第二十八話 森の影
初日は伐り出しと運搬だった。
湿り気を吸った丸太の重みが肩の骨にのしかかり、縄が掌の皮を持っていく。サンドは二本を片腕で抱え、エルドゥは斧の柄に汗を吸わせながら節目を読み、セレナは倒す角度と受けの位置を短く指示し続けた。
ガレンは「間隔あけろ」「迷うな、止まれ」と乾いた声で列を動かす。
ラウニィーは傷の深い者を軽い役に回し、道具の配り直しと水の補充を手際よく回っていく。
オリビアは両袖をまくり、運搬の列と土場の間を歩いた。剣はない。
代わりに、誰かの背にそっと手を添え、足場の悪い箇所を指で示し、息が乱れた者に「ここで一度吸って、吐いて」と短く伝える。
声は無理に張らない。響かせるのは「大丈夫」の調子だけだ。
♢
二日目は土台。石を掘り出し、転がし、据え直す。地面は思った以上に硬く、鍬の刃が幾度も跳ね返る。
「こいつは骨だな」エルドゥが歯で笑う。
「骨ごと動かす」サンドが短く返し、梃子と縄の角度を変えた。
セレナは石と土の色の違いを見分け、沈みを避ける線で印を打つ。
ガレンは「右から寄せろ。三歩。そこで止める」と、足の数で荷重を分割する。
ラウニィーは「あと五つ数えたら一回手を離して」と呼吸を合わせた。
♢
三日目は骨組み、四日目には屋根が乗った。樹皮を剥いで防水代わりに張り、隙間に苔と泥を詰める。
「ここ、指一本ぶん空いてる」セレナが言う。
「なら苔を二重に」オリビアが応じる。
ガレンは「縄、もう一本回せ。角の力が逃げる」と言い、エルドゥは「任せな」と笑って屋根の上へ。
サンドは「よし」と一言。重みの伝わり方で、倒れないと判断したのだ。
ラウニィーは焚き火場の位置を変えた。「煙が家に入る。こっちなら抜けやすい」
♢
五日目の夕暮れ、丸く連なる木柵が丘を囲み、粗い板の家が人数分、歪みながらも並んだ。
壁は薄い。けれど、背を預ければ確かに固さを返してくる。
湯を温める鍋がいくつも並び、白い息が屋根の間から空へ溶けた。
炊き出しの列には、からかいの声と笑いが戻る。
「塩、入れすぎじゃねぇか?」
「働いた後の塩は御馳走よ」
「腹が正直すぎんだよ、ぐぅって鳴ったぞ、聞こえたぞ」
それは戦場にはなかった音だった。
♢
夜が来た。見張りは交代に立ち、焚き火は控えめに焚かれた。
最初の異変に気づいたのは、耳の良い若い兵だった。
「……鳥が、鳴かない」
周囲の生き物の気配が薄い。小さな羽音も、草を割る足音も消えている。焚き火の炎が、何かに萎縮したみたいに小さく揺れ、火の粉は空へ昇らず、すぐ近くで消えた。
ラウニィーが顔を上げる。「静かすぎる」
サンドは盾を掴み、腕へ通す。革の音が短く鳴った。
エルドゥは斧の柄を持ち直し、重心を手のひらで確かめる。
ガレンは周囲へ短い合図を送り、最小限の声で人員を配置した。
「光落とせ。二列後退。迷うな、止まれ」
セレナは元部下と共に陰へ回り、足跡の残らない位置を選んで潜む。
息を吸うたびに、冷えた空気が喉の狭いところを通り過ぎる。
木立の闇が、わずかに動いた。影が一つ、二つ、そして十。輪郭が月明かりの斜めの光を受けて立体になる。長い耳、灰褐の肌、夜の底の色を宿す瞳。
――ダークエルフ。
数は少なくない。弓、槍、呪の気配。陣形は速い。
この場で刃を交わせば、こちらも無事では済むまい。
オリビアは即座に思考をまとめ、吐息と同じ長さで告げた。
「構えは保ったまま、待機」
ぶつかるだけが手段じゃない。対話の機会は唐突にあらわれ、唐突に消える。掴めるなら掴む。
彼女は一歩前へ。ラウニィー、サンド、エルドゥ、ガレンが続いた。
セレナは包囲の薄い箇所へ目を配りつつ、万一の撤退線を計算する。
