第二十九話 月の火雷
指揮の男はしばらく黙し、やがて外套の内側から小さな木片を取り出した。
古い文様の飾り。磨耗して角が丸い。指が祈るようにそれを撫でる。
「人の言葉は軽い。だが、稀に重い者がいる。八百年で一度。――今日は、二度目かもしれぬ」
囲みの列のどこかで、弓弦が小さく軋んだ。緊張の逃げ道のような音。
焚き火がぱち、と鳴り、小さな火の粉がひとつ跳ね、すぐ近くで消えた。
丘の上の家々は粗末だが、背を預ける面がある。
その面に守るべき寝息が並ぶ。ここはもうただの野営じゃない。
男が、真正面から問う。
「銀髪の女。貴様、名は?」
少し間をあけて、オリビアは静かに言う。
「……オリビア・エルフォード」
男の視界が上下に広がり、俯いた口元がわずかに上がった。
「これも……運命なのか。私の名は、エルビス・エルス。貴様らの目的はわかった。我らに害をなさないのであれば――」
その時、上空で火花が散った。音より早く光が落ち、丘の空気が裂けた。赤がほどけ、白が芯を走る。火を纏った雷――。
「サンド! 盾を! 残りは退避!」
名を呼ばれた時には、サンドはもう動いていた。
巨体が一歩で間を詰め、縦に掲げた盾が火雷を受け止める。
金属が悲鳴を上げ、膝が地面を抑え込む。
「くっ!! なんて威力だっ!!盾がっ.....焼けるっっ!!」
火雷が斜めに滑り、エルビスの足元に火裂けの傷を刻む。
(――私を、庇うのか?)
エルビスの瞳に驚愕が走り、同時にオリビアは陣を締める。
「全員、戦闘配備!」
「入口封鎖、内側二重。弓は構えだけ。迷うな、止まれ」ガレンが短く飛ばす。
セレナは退避線へ目印となる石を二つ置き、エルドゥは倒木を押し出して影を埋める。
ラウニィーが焚き火に布を被せる。
「リヴィ、右の影が薄い」
「受ける。――サンド、半歩だけ右。角度を変えて」
「了解」
サンドの声は低く短い。
盾の角がわずかに傾き、次の衝撃の逃がし道を作った。
暗闇から、音をほとんど立てずに一人の女が現れた。
「……ふぅ〜ん。あれ、防いじゃうんだ」
王国大隊長の一角、爆雷の魔女――ミリア・フォルティス。
目を覆い隠すアイマスク。銀から黒へ流れる長い髪。杖を胸の前に立て、真っすぐ。威圧の力はないのに、立っているだけで一般の兵なら足が竦む圧が漏れている。
オリビアは息を浅く整えた。
ラウニィーが一歩滲み寄る。
「……リヴィ」
「大丈夫」
オリビアは声に熱を入れない。
ミリアは囁くほどの小ささで名を置いた。
「……オリビア・エルフォード」
その二語だけで、夜気がたわむ。
杖先で空気が震え、赤と白の稲妻が絡み合う。
火と雷。複合の魔法。大隊長の中でも瞬間火力で追随を許さぬ強度――。
ミリアはほとんど唇を動かさないまま、感情だけを選び取るみたいに、その言葉だけを放つ。
「……ミリアは............あなたを……………愛していたのに!!」
雷鳴が重なるより早く、火雷が束になって丘を呑みに来る。
「ガレン、後列を湖側へ。間隔一定、声出さない」
「了解。二列、移動! 迷うな、止まれ!」
「セレナ、左の石。燃え移る」
「任せて」
「エルドゥ、木柵沿いに倒木を。火の筋を切る」
「了解!」
サンドの盾に火が跳ね、霧散するように弾けた。
熱と光が盾の縁で撫でられ、地に落ちる。
サンドは「持つ」とだけ言って膝で受け切る。
オリビアは両掌を夜へ向けた。湿り気が、一息で集まる。水が寄り、空気の皮膜が折り畳まれる。
