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銀翼のヴァルキリー -その翼は、自由を識る-  作者: 翔司
第二章 銀翼は祈りを抱いて

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第三十一話 灰の市場

 木槌の音が、森の皮膚を叩くように一定のリズムを刻んでいた。


 スフォンジーの森、外縁の小丘。切り出した丸太が積まれ、湿った土に杭が打ち込まれていく。


 焚き火は控えめに、煙は低く這い、草いきれと樹液の匂いが鼻にまとわりついた。


 オリビアは地図を広げ、周囲の等高線を指で辿る。

見張り台の位置、防柵の死角、水場までの動線。ラウニィーは矢羽根を丁寧に束ね、サンドは肩で息をしながら、傷んだ盾の板金を交換していた。


 ――空気が、ほころんだ。


 音はないのに、森の輪郭がわずかに歪む。


 オリビアが顔を上げるより早く、影が六つ、枝から枝へ、落葉に触れずに滑ってきた。漆黒の装束。口元は布で覆い、眼だけが冷たい。


 ラウニィーの弦が軋む。サンドが半歩前に出て、盾の縁を落とす。


 オリビアは掌を軽く上げた。


「待って。敵意は……ない」


 先頭の一人が、音を捨てた身のこなしで地に降り、ひざを折った――ではなく、折るふりもしない。こいつらは礼儀より用件だ。


「我らは《シノビ》。ミナヅキの伝言を持ってきた」


 低く平坦な声。


 差し出された封は冷たく、銀の刻印が微かに白い息を吐いている。オリビアは封を割った。


 五日後、灰の市場の闘技場に来い。


 ― セツナ・ミナヅキ


 灰の市場――。


 法の外側にできた灰の都。王国の法も帝国の法も届かない。人身売買、殺し、博打、そして奴隷の闘技。金と血で回る歯車が、地下のどこかで終わりなく軋んでいる。


 「伝えたからな。」


 黒衣はそれだけ言って、風に溶けた。六つの気配が、初めからなかったみたいに消える。


 残ったのは焚き火の小さな破裂音と、釘を打つ音だけ。


 ラウニィーが囁く。


「……行くの?」


 オリビアは封をたたみ、静かにうなずいた。


「ええ。行く」


 サンドが盾を持ち直した。


「俺とラウニィーで付き添う。拠点はエルドゥとセレナとガレンだ」


 エルドゥが短く笑う。


「森は俺の庭だ。任せな」


 セレナは地図を覗いて言う。


「灰の市場までは、森を出て四日から五日。日の短い道になる」


 ガレンが杭を一本叩き終えた。


「補給線、俺が繋いでおく」


 出立は、翌早朝と決まった。



 ***



 四日目の夕暮れには、土と砂が牙を剥く地帯に入った。乾いた風が馬の鬣を逆立て、遠目に黒煙が幾筋もうねる。五日目の昼過ぎ、瓦礫と仮設の屋根が重なり合う灰の街が現れた。


 喧噪が重い。笑い声と泣き声が同じ高さで混ざる。焼けた肉、酒、血、汗。路地裏では賭場のおやが吠え、金の皿に骨のサイコロが跳ねる。鎖が引かれる音。見ない方がいい景色が、目に刺さる。


