第八十五話 森の奥に在るもの
スフォンジーの森の境界線付近。
王国軍前線営地。
天幕の中、地図を挟んで向かい合う二人の男。
一人は、大隊長キャシアス。
もう一人は、中隊長ルーカス・ヴァレント。
ルーカス・ヴァレント、彼はキャシアス麾下の有力な中隊長の一人だ。
観察力が高く、情報収集や諜報を得意とする。
また、戦闘力も低くはなく’暗殺’などの中隊の汚れた仕事も引き受ける。
「……ロバーツが再度、森へ入ると?」
ルーカスは静かに問うた。
「ああ。本人の強い希望だ」
キャシアスの声は低く、抑揚がない。
「前回の失敗は、不運によるものだと主張している。今度は必ず成果を持ち帰る、と」
ルーカスは一瞬、目を伏せた。
(不運、か……)
あれは不運ではない。
森を読み違えた結果だ。
だが、それを口にはしない。
「許可を?」
「出した」
短い返答。
そして、わずかな沈黙の後――
「ただし、君にも任務を与える」
ルーカスの視線が上がる。
「ロバーツには知らせるな。君は別働で森へ入れ」
「……囮、ということですか」
「そうだ」
迷いのない肯定。
「ロバーツ単独では無理だ。だが、奴は自分でそれを理解せねばならん」
キャシアスは地図の一点を指で叩いた。
「森の奥に“何か”があると見ている」
その一言で、空気が変わる。
「中隊規模が壊滅的被害を受けた。散発的に出している偵察隊も殆どが未帰還だ。
ただ危険な場所では説明がつかん」
ルーカスは静かに頷いた。
「承知しました。少数で潜行します」
「無理はするな。見るだけでいい」
キャシアスの目が細められる。
「スフォンジーはどうやら、力押しで抜ける場所ではない」
ルーカスは敬礼し、天幕を出た。
外では、ロバーツの中隊が既に出立準備を整えている。
「今度こそ成果を上げるぞ!」
威勢の良い声。
兵たちは鼓舞されている。
だが――
(焦っているな)
功を急ぎすぎている。
森は、焦る者を嫌う。
ルーカスは自隊から選抜した六名に目を向けた。
「軽装。装備は最小限。音や痕跡を残すな」
「はっ」
「我々は極力戦わない。見る。覚える。それだけだ」
その目は冷静だった。
「ロバーツ隊を、利用する」
兵たちの表情が引き締まる。
こうして、二つの部隊は時間差でスフォンジーの森へと踏み入った。
***
森は、相変わらず深い。
湿った土の匂い。
絡み合う枝。
視界を遮る緑。
やがて、前方から金属音が響いた。
怒号。
悲鳴。
ロバーツ隊だ。
森がざわめく。
獣の咆哮。
枝葉を裂く音。
ルーカスは手を上げ、隊を止めた。
「右へ回り込む。距離を保て」
騒音の逆を行く。森の流れを読むように。
(森は拒絶するのではない)
耳を澄ます。
(試しているのだ)
侵入者の質を。力量を。覚悟を。
***
騒音の逆を行く。森の流れを読むように。
ーーその時
かすかな土の擦れる音。
ルーカスの目が細まる。
「――伏せろ」
声と同時に、横合いから黒い影が飛び出した!
四足の獣。
牙は異様に長く、体毛は苔のように濃い緑。
最後尾の兵が肩を裂かれる。
「ぐっ……!」
血が散る。
だが隊は崩れない。
ルーカスは既に動いていた。
剣は抜かない。
一歩踏み込み、獣の視界の外へ滑る。
短剣が、喉元へ。
音もなく。
深く。
突き立てられる。
獣は声を上げることもなく崩れ落ちた。
続いてもう一体、木上から飛来。
だが。
「遅い」
短く吐き捨てる。
体を半身にずらし、刃を横薙ぎ。
魔力を纏った斬撃が空気を裂く。
胴が断たれ、地に落ちた。
森が、静まる。
ルーカスは周囲を一瞥。
「数は二。誘導型だな」
負傷兵の傷口を素早く縛りながら続ける。
「血の匂いは消せ。追撃を呼ぶ」
「……はっ」
兵たちの視線が、明らかに変わった。
……余計な説明は不要だな。
「進むぞ。今の騒ぎで位置がずれた」
何事もなかったかのように、再び森へ溶け込む。
***
やがて――
森の空気が変わった。
わずかに。
本当に、わずかに。
「……止まれ」
ルーカスの声は囁きに近い。
目の前の木々の奥。
自然にはあり得ない、直線。
それが、森の中に存在していた。
その先をみると……均一な石材が見え始める。
(人工物……?)
さらに視線を滑らせる。
木々の隙間。
高所。
――人影。
気配がある。
統率された動線。
巡回の間隔。
偶然ではない。
意図がある。
(森の中に……拠点?)
いや。
あれは。
(要塞だ)
胸の奥が、冷たくなる。
その瞬間。
ぴたりと、風が止んだ。
鳥の声も消える。
森が、静まり返る。
見られている。
本能が告げる。
これ以上踏み込めば、無事では済まない。
ルーカスは迷わなかった。
「撤退」
兵の一人が息を呑む。
「しかし――」
「目的は達した」
低く、だが揺るがぬ声。
「中隊規模ではやはり攻略不能。見張りあり」
「…何かわからんが、奇妙な魔力反応もあるな」
視線を外さず、続ける。
「覚えたな?」
「はっ」
「戻る」
彼らは来た道を、痕跡を消しながら引き返す。
背中に、なおも感じる違和感。
森は、何も語らない。
だが確かに。
“意志”があった。
***
営地へ戻った時、ロバーツ隊は半壊状態で帰還していた。
担架。
沈んだ空気。
ロバーツは血に濡れた鎧のまま、歯を食いしばっている。
ルーカスは一瞥だけし、天幕へ向かった。
キャシアスが待っている。
「報告します」
「聞こう」
中隊長ルーカスは簡潔に述べた。
「森の奥に拠点を確認しました。人工構造物。防壁確認。見張り複数」
キャシアスの眉がわずかに動く。
「規模は?」
「あれは……拠点なんかじゃあ、ありません。要塞です。
少なくとも中隊規模では落ちません」
そして。
「……あれほどの拠点。間違いなくアリア王女や重要人物が滞在している可能性も」
天幕の空気が凍る。
キャシアスはゆっくりと息を吐いた。
「やはり、か」
地図へ視線を落とす。
「森は、ただの森ではない」
「はい」
ルーカスは静かに頷く。
「あれは“森の要害”と呼ぶべき存在です」
定義付けることで、脅威は現実になる。
キャシアスは立ち上がった。
「軍議を開く。事は想定より大きい」
***
天幕を出たルーカスは、遠く黒く沈む森を一瞥した。
あそこには、確実に何かが……森の奥には、確かな力がある。
そして。
それを守る者たちがいる。
スフォンジーの森は、今日も沈黙している。
だがその奥で、戦の火種は確かに灯っていた。
ーー続く




