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6.Egitto

人生には自分ではどうすることもできないことが降りかかる。誰かに言われなくてもこんなことしてちゃいけないことよく分かってる。でも出来ない時ってあるよね。結婚を機に彼の勤務地についていく為、仕事を辞める決意をし最後の出勤を終えた。これから幸せが待っていると思ったら、どん底の現実に直面した彩菜。本当はこんなはずじゃない。こんなことしている場合じゃないし、こんなことしてちゃいけない。どうにもこうにも現実に向き合い切れない彼女が逃げた先はイタリア。偶然の優しい出逢い・不思議な縁によって癒され、新たな一歩を踏み出す物語。

 6.Egitto


 まだほんのり薄暗い早朝のサンタ・マリア・ノヴェッラ駅で待ち合わせた。今から海外旅行に出掛けるとは到底思えない風貌の私たちはフレッチャロッサの二等車に乗り込む。途中、切符の見回り以外はお互い会話せず静かに目を閉じていた。八時すぎローマ・テルミニ駅に到着し、次は空港行きのレオナルドエクスプレスに乗り換えた。接続もよく三十分程でフィウミチーノ空港へ到着してしまうと、ここが本当にイタリアかと疑いたくなる程スムーズすぎて逆に落ち着かない。


「彩菜さん、完璧すぎて逆に怖いっすね」

「イタリアでストライキや遅延に引っかからないなんて奇跡に近いよね。まぁ、弾丸旅行はこうでなきゃ実現しないけど」

「テルミニ駅もずいぶん慣れてますね」

「仕事で何度も使っててこのルートはよく知ってるの」

「そうだったんですね」

「私もこれでもちゃんと仕事してたのよ。そうは見えないだろうけど」

「いやぁ、そんな風に見てないっすよ。まぁ、最初はそう映ったけど」

「やっぱり、そう思ってたんじゃない」


 空港バールでカプチーノとコルネットで軽く朝食をすませた。チケットを取り出しもう一度搭乗ゲートを確認し席を離れた。たいした荷物もないからセキュリティもスムーズに通り抜けていく。カイロ行き直行便の飛行機が定刻通り、フィウミチーノ空港からの出発を待っていた。


「ダビデ像にも驚いたけど、今度はピラミッドなんて、彩菜さんには毎回、驚かされます」

「今度は誘ってないけどね」

 健人に意地悪を言って笑い合っていると、飛行機がスピードをあげながら離陸し始めた。窓からは澄んだ青空が広がっていた。


「彩菜さん、僕、やっと日本に帰る決心がつきました。ありがとうございました」

 健人の顔も澄んだ青空と同じくらい軽やかだ。

「突然、どうしたの?なんかびっくりした。私は何もしてないよ。私の方こそ、君に色々と助けてもらったよ。ありがとう」

「いや。もし彩菜さんと出逢ってなかったら、このままダラダラ決められず、中途半端な違和感に気づいていながらも気づかぬふりを続けてたような気がします」

「そう」

「はい。フェデリカともきちんと話ができました」

「そうだったんだ。それなら良かった。余計なこと、偉そうにごめんね」

「まぁ、イタリア女性の強烈な逆鱗に触れてしまい痛い目に合いましたが」

「だから、健人の顔に変な青あざがあるんだ」

「気づいてたんすか?彩菜さん、笑ってますよね?なんか嬉しそうじゃないですか。顔だけじゃないんですから、ちょっと見てくださいよ」

と着ていたシャツの袖をめくって、腕やズボンの下の膝のあざや傷口も見せてくれた。

「フェデリカもきっと、ここまですれば少しは気が晴れたんじゃない?」

「まぁ、全部僕が悪いんで。覚悟はしてたんですけど、想像を遥かに超えてきて、結構まだ痛むんすよね。未だにかなりご立腹で。完全無視っすよ。だけどこれで良かったって思ってます」

「そっかぁ。大変だったね。あとは時間が解決してくれるよ」

「そうっすね。僕も心が軽くなりました」

「それなら、きっと良かったんだよ。二人とも少なからず心痛めたんだから、顔を合わせない時間も必要かもね」

「そうですね。見たくないことを見ないようにしていただけで、いつかは見なきゃいけないって知りながら、ただ先延ばししてただけだから。イタリアを離れる時、もう一度フェデリカにお礼を伝えるつもりです。ここまで回復できたのは間違えなくフェデリカのお陰だから、出来れば笑顔でお別れしたいと思ってます」

