独りよがりに漕ぐ自転車のペダルは重く
今日もつまらないバイトに行くため、錆びたママチャリにまたがる。
漕ぎだすとキーっと軋むような音がして、
眠れなかった頭にギシギシと響いた。
ペダルは重く、遅々として進まない。
ここ数日はこんな日のリフレインだ。
今の僕には楽しいという感情を抱くことは許されず、
重たい憂鬱が腹の底に横たわり、膨れていく。
膨れた憂鬱は胸まで圧迫し、呼吸すらまともに出来ない。
姉が妊娠した。
長年、子が出来ず悩んでいた姉に待望の知らせ
喜ばしいことだ。
僕もいよいよ叔父さんかとか
そんな急に何年も年をとったみたいな
勝手な感傷に浸って、
来年からはお年玉用意しなきゃとか僕が言うと
姉がそんなもん要らないから時々顔見せて
甥っ子と遊んであげてなんて言ったりして
僕も最初は面倒だなとか思うんだけど
きっと可愛くなっちゃって
お金もないくせに、お菓子とかジュースとか
買って持って行くと
それは怒られたりして
そんなありふれた幸せが待っていたはずだった。
姉が妊娠した子供が僕との子でなければ。
僕の所為じゃない・・・そう思いたい。
思い出しても酷い一日だった。
その日は母の命日で
いつもバラバラで暮らしている家族が集まる。
普段はちょくちょく姉と一緒に実家に顔を見せているらしい
姉の旦那さんもこの日だけはこない
僕ら家族が母を悼む日だから
いつも通り家族で母の墓参りを済ませ
寿司を持ち帰り三人で食べる
母の写真の前には一人分のお寿司と
母の好きだったという赤ワインが一杯
写真の母は暖かな笑顔をしている
僕の記憶にある母の顔はこの顔だけ
時々父が、姉が母に似てきたと言うが
僕にはそれがよくわからなかった。
普段食べることの無い寿司に目もくれず
僕はただただ酒を飲んでいた。
その日はあまり飲まなくなった父も
普段殆ど飲まない姉も一緒に飲んでいた。
この日だけ二人は母の話をする。
母は本当に素晴らしい人だったんだと思う
でも僕には母に関する記憶がそう多くない
僕が物心つく時にはもういなかったから
覚えていることと言えば
人より酷く不器用な僕がどんなに出来なくても
それがあなたの良さなんだと言って優しく頭を撫でてくれた
手の温もりと、母が亡くなった時の家から温度の消えたようなあの寒さだ
だから父や姉のように正しく感傷に浸っていた訳じゃない
僕がただ飲んでいたのは自分の駄目さから
こんなどうしようもない僕にも夢があった
それをくれたのは姉だった
母の代わりを懸命に努めようとしてくれた姉
僕の為に、大学に行くことを諦めた姉
家族の為に自分を殺してきた姉
そんな姉がくれた夢だった
優しい姉は心から応援してくれた
でも相変わらず不器用な僕は
そんな姉の期待を裏切り続け
何年も鳴かず飛ばず
そんな日々に僕は勝手に鬱屈とした精神を育てた
こんな風に無茶苦茶な酒の飲み方をしているのは
それを忘れる為の酒というより
姉に何を言われても大丈夫だと嘘を付けるようにする為の酒。
父は早々に寝室に向かい大きないびきをかいている。
二人きりのリビング
グラスを傾ける音だけが嫌に聞こえてくる
相変わらず姉は優しい
何を聞くでもなく僕の自傷行為に付き合ってくれている。
今、姉は僕を心配し
僕の為だけにここにいる
よりにもよってそんな優しい姉に
僕は欲情してしまった。
姉の人妻のその熟れた体に欲情を覚えてしまった
いやずっと前からそうだったのかもしれない
それこそあの時から、あの光景を見てしまった時から
自分の身体から溢れる抗えない情動にまかせ
僕は姉に覆いかぶさった
姉は僕の尋常ならざる雰囲気に酷く怯え
抵抗しようとしていたが
僕が「父さんに抱かれてたの知ってるぞ」
と言った途端なんの抵抗もしなくなった。
足蹴にして欲しかった
僕が見た光景は嘘だと
僕が寝ぼけて勘違いしていたんだと思いたかった。
今なら冗談で終われる
一生顔を合わせられなくなったとしても
僕が消えれば済むだけの話で
だから抵抗して・・・
でも姉はただ僕を受け入れた
だから僕も止まらなかった
この人を
母の代わりでも自分の姉でも
誰かの嫁でもないものにしてやろうと思った。
翌日、僕は姉に頭を下げた。
後悔と吐き気
姉の顔なんて見れなかった。
でも姉は酒に酔っていたから仕方ない、
お互いに忘れようと言った。
それでも言葉を紡ごうとした僕を止めて
姉は笑顔で大丈夫だからと言った
そう忘れよう。何も無かったんだ。
あの日同じように
子が出来たと聞いたのはそれからしばらくたってからだった。
心臓を掴まれた思いだった。
姉はこの問題を一人で抱えきれず父に相談していた。
父はそれを聞いて怒るでもなく
