第三十二話 冷徹の死神
――砂が跳ね上がる。起点はオリビアの右足首。
前傾、左の氷刃で“見せ”の牽制、右の氷刃を胸の高さで伏せたまま、懐へ。
残雪の鞘走りは見えない。刃が抜けるより先に、冷気が皮膚を撫でる。
オリビアは踏み込みと同時に、腰をひねって風を内側から押し出す。氷刃が弾かれる音はなく、代わりに空気が裂ける薄音が走る。
斬線が交差した瞬間、右肩の外套が「キ」と鳴って凍り、砕けた。
セツナの片目がわずかに細くなる。「悪くない」
次の瞬間、彼の影が薄く伸びた。
居合の形で構えたまま、身体ごと“消える”。目が追いつく前に、首筋に氷気。オリビアは首を半手幅落とし、左の氷刃を縦に割り込ませる。刃と刃は触れていない。触れれば砕ける。触れる寸前で、風圧と氷圧だけがぶつかる。
砂塵が二人の間で巻き上がり、静かな渦ができた。
ラウニィーが息を飲む。「音が……しない」
サンドが小さく唸る。「いや、音が全部、風と氷に飲み込まれてる」
セツナの足が砂に印を残したと思った瞬間には、もう別の位置にあった。
刃筋は最短、腰の回転は最小。肩は一切ブレない。鍛え上げた体幹が、刀をまるで“体の骨の一本”みたいに扱う。
オリビアは距離を嫌い、間合いの外縁で踊る。氷剣の軽さに風の推力を足す。重心を一拍遅れて追従させ、足裏が砂を「撫でる」だけで前へ滑る。
左の刃が目晦し、右の刃が実。風が右刃の前面に薄膜を張り、刃渡りを半寸延長する。
セツナが初めて残雪を“打つ”。
鋼ではない、氷の芯を狙い撃つ角度。氷剣の核に“波”を起こし、亀裂を誘うための角度と圧だ。
オリビアは微差で角度を外す。打突線を三分ずらし、風膜を厚くして受け流す。氷面に白い筋が走るが、核は揺れない。
「ふー……っ」
息が白い。肺の内側まで冷え、意識が鮮明になる。
セツナの刀が、ほんの少しだけ低い位置を取った。誘っている。斬り下ろさせ、返す。
オリビアは乗らない。外壁へ滑り、右足を支点に側面へ走る。風で砂を蹴り上げる。その砂は“煙幕”ではなく、氷の視界を乱す微粒子。光を散らす。
セツナの片口元が、わずかに笑った。「やる」
氷結領域――空気の温度が一気に落ち、砂粒一つひとつが霜を纏う。足裏の感触が滑るに変わる。
オリビアは風で靴底に“粘り”を与え、氷上の摩擦をつくる。右の氷剣で低く付く。セツナは刀身を九十度返し、平で受けながら歩幅一つで間合いを殺す。
至近。
ここでの一瞬は、外の一分に匹敵する。
――抜刀。
視界の左下。鞘と刀の隙がゼロになる瞬間、風が押し返す。
オリビアは右の氷刃を切先から一寸引き、刃の“腹”に風膜を厚く巻いた。斬筋をずらし、氷と氷の“鳴り”が甲高く跳ねる。
ラウニィーの指が震えた。「いまの、見えた?」
サンドは首を振る。「見えねぇ。でも結果は分かる。オリビアはまだ生きてる」
汗の味が、塩辛い。
オリビアは呼吸を落とし、視野を絞る。セツナは上下動がない。斬るためだけに立ち、斬るためだけに進む。
――だったら、読み切る。風は嘘をつかない。
彼の衣の裾が一指幅揺れるたび、袖が半拍遅れて振れる。その“遅れ”こそが、次の重心移動の兆候。
(ここだ)
オリビアは左の刃を、刃ではなく“面”として差し込む。風で刃面を一瞬だけ広げ、壁のように使う。セツナの踏み込みを刹那遅らせる。
右の刃――切っ先の前に、風の“舌”を付ける。触れる寸前に舌が先に触れ、皮膚感覚に一拍の違和感を与える。
セツナの片眼に、初めて驚きが灯った。
抜刀一閃。
風舌が先に触れ、脳が受けた「違う」に身体が一秒の千分の一だけ鈍る。その千分の一が、いまの二人には刃の長さ分に等しい。
