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 赤い天鵞絨(ビロード)張りの天蓋から重々しく垂れた、(ひだ)をなすカーテンの奥に横たわる痩せこけた老人の容体は、目に見えて悪化していた。教皇付きの若い司祭が慌ただしく回廊へと駈けだしていったのは、臨終の秘蹟が間に合わないとなると、取り返しのつかない失態とされるからだった。あの地獄のようなコンクラーヴェから開放された翌日に三重冠を戴いた直後こそ、心にも身体にも活力が甦った気がしたのだが、その後の就任ミサの式次では椅子から立ち上がることもできず、所信を述べることもなかった新教皇ケレスティヌス四世は、バチカン宮殿前に詰めかけた群集が引くのを待ってから、輿(こし)に乗せられてラテラノ宮殿内の居室に運ばれた。その後の数日間とはいえ、かろうじて公務に立てたことは、むしろ奇跡だったといえる。十一月に入ってからはほとんど起きあがることもかなわず、瀉血(しゃけつ)の治療を受けて意識を失うこともしばしばだった。

 なかば(まぶた)を閉じた、朦朧とした視界のなかで、教皇は寝台の脇に黒い人影が立つのを感じた。わずかに首が傾いたのは、誰が自分に終油を授けるのかを見定めようとしたからだ。けれどもそこにいたのは、おおよそ宮殿内にいるはずはない風体の男だった。シトー派の修道士が着るような、たっぷりとした布地で作られた鈍色(にびいろ)のチュニックは、男の影を不気味なほどに大きく見せて、頭頂の尖った頭巾の縁は目もとまで垂れていたから、顔は濃い影に包まれていた。

「誰だ」

 とケレスティヌスは呟いた。

「そのなりからして、お前はサリエルか、それともサタンなのか。いずれにせよ、信仰の敵は無用というもの」

 そのとき、銀の燭台でか細く揺らめいていた蝋燭が、松明のように炎を吹き上げた。内側から照るように紅く浮かびあがった男の顔には、見覚えがあった。

「お前のことは知っている。だが、もう死んで十年になるのではないか。地獄から這い上がってきたか。地上に落ちてきた彗星のかけらに頭を打ち砕かれて死んだというから、その頭巾の下はさぞかしおぞましいありさまに違いない。お前はスコトゥスだな」

「いかにも」

 と、地獄の業火のように紅く輝く顔が微笑んだ。

「アリストテレスの忠実なる学徒、ミヒャエル・スコトゥスだ。だが、汝等が言うには、パレルモの宮殿で眼にも(あや)な幻術を披露し、宇宙に対する皇帝の疑問を(ことごと)く解き明かし、自らの死も、死後の世界までも予言したと怖れられる大魔術師らしいがの」

「なにが予言だ。ありもせぬ終末を言い立てて民衆を惑わせ、イタリアに混乱を招いただけではないか」

「あれはフィオーレのヨアキムがことばじりをとらえて勝手になしたこと。私の意思ではない。そしてここに現れたことも、私の意思ではない。ケレスティヌスよ。私が復活したのは、そなたが呼んだからだ」

 教皇は眉間に刻まれた皺の上にさらに皺を重ねると、渾身の嫌悪を示した。

「呼んだだと! そして復活だと! 主でもあらぬ身が戯言を言うでない。そうか、貴様はスコトゥスの姿を借りたサタンだな。ただちにこの場から去れ。主なる汝の神を拝し、ただこれにのみ仕え奉るべし……」

 スコトゥスはそのことばを聞くと、ちらりと舌なめずりをして、教皇の顔をぐっと覗きこんだ。亡者の吐く息の臭さを怖れたケレスティヌスは思わず息を詰めたが、相手は口を開くことなく、頭蓋にことばを響かせるように話し続けた。

「どうだ。イエスが悪魔の誘惑を退けたことばも、私にはなんの(さわ)りもない。それが、私がサタンとはなんの係わりもないことの証左(あかし)となろう。復活(レズュレクシオン)ということばが気に召さぬなら、転生(レアンカルナシオン)とでも言おうか。そんなことを言えば汝等は大昔のニカイア公会議などを持ち出して、さっそく論駁に励もうとするのだろうな。

 ……だがな、実際のところ、死後には天国も地獄もありはしない。とはいえ、人は死して完全な無に帰するわけでもない。アルクマイオンは、始めを終わりに結合できぬから人間は消滅するのだと言ったが、まさにその通りであって、その通りではない。初めと終わりをつなぐ第一(プリマ)質料(マテリア)の世界に私は漂っている。そして私を強く思い出す者がいれば、私はその者の精神の片隅に転生する。……

 そなたはオルシーニに罰を与えたくはないのか。たかが元老院議員の分際で、さぞかし実り豊かであったろうそなたの老後の命を削った罪を(あがな)わせ、役にも立たぬ位を押しつけられたうえに、法皇としての志の一つも果たせぬうちに死を迎える無念を晴らしたくはないのか。あやつの精神に宿って、内側から朽ちさせる愉悦を味わいたくはないのか。……ならば最期の瞬間にそれを願えばいい。これから秘蹟を授けられても、そなたには天国の光は見えはしない。見えはしないものを待ち続けるのもよかろう。だが、最後の一瞬にそなたは、神の国を信じぬであろう。それだけでいいのだ。そうすればそなたもまた、私のような存在になるだろう」

「黙れ……」

 教皇は枯れ枝のような腕を怒りに震わせながら、残る力を振り絞ってスコトゥスを爪で掻こうとしたが、空しく空を切るだけだった。その瞬間、男の黒い影は宙に浮かぶ塊となり、すぐさま鳥のような姿に変じると羽ばたいて、閉じてあるはずの窓の外へと消え去った。


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