息を合わせ、夜の地面に体重を均等に落とした。
ここに彼らがいること自体が異常だ。
この森――スフォンジーの森は、帝国が十を超えて丸ごと飲み込めるほど広く、資源は豊かだが、棲む魔物は桁外れに強い。
並の狩人や旅人は深部で命を落とす。
暮らしを築くなら、狩りと採集の術に長け、群れの規律を保てるだけの力が求められる。
つまり、目の前の一団は、その力を「実際に回している側」。
こちらの兵は疲労が抜け切らない。
正面衝突は悪手――結論は、姿を見せ気配を張った瞬間から、互いの距離が詰まるまでの短い時間で固まっていた。
前列から、ひとりが進み出る。
背は高く、外套は闇に溶け、足取りに躊躇がない。近づくほどに、眼差しの色が静かなことがわかる。
声は低く、よく通った。
「我らはこの森に住まう者だ。人間よ、ここで何をする。装いを見るに王国の兵の残り火のようだが、ここに拠を築く理由を答えよ」
威圧の質が荒い脅しではない。骨に自信のある話し方だ。こちらが刃を抜けば、迷いなく応じてくる――その確かさだけが言葉の端から伝わる。
エルドゥが口を開いた。
「それはこっちの台詞でもあるな。お前らが“住んでる”? 俺はこの森を何年も根にしてたが、その間、お前らの影は見ちゃいない」
指揮らしきダークエルフの目が、わずかに細くなる。
「……人間。見覚えがある。それに、そこの銀髪の女、紅の女、背の高い男。――顔を記憶している」
一同、短く息を呑んだ。
オリビアは、一歩だけ進み出る。
「私たちは国を捨てた。争いの根を断つために動く。刃は取る。けれど斬るために生きるわけじゃない。
だから、この地に小さな暮らしを築き、守る力を整え、ここを起点に――終わらせるための道を探したい」
声は張らない。飾りも虚勢も纏わない。
焚き火の赤が瞳に映り、黒目の奥に小さな光が揺れる。
ダークエルフの指揮は、長い瞬きもせずに彼女の目を見ていた。横顔に、一瞬、別の時の影が差した。
(……八百年のあいだに、ただひとり、我らの集落に足を踏み入れた人間がいた......)
名が、ほとんど息の形のまま零れる。
「アルノー……」
かつての男の顔が、彼の脳裏に浮かんでいるのだろう。
静かな目。嘘のない言葉。己を前に出さず、目的を先に置く歩き方。目の前の青い瞳に、その気配が重なったのかもしれない。
囲みは解けない。弓は下がらない。けれど、夜の色がほんのわずかに変わった。
攻め滅ぼすための輪ではなく、見極めるための輪へ。
張り詰めた弦の音はそのまま、呼吸だけが少し深くなる。
セレナは陰から、相手の陣に視線を走らせる。
弓は二段、槍の影が中央に控え、呪を使う者が後列に散る。
こちらが先に動けば、矢が一斉に飛ぶ。
盾で受けられる数ではない。
だが、会話が続く限り、矢はまだ鞘にあるのと同じだ。
サンドが一歩、オリビアの半身ほど前に出る。
守る位置を明確にしつつ、相手の視線を引き受ける。
エルドゥは土の硬さを足裏で測り、踏み込みの角度を頭の中で反復する。
ガレンは周囲を迂回できる浅い窪地を記憶に刻み、合図ひとつで小隊を滑らせられるよう配置を塗り直した。
ラウニィーは焚き火の揺れと相手の瞳の反射から、射手の利き手を推測している。
オリビアは両手をゆっくり開いた。刃はない。けれど、境界を示す角度で手首が浮かぶ。相手の喉元を狙う角度ではなく、宙の真ん中――双方の境目。
「ここで、嘘はつかない」
短く、それだけを置いた。言葉は飾らないほど重くなる。
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