「うん。それがいいね。後は時間薬に頼るしかないよ。リストランテの方も大丈夫だった?」

「あそこは働きたい料理人は世界中から来るんで。人手には困ってないと思います。パドローネ、フェデリカのお父さんだけど、君には申し訳ないことしてしまったね、って逆に謝られちゃって。サッカーチームのスポンサーの一人で親日家だった彼は何も知らずイタリアに来た日本人の若造を気にかけてくれて。時々バイトさせてくれたり、賄いを御馳走してくれたりと色々お世話になったんです。そう思うと感謝しかないし、今思うと、こんなに長居して結局、迷惑かける終わり方になってしまい申し訳なかったって反省してます」

「そっかぁ。きっとそれに気づくまで、それだけの時間が必要だったってことなんじゃないのかな。もしかしたら、パドローネも承知の上で、そっと見守ってくれたのかもしれないね。だって健人は、きっとサッカーも、あのお店でも真面目にやってきたと思うから」

「だったらいいんですけど」

「きっとそうだよ。ねぇ、もうすぐカイロに到着するよ。ピラミッドだよ。ダビデ像よりずっと大きいんだから」

「彩菜さん、本当に一泊もしないで帰るつもりですか?」

「だって弾丸だよ。何も持って来なかったし。ホテルもどこも予約してないから。帰りの航空券だって変更きかないよ」

 シートベルト着用サインが点灯した。いよいよエジプトだ。現地の天気は快晴で予定通りカイロ空港への到着を告げられると、分かっていながらもシートベルトを確かめた。

 カイロ空港でのビザ取得や入国審査は分かりづらくて手間取ってしまったが、ローマ出発にもかかわらず、思っていたよりスムーズに異国の地へたどり着いた。イタリアとエジプトの時差は約一時間。気温もそんなに変わらず少し蒸し暑さを感じる程度だったが、空港出口をくぐり抜けると砂漠特有の砂っぽい乾燥を肌に感じた。彩菜さんの苗字、吉澤様とアルファベットで書かれた紙を持ったツアーガイドらしき女性を見つけた。向こうもこちらに気づき近づいてきた。お互い挨拶を交わすといきなり、新婚旅行ですか?と質問され、なんとも気まずい雰囲気が流れたように感じたが、日本人現地ツアーガイドの千恵子さんはまったくお構いなしにひとり喋り続ける。


「エジプトまでわざわざ来たんだから、今だけでも日本の堅苦しい常識なんか忘れてくださいね。真剣に愛して合ってるなら、周りの目なんて気にしちゃ駄目。自分の心に抗わず愛を貫いた方が幸せになれるの。こう見えて私自身も色々あったのよ。色んな愛のカタチがあって、色んなカップルの方がいらっしゃいますから、どうぞご自由に愛を育んでくださいね。楽しい旅行になるようお手伝いをさせて頂きますから、何でも言ってくださいね」

と余計に空気が重苦しくなっていくのを感じながらもなす術が見つからない。ガイドの千恵子さんの瞳に僕らはどんな風に映ったのだろうか。千恵子さんはカイロに住んで二十年らしく、エジプトに骨を埋める予定だとも話した。空港の駐車場に到着すると、千恵子さんの白のミニバンに乗り込んだ。


「あの、ここから、ピラミッドまでどのくらいかかりますか?」

 彩菜さんはさっきまでの会話に一切耳を貸さず、というか無視したまま、会話を正しい方へ軌道修正した。今の彼女には新婚旅行なんて一番聞きたくない言葉だろうとハラハラしていたから、少しホッとした。