「気、抜かないで」


 オリビアは馬から飛び降り、外套のフードを目深にかぶる。ラウニィーは弓を布で巻いて背負い直し、サンドは盾を外して肩に担いだ。三人の歩幅は、声を交わさず揃う。


 闘技場――円形の黒い巨塔が、灰色の空を押し上げていた。


 鉄の門に近づくと、影が一つ、柱の影からほどけた。


「来たな。付いてこい」


 《シノビ》だ。言葉は短く、足音は無い。


 通路を曲がるたび、喧噪が剥がれる。床石は冷え、壁は湿っている。最後の扉の前に立ったとき、肌が痛んだ。



 ――圧だ。冷気に似た魔力圧。皮膚が薄い紙みたいにひび割れる錯覚。


 ラウニィーが唇を引き結ぶ。


「……この感じ、前にも……」


 サンドが喉を鳴らす。


「背中が汗ばむのに、手が冷える。やべぇ」


 扉が押し開かれた。内側は、静寂だった。


 闇に目が慣れる。中央に、男が立っている。


 白い長髪を後ろで束ね、右目に深い傷跡。眼帯は無い。氷色の片眼が、暗闇を切る。黒と白の和装戦闘服。右腕だけ袖から抜き、指の節に白い霜が薄く付く。


 腰に一本――東方の湾刀、長刀《残雪ざんせつ》。


「久しいな、オリビア」


 低い声が、空気を鳴らさず届く。


 オリビアは自然に背筋を伸ばした。


「はい、セツナさん」


 セツナ・ミナヅキ。


 アルノー・グレイヴスの右腕にして、冷徹の死神。


 七年前、風が血に変わった戦場で、彼女はこの男を見たことがある。話したのは一度だけ。二度目が、いま。


 「アルノーが死んで七年。……回りくどいのは嫌いだ。結論からだ」


 彼は煙草を咥え、火を入れた。白い煙が細く伸び、薄く凍って消える。


 「アルノーから言づてがある」


 オリビアの喉が、わずかに鳴った。


「師匠から……」


「ああ。お前を推薦したときから視野に入れていたらしい。――あいつは俺に、愛刀を預けた」


 セツナの視線が、部屋の隅の包みに落ちる。黒布に包まれた細長いもの。


「そしてそれは、オリビア。お前に渡すためだ」


 胸の奥が焼けるみたいに熱く、指先は冷えた。


「……私に」


 セツナはわずかに頷き、しかし顔色を変えない。


「ただし、タダでは渡さん。――俺と一騎討ちだ。俺が唯一仕えた男が認めたお前を、俺に見せろ」


 息が詰まるほどの沈黙。


 オリビアは拳を握り、うなずいた。


「わかり……ました」


 セツナがふと片手を上げ、手のひらを開く。その周りに、雪が生まれる。光の粉ではない。圧縮された魔力が、空気の水分を連れて結晶化していく。


「お前はいま、剣を失ってる。素手で来いとは言わん」


 風鈴の音のような微かな鳴動とともに、氷の双剣が形成された。


 透明に近い青白。エッジは紙より薄く、芯は乳白に濁っている。柄は凍った革のようにしっとりと手に吸い付いた。


「高密度の魔力結晶だ。鍛冶じゃない。氷の外皮の中に“核”がある。普通の鉄より強い。短時間なら、俺の斬撃にも耐える」


 オリビアは両手で受け取った。冷たさが骨まで刺すのに、不思議と痛くはない。風が、この刃の周りに集まって回り始める。


 セツナは《残雪》をわずかに傾け、刃鳴りさえさせずに鞘走りを確かめた。


「闘技場へ移る。……来い」



 ***



 観客席は空だった。昼の殲戮せんりくが終わり、夜の賭場が始まるまでの、灰の市場の“呼吸の谷間”。


 砂は乾いているが、ところどころに黒ずんだ染みがある。南の出入口から光が一本差し込み、砂塵を縦に切り分けていた。


 サンドとラウニィーは壁際に立つ。声が自然と小さくなる。


 「……リヴィ、大丈夫?」


 「ええ」


 オリビアは氷剣を胸の前で交差して一度合わせ、かすかな震動を確かめた。


 この剣は軽い。けれど、軽いだけじゃない。風が芯に絡み、動きの意志を先に通してくれる。


 セツナが刀を鞘に収めたまま、歩幅を一つ進める。足音は、しない。


 「条件は一つ。俺に、一太刀でも当てたらお前の勝ちだ」

 「……はい」

 「始めろ」


 そして、空気が静まり返った。

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