「――《ミストヴェイル》」
白い濃霧が立ち上がり、音と輪郭を奪った。
粒は細く、触れた瞬間に世界を一段深くする。
稲妻は無数の細い火種に分かれ、霧の網目に進行方向を狂わされ、熱を失って落ちた。
ミリアの足取りは変わらない。呼吸も乱れない。真っ直ぐに、オリビアだけに距離を合わせる。
ラウニィーが低く言う。「右、来る」
「受けた」ガレンが列を滑らせ、「三歩。止まれ。二歩戻る」
セレナは霧の縁で地面の水気を操り、小さな泥濘を作って火の進路を鈍らせる。
エルドゥは踏みしめた。「ここは滑る。避けろ」
霧の中で、オリビアは半歩だけ前に出た。真正面に、ミリアの気配だけがある。
「ミリア」
呼ばれて、杖先がわずかに揺れる。返事はない。
ただ、女は顎を少し上げた。
そして、ほとんど空気の擦れる音で、短く。
「……諦めない。絶対に。――あなたを、奪い返す」
オリビアは首を横に振る。言葉を重ねない。背へ向けて、ただ指示だけ。
「全員、撤退」
「了解」
ラウニィーの返答は短い。
「リヴィ、下がるよ」
ガレンが数を刻む。「十、九、八――」
霧はさらに濃くなり、足音が消える。
ミリアの杖がわずかに傾いた――次の稲妻は来ない。
気配が、ふっと消えた。
《ミストヴェイル》がゆっくり解けていく。白が薄れ、輪郭が戻る。
そこには、誰もいなかった。
ダークエルフの輪も、王国の影も。
サンドが盾を下ろし、焦げた縁を指で弾いた。
「……終わったか?」
「終わってない」
ガレンが即答する。
「被害確認。線で歩け。吹き溜まり見るな、踏むな」
「了解」
セレナが焚き火の火の粉の跡を踏みしめ、燃え移りやすい草を摘んで潰す。
エルドゥは木柵の足元を確かめながら「引き際が綺麗だ。痕跡が薄い」と言った。
「追うのは?」ガレンがオリビアに視線を寄越す。
「追わない。今は、守る」
オリビアは短く答えると、最も火の傷の深い地点に膝をつき、水を呼んで土の熱を鎮めた。
月が雲に隠れ、また現れる。夜の光は弱まったり戻ったりする。
その合間に、闇の向こうから短い声が届いた。
「オリビア・エルフォード」
エルビス・エルスだ。直接姿は見えない。
だが、確かにこちらへ向けられている。
「今夜、お前の理は聞いた。この森は旗に縛られぬ。理を持ち込む者だけが、入れる。――また、見に来る」
それだけ。気配は森に沈んだ。葉がざわめき、夜の息が戻る。遅れて、遠くで鳥が一度だけ鳴いた。
焚き火がかすかに燃え、赤い芯を見せる。
オリビアはその赤を見つめ、短く息を吐いた。
「……各自、休め。交代を早める。水と布を配って。焼けたところは今のうちに冷やして」
「了解」ガレンは踵を返し、声を散らす。「二列、五十歩ごとに点検。迷うな、止まれ」
セレナは頷き、負傷者の腕に冷えた布を巻く。
サンドは黙って盾の縁を磨き、エルドゥは焦げた地面を足で均した。
ラウニィーがオリビアの隣に腰を下ろす。しばらく何も言わない。焚き火の小さな音と、遠い寝息だけが重なる。
やがて、ラウニィーは小さく呼んだ。
「……リヴィ」
オリビアはその呼び方にだけ、ほんの少し肩の力を抜いた。
誰も、彼女の手に剣がないことを責めない。
剣のない手で、彼女は守り、選び、進む。
それが今夜の答えだった。
月は雲の切れ目から姿を見せ、屋根の隙間を撫でる。
白い息が、また空へ溶けた。
世界はまだ戦いの途中にある。
けれど、ここには確かな赤があった。
それは、明日のための火だ。