「カイロ空港からピラミッドのあるギザまではそんなに遠くないので、一時間もあれば到着しますよ」

 ツアーガイドの千恵子さんはハンドルを握り、この渋滞さえなければもっと早く着くのにねぇと右手の人差し指をトントンしながら、この渋滞と鳴り響くクラクションに少し苛立っていた。車窓からはなんて書いてあるのか予想もつかないアラビア語の看板やら建物、行き交う人々も異国情緒漂う光景が映し出されるのに車内は日本人三人、当たり前だけど母国語で会話する。わざわざ飛行機に乗りエジプトまでやって来たのに異国というより、慣れ親しんだ故郷のような妙な安心感すら覚える。千恵子さんは久しぶりの日本語をここぞとばかりに満喫し僕らが会話に応えなくても、楽しそうに自分のこと、カイロにどうしているのかとか面白おかしく喋り続けギザまですぐ着いてしまった。白のミニバンから降りると千恵子さんからチケット二枚を手渡され、そんなに時間が無いので急いでくださいね、終わる頃またこの駐車場で待っていますねと言い残し車に乗り込み去って行った。ショー会場でチケットに表示された座席を探し腰掛けると、すぐ暗闇の中から光に照らされたピラミッドが現れた。音声ガイダンスからも耳心地いい日本語が流れてきた。


 ~四千年にもなる萬の昔~

 世界四大文明の一つであるエジプト文明。エジプト三大ピラミッドはクフ王カフラー王メンカフラー王を指す。最初のファラオであるクフ王の墓が一番巨大で、約四千五百年前、紀元前二二五〇年頃、日本だと縄文時代に建てられたと考えられている。カフラー王のピラミッド近くにあるスフィンクスはライオンの体に人間の頭をしている。この途方もない作業を古代エジプト人の手によって建設されただけでも不思議だが、未だにその建造方法や付随する様々な事柄が解明できていないことも神秘的で魅了される一つなのだろう。ピラミッドはイタリアのバチカンにあるサンピエトロ大聖堂と同じくらいの高さであり、そこに眠るミイラは人間の心臓や腎臓以外は取り除かれ、塩漬けにされたものであると説明が流れてきた。千夜一夜。冷たくひんやりした風を感じると不気味な夜更けを連想してしまう。一体、今がいつでここはどこなのだろうか。目の前にはっきりとそびえ立つピラミッドさえも本物かどうか疑わしくなってくる。もしかしたら良くできたどこかのテーマパークに居るのかもしれない。そんな錯覚すら覚える。聴覚を刺激する日本語音声ガイドのせいなのだろうか。壮大な音楽にのって明るく煌めくレーザー光線とプロジェクションマッピングが赤や青や黄色に移り変わるのを目で追っているうち感覚が麻痺してくる。異次元空間に放り出されたまま、一時間足らずのショーがほどなく幕を閉じた。


「さぁ、帰りましょう」

 彩菜さんはすくっと直ぐ立ち上がり、何の感想もなく千恵子さんの待つ駐車場へ急ごうとした。ライトアップが消えてしまうと辺りはまた一段と暗くなってしまい、ピラミッドが本当にそこにあったのかどうかも分からなくなってしまった。

「念願のピラミッド、やっと見られて良かったですね」

「なんか違う」

「え、どうしたんですか?」

「なんかわざわざここまで来たのに、どうしても本物に見えないの」

「えっ。今、ずっと目の前で本物のピラミッド見てたじゃないですか。すごく大きくて、迫力もあって神秘的だったじゃないですか。間違いなく本物っすよ」

「思い描いていたのと、なんかもう、全然違うの」

「彩菜さんはどんな期待をしていたんですか」

「だって、太古の昔にこんな大きなお墓を遺したのよ。なのにどうしてこんなちゃちな演出の観光名所になってるのよ。エジプト人はもっとピラミッドに敬意を払うべきよ。イタリアルネサンスよりも偉大な古代文明の一つなのに。どうして。世界四大文明でしょ。なんかこう、よく分からないけど違うの」

「彩菜さん、彩菜さんの方が絶対変ですよ。そんなにクレームつけなくてもいいじゃないですか。せっかく国際線でエジプトまで来たんだから、明日の日中に、もう一度ちゃんとゆっくりピラミッド拝んで、中に入ったりしたら違うんじゃないですか」

