
セレナは振り返らず、ただ前を見つめた。ぬいぐるみのぬくもりは、もう“帰る場所”ではなく、“行くべき場所”を示す羅針になっている。
二度と生家へは戻らない。彼女の影は、仲間たちとともに夜の道を伸びていった。




