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「今夜、東の空に彗星が見えるんだって」
と、居間のソファに座った東亜子が、テレビニュースの画面を見ながら言った。
「ふうん」
キッチンに立った尚が、口を開かずに答える。
「疲れてる?」
答がないのは、流しの水音にかき消されたせいなのか。
「男の人にも更年期障害ってあるっていうから」
「まさか。そんな歳でもない。まだ三十そこそこだよ」
と、今度はすぐに、気怠そうに答える。
午後からの出勤だからと、十時頃までベッドにいた尚は、今日は自分が昼食を作る番だと言われて、黙って何度もうなずきながらキッチンに立ったのだが、マンションのライトコートに向けて空いた窓から差しこんだ陽の光が手もとの俎の手前までを黄金に染めているのを見て、なにかを思いだしたような気持ちになったのだが、それが何なのかはわからなかった。
「いや、昨夜、というか今朝、ひどい夢を見てうなされた気がするんだけど、起きてみるとぜんぜん中身を覚えていなくて」
紅く、ぐらぐらとたぎっていて、内部がカッと白熱した、けれどもちっとも熱くはなかった、溶鉱炉のなかにいたような夢。
「悪いけど早くしてね。今日は亜希のお迎えに、ちょっと早めに出ないといけないから」
昼食を待っていると言いながら東亜子は、Tシャツの半袖から覗いた、すこしたぷついてきた二の腕に目を走らせて、一瞬、子どものおやつにと買ったドーナツの袋を開ける手を止めたのだが、結局は誘惑に勝てず、齧りついている。そういえば次女の幼稚園のバザーの打ち合わせがあるとか言っていたなと尚は思い出した。二人は結婚をしてもう十年近くになるのだが、コザクラインコのペロンヌは今も健在で、居間の窓際に置かれた籠のなかでしきりに嘴を止まり木にこすりつけていた。あいかわらず尚にしか気を許さず、娘たちには愛嬌を振りまくこともあるのだが、東亜子には敵対的な姿勢を崩さない。うっかりするといまだに噛みかれることがあった。
あの、東亜子が初めて尚の賃貸マンションの部屋を訪れて以来、たまに学内で顔を合わせると短い立ち話をするような関係がしばらく続いていたが、そのうちに東亜子が、尚を喫茶店に誘った。
もしかしてまだ知らない? と聞かれて、なにも知らないと答えて、やっぱりだと言われたのは、あの、藤澤みやという女のその後で、彼女が失恋の相手だと言っていたM大学の、例のヤバいサークルの人だと東亜子が言っていた田辺という男が、集団レイプ事件で検挙されたという話だった。主犯とはされていないので不起訴となる可能性もあるが、少なくとも退学は必至らしい。
「怖いわよね。やっぱり噂はほんとだったのかもって。で、それを知ってね、須永はもちろん喜んだわけよ。これで前の男のことをみやがスッパリ思い切れるだろうって。ところが藤澤みやは、こんなときこそ私が彼を支えてあげなくちゃいけないから、須永に、別れてほしいって言ったんだって……」
そんなねっとりとした男女関係の話を聞いて、自分とははるかな別世界の出来事のように尚は感じたのだが、すぐにそれが、目の前の東亜子に直結する話題であることに気づいた。
「じゃあ君は、その女と別れた須永と、またつき合えるってことなの」
東亜子は尚を睨みつけると、鋭い棘を含んだ声で、
「馬鹿な。あんな男はもう懲り懲り」
と言うと、ちょっとため息をついて、
「私ね、今回のことでよくわかったの。いつまでも浮ついた気でいたら、あっという間に時間が過ぎて、取り返しのつかないことになっちゃうって。思っているより、自由に使える時間は短いんだって。だから勉強と同じくらい、そんなことも真面目に考えなきゃ駄目だって……」
「そうかな。僕は時間は死ぬまで使えるものだと思ってるよ」
「それは柄本くんみたいな人だからよ。でも、そんなふうに思って生きてる人のほうが、長い目で見ると安心なのかもしれないな……」
尚は思うことがあった。
もし東亜子と出会わなかったら、自分は大学に残って、今頃は好きな研究に没頭する毎日を送っていたのかもしれないと。尚が研究者への道を断念して、卒業と共に大学受験塾の講師になったのは、東亜子が妊娠していることがわかったからだった。周囲に祝福された新婚生活と初めての子育てに没頭していたあいだは二人とも無我夢中で、自分を振り返るなどという余裕さえなかったのだけれど。
そう、充たされていた心のなかに隙間が生じて、そこになにかが侵入していくような気持ちになったのは、数ヶ月前、東亜子のスマホの画面の連絡先に、Kというイニシアルだけの連絡先をちらりと見かけたからだった。たしか、あの、妻が別れたという男は、須永計志という名前だった。
「罰を与えたくはないのか」
という声が、頭のなかで響いた気がして、尚はベーコンを刻んでいた手を止めて、ハッと包丁を握りなおした。
「キャッ」
と、東亜子が鋭い叫び声を上げた。
「どうした」
尚が対面式のキッチンカウンターから身を乗り出して、居間にいる妻を覗きこんだ。
「いや、なんでもない。気のせい……。今、なんだか鳥の目が……ぺっちゃんの目が、人間の眼みたいに見えたの」
(了)
付記:2節で登場人物が語るコンクラーヴェの内容は、ほぼ、エルンスト・H・カントーロヴィチ著『皇帝フリードリヒ二世』(小林公訳、中央公論社刊)によるものです。