ただ姉を抱きしめたそうだ。
姉は生む決断をした
姉に堕ろすことなんて出来なかった。
父もこの問題に寄り添うと決めた。
産むとなるともう今の旦那とは一緒にはいられない
だから生真面目な姉は正直に全てを打ち明けた。
弟を受け入れたこと、弟を責めないで欲しいこと、そして子を産むこと。
終始泣いて謝り、私のわがままに付き合わせる訳にはいかないと
だから離婚して欲しいと伝えたそうだ。
しかし旦那さんは、離婚を拒否した。
それどころか僕と姉の子を自分達の子として育てようと言った。
元々、自分の精子が原因で子を授かることが出来なかった、
精子バンクのことも考えていたし、弟さんなら君の半分みたいなものだ。
俺は、君と君の子を愛すと言ったそうだ。
姉も、同席していた父もこれには驚いた。
普通怒るところだし、父は慰謝料の話も出ると思っていた。
揉めると踏んで、僕抜きでの話し合いだったそうだが、
旦那さんはそんな僕ですら気づかい、今知らないなら
知らないままの方が俺の為ではないかと提案もあったらしい。
旦那さんの広く寛大な心に姉、父共に泣きながら感謝し
その場は終わったそうだ。
父はその事もあってちゃんと伝えた方が俺や姉の為になると
考えを改めたらしく、
時間を作って、旦那さんにしっかりと頭を下げ自分のしたことを
反省しなさいと言われた。
反省しなさいか
なんでこんなに上手くいかないのだろう
なんでみんな許してくれているのだろう
その旦那さんがいいと言っているんだから教えないで欲しかった。
優しさは時に毒だと言うけれどまさにそれだ。
どうせなら罵ってくれ、お前は家族じゃないと切り捨てられた方がましだ。
重い・・・自転車を漕ぐのってこんなにしんどかったっけ
道の前を高校生の男女が歩いている。
付き合う寸前か、付き合いたてなのだろう
もどかしい距離感が伝わってくる。
思いっきりベルを鳴らして二人の間をすり抜けてやった。
見せつけんな。
僕はなんて嫌な奴なんだろう。
こんな僕にも好きな子はいる。
バイト先の子で良く笑う三つ下の大学生
こんな僕の話でも笑ってくれるから気が付いた時には好きになっていた。
その子とシフトが被る日がつまらないバイトの
つまらない人生の中で唯一の楽しみだった。
何度か食事に行ったこともある。
いつか告白しようと思っていたが、もう望むことは出来ないだろう。
そこまでは図々しくなれなかったし、
こんな屑を好きになってくれるはずがない。
陰口すら言われているんだろうと妄想より確かなイメージが浮かぶ。
楽しみだったものが
いつの間にか苦痛となってペダルを重くする。
そもそもバイトなどしたくないのだ、
夢あって上京した、僕なりに努力し俺なりに進んでいると言い聞かせて
きたけれど、今だにその輪郭すら見えない。
本当にこれが僕のしたかったことなんだろうか、
それすら分からなくなってくる。
同じスタートを切った友達は既に夢を掴んでいる。
それを聞いて僕も続くぞと意気込んではいた。
腐るなと、道は前にあって、日々の小さな前進こそがたどり着く唯一の方法であると。
でもそんな道はもうない
他ならぬ、僕自身の手で壊した。
重い・・・この坂道嫌いなんだよな
姉も子も消えてくれれば、僕はまた夢を追えるしあの子に告白出来る。
この際、両親も姉の旦那も友人も消えてくれ。
そしたら僕は、
きっと僕は、
夢の諦め方も分からない、
自意識だけ一丁前なストーカーになるだろうな。
結局、楽をする為の理由を探してる。
告白も努力も、出来ないのは理由があるから仕方がない、僕は悪くない。
自己を肯定できない僕は否定すらも出来ない。
今回だって、僕は悪くない
仕方がない、僕の所為じゃない
皆にそう思って欲しい
でもそうだよなんて言わると
そうじゃないって思う
そりゃさ
怒られなくて良かったし
おおごとにされなくて良かった
でも僕はダメなままでいる理由も欲しい
僕は悪くない
夢は諦めきゃ、だってこんなことした僕は
夢を追ってはいけないもん
告白は諦めきゃ、だってこんなことをした僕に
告白なんてする資格はないもん
そうだね
どこまで行っても、人は自分中心でしかものを考えられない
知覚できるのは自分のことだけだ
人のことは想像するしかない。
僕の場合は中心にいる僕が、どうしようもなく駄目で、どうしようもなく
屑だっただけだ。
これから先ずっと、僕はどうしようもない自分と生きていかなくてはならない
今の現状よりもその事実の方に辟易する。
今度から電車でバイトに行こうかな、
耐えられなくなったら飛び込めるし。
あぁ重い
街中のチャリ漕いでる人の中にこんな事考えてる人いないかなと思って書きました。