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放鳥すると紙類を囓るから、書物や書類の類いはすべてクロゼットのなかで、しかもできるだけ容量を確保するために、整理棚とキャスター付きの衣装ケースを組みあわせて、天井まで隙間なく収納できるような工夫がしてあったり、そのおかげで室内に追い出された衣類や雑貨品には、フンをよけるためにカーテンのような布をかぶせてあったり、この人が他人に、というか女性に対する興味が薄く思えるのは、人が恋愛に費やすリソースのほとんどを飼い鳥と書物に割いているせいに違いないと東亜子は思った。とはいえ、おそらく初めてだったのかもしれないが、自室に若い女性を招いたことに動揺していないわけでもないらしく、人里に迷い込んだ小熊のようなきょときょとした動きで、入り口のすぐそばにあるキッチンのあたりを歩きまわった末に、コンビニで何か買ってくるからと言いはじめたのを止められて、最初から砂糖やミルクをたっぷり入れたインスタント・コーヒーを注いだマグカップを、ベッドの縁に腰掛けた東亜子に差し出した。衣装ハンガーや整理棚に占拠されて手狭になった部屋には、突きあたりの窓際に置かれている、六、七冊が積み重なった本の山と、16インチほどはありそうな大きめのノートパソコンが乗っている机に向かう椅子以外、ソファの類いを置くスペースもないありさまで、来客が腰を下ろすのはベッドしかないのだった。
尚がキッチンのあたりにいる間に、東亜子はスマホでコザクラインコを検索して、その異名がラブバードだと知った。けれども今ここで、ラブバードということばを口にするのは、ちょっとはしたないことのように思えた。
「須永って言うんだけどね。須永計志。仏文科の一つ上の先輩で……」
こちらから聞いたことに対しては熱心に答えてくれるのだが、尚のほうから話題を切り出すことがなかったから、東亜子が黙ってしまったらそのまま沈黙がいつまでも続いてしまう。そんな、少し気まずい間を何度か挿んだあとで、じつはだれかに全部話してすっきりしたかったのだと、東亜子は自分の失恋について語りはじめた。
「その彼とは、半年前くらいからなんとなくいい感じになって、それで、いろいろあったんだけど……。こないだのゴールデンウィークの間なんだと思う」
帰省をするのだと言っていたその時期に何があったのかはわからなかったのだが、須永はすっかり心変わりをしてしまった。LINEでの曖昧なやりとりを最後に通話拒否もされるようになると、それほど相手を束縛したいわけでもない、おっとりした性格の東亜子もさすがに異変を感じて、校内で見かけた相手を追いかけて、場所を変えて話をしようとしたのだが、ごめん、もう終わりにしようと言うだけで、理由は話してくれない。
「ほら、この通りの先の、橋の前のところに学生マンションが建ったでしょ。あそこに住んでるから、オートロックで、インターホンで話さないと開けてもらえないし」
「ずいぶんいいところに住んでるんだね」
「うん、親がお金持ちみたい」
と言いながら、東亜子はあらためて周囲に素速く目を走らせたのだが、とりあえずは鉄筋コンクリート建てであるということ以外はかなりの築年数を経た、一人が暮らすのにやっとの広さの様子を見て、鳥を飼うためにちょっと無理をして借りているというのは本当なのだろうなと思った。
「そのままだとわけがわからないから、仏文科のちょっと知ってる子に須永のことを聞いてみたんだけど、けっこう噂になってるらしいの。……きっかけは彼がK女子大との合コンに、頭数を合わせるって呼ばれたからだっていうんだけど、そんなのに顔を出すっていうことからして頭にくるよね。二次会でカラオケに行ったときに、藤澤みやっていう子が帰るって言いだして、それなら俺も帰るって、二人で一緒に出て行ったんだって」
その数日後のこと。ゴールデンウイーク中の、驟雨に見舞われた夕刻に、合コンに参加したK女子大生の一人が、空席ばかりだし注意をされることもないと思って、ファミレスでノートパソコンを開いてレポートを書いていたところ、高い背もたれで仕切られた背後の席に、男女の客が着席した。聞こえてきた女の声が聞き覚えのある声だったので、