「きっとそうかもしれない。なんか寒いし、あんまりにも現代的なアレンジだからなのかな。なんか逆にリアリティが感じられなくて。ごめんなさい」

「じゃあ明日、もう一回ここに戻って来て、ピラミッド見ましょうよ」

 僕は彩奈さんの様子がなんかいつもと違うのを感じ、手をとるとまるで凍ったように冷え切っていて、かすかに震えていた。

「いいの。今回はこれで。きっと今は現実を感じられないのかもしれない」

「どういう意味ですか?」

 その声は今にも消え入りそうで、彼女の手をぎゅっと握った。

「ごめん、何でもない。ちょっと寒くて疲れたのかもしれない」

かさぶたになりかけた心の傷が化膿してきたかのように別の痛みがジュクジュクする。

「彩菜さん、ここまで来たのに本当にいいんですか」

「いいの。また今度にする」

「日本から来たらもっと遠いですよ。今度なんてないかもしれないし」

「健人、残りたかったら君ひとりで残って。私は帰る」

「分かりましたよ。僕は付いて来ただけなんで。一緒に帰りますよ」

彩菜さんを一人には出来ない。

「ごめんなさい」

まるで親に叱られた小さな子どもみたいに小さくポツリと呟いた。

「別に、謝らなくていいですよ。でも彩菜さん、あんなにピラミッド楽しみにしてたのに。本当にこのまま帰ってもいいんですか?」

「ごめんね、健人。早く戻りたい」


 帰りの便までまだ少し余裕があったので、千恵子さんにお願いしてカイロ空港近くのファストフード店に寄ってもらった。彩菜さんはひどく落胆し、お腹が空いているはずなのにほとんど何も口にしなかった。空気を読まないように感じた千恵子さんもさすがに心配したらしく

「飛行機に乗る前に飲んで。これはエジプト産ハイビスカスとローズヒップの秘密のお茶よ。多めに蜂蜜を入れて貰ったから、心も落ち着くと思うわ」

と温かいお茶のカップを二つ渡され、別れ際に僕の耳元で小さく囁いた。

「何があったか知らないけど、早く謝って仲直りしちゃいなさいね。早く謝らないとこじれるだけよ。彼女、繊細そうだから丁寧にね」

と意味深な笑みを浮かべ小さくウインクすると、来た道を戻っていった。何かとても勘違いされているのは分かっていたけれど

「はい。色々とお世話になり、ありがとうございました」

と僕はそのカップを受け取り、軽くお辞儀をした。僕は彩菜さんのいるベンチに腰をおろし、ハイビスカスティーを手渡した。彩菜さんはそっと口をつけると

「きれいなルビー色」

と今にも泣き出してしまいそうな顔で笑顔を作り、僕にもう一度ごめんなさいと謝った。ほんの少し落ち着きを戻した彼女のちいさな肩越しに広がる空港からの夜景を眺めていたら、ふとノッテ・ビアンカの夜を思い出した。


「わたしね、なんか急に不安が襲って。砂漠の蜃気楼の中に私だけ独りぼっち取り残されて。嵐の渦に巻き込まれ砂の中へ埋もれていくの。もがいても、もがいても砂漠の真ん中にたった一人、どんどん埋もれていって。そしてそのまま砂の中へ吸い込まれ、何もかも消えてしまって、わたしの存在自体、誰の記憶からもなくなってしまうの。もう永遠に、二度とこの現実世界へ還れなくなるの。その嵐がわたしを連れにじわじわと忍び寄って来る気配を感じるの。とても怖くなって。急いでこの場から離れたくて、本当にごめんなさい」

ピーンと張りつめていた琴線にファラオが触れてしまったのかもしれない。

「彩菜さん、大丈夫ですよ。もうすぐローマ行きの飛行機に乗れますから」

巷に溢れかえっている、何の変哲もない、面白みすらない出来事かもしれない。だけど受け止め方は人それぞれで、だからこそ誰かの温かい手が必要なのだろう。鮮やかなルビー色したお茶は、乾燥しきった喉だけでなく心までもほっこり潤してくれた。僕らを乗せたカイロ発の深夜便が飛び立つとすぐ、彩菜さんは深い眠りに誘われた。翌朝ローマ・フィウミチーノ空港に到着し、いつもと変わらない騒々しく賑やかなイタリアの日常に包まれると、彩菜さんはすっかり元の彼女に戻っていた。


読んでくださり、ありがとうございました。わたしが好きな国、イタリアを舞台に選んだ。わたしが生きていてもいいと気づけた街だったから。人生には自分ではどうにもならないことが、否応なく訪れる。そんな時、あまりその出来事にネガティブな意味をつけても、辛くなるのは誰でもない自分だ。いいことも悪いこともすべての出来事の意味づけは自分で決めている。そんな事に気づけたら、少しだけ生きていくのが楽になるんじゃないかな、と思った。「大丈夫、すべてはうまくいっている!」全くそう思えない日でもそう思って生きてける強さを持てたらと思って描いた作品。

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