オリビアは軌道を半寸ずらし、身を捻ってすれ違う。右の氷刃が、セツナの頬に――線を引いた。
細い。細いのに、冷たい。
氷の線が、すぐに白く乾いた。
静寂。
セツナが刀を止め、呼吸を一度、深く落とした。
残雪が鞘へ吸い込まれる。金属音はしない。ただ、終わりの気配だけが綺麗に収まった。
「……一太刀、入ったな」
オリビアの膝から力が抜け、砂に片膝をつく。肩で息をし、肺の奥が痛む。氷剣は震えていない。核が鳴動を吸っている。
セツナは近づき、右手を差し出した。
「立て」
その手は冷たいのに、温度の層があった。外側の冷、内側の熱。
オリビアは立ち上がる。ラウニィーが口元に手を当て、サンドが大きく息を吐いた。
セツナは、場の隅の黒布の包みへ歩く。布を解く。
青銀色の刃が、闇を切り裂いた。双剣――細身で、刃文は風の軌跡みたいに細くうねる。磨いても光沢のない刃は、代わりに「風の膜」を纏っている。抜けば“ヒュウ”と風が鳴くと聞いた、あの剣。
「ヴァルクレア……」
オリビアの声は、震えた。
セツナは二本を両手に持ち、柄をこちらに向ける。
「アルノーは言ってた。『オリビアが自分の道を選んだ時、渡してくれ』とな。お前は――いま、選んでいる」
オリビアは膝を正し、両手でそれを受け取る。
掌が、剣に迎えられる感触がした。冷たさじゃない。風の温度。刃の根元から先端へ、古代文字が一本の線のように刻まれている。「風の道」が、彼女の呼吸に応じて淡く浮き上がる。
セツナが淡々と続ける。「言うまでもないが、その氷の双剣は返せ。借り物だ。……核は残しておけ。お前の魔力で再結晶できる」
オリビアは氷剣をそっと地に置き、ヴァルクレアを鞘に収める。
“ヒュウ”。
風が短く鳴いた。胸の奥の何かが、同じ音で答えた。
セツナは煙草に火をつけ直した。
「お前がこれから何を成そうとしてるかは、だいたい知ってる。誰も成し得なかった道だ。……それでも行くのか。自分の命、仲間の命を賭けて」
オリビアは迷わなかった。「行きます」
セツナは目を伏せ、うなずいた。
「愚問だったな。――最後に一つだけ言わせろ」
視線が、まっすぐ刺さる。氷の色に、火の粉が一瞬だけ映った。
「オリビア。立派になったな」
喉の奥が熱くなる。
アルノーの背、汗、泥、笑い声、怒鳴り声。最期に庇ってくれた体温。灰色の空の下で誓った言葉。全部がいっぺんに押し寄せて、視界が滲んだ。
ラウニィーが駆け寄って肩を抱く。「リヴィ……」
サンドが鼻を鳴らす。「よくやった」
セツナは踵を返す。
「ここでお別れだ。《シノビ》はしばらくお前らの影に付く。……見られたくない時は、風向きを変えろ。それで分かる」
薄い冗談みたいな言い方だった。
オリビアが涙を拭いながら笑う。「覚えておきます」
彼は扉のところで足を止め、振り向かずに言った。
「灰の市場から出るまで、油断するな。ここは“人間”が一番危ない」
気配が消えた。
オリビアはヴァルクレアの柄を握り直す。白い革巻きの感触が、体温にゆっくり馴染んでいく。
***
闘技場を出ると、空は灰色のまま、風だけが澄んでいた。
ラウニィーが微笑む。「似合うよ、ヴァルクレア」
サンドは肩を回す。「帰ろうぜ。あの丘は、俺らの場所だ」
オリビアはうなずき、双剣の重さを確かめる。
風が鞘口で鳴き、薄く頬を撫でた。
――師匠。見ててください。私は、行きます。
三人は灰の市場を背に、足をそろえた。
灰色の風の向こうに、彼らの拠点で揺れる小さな炎が、確かに見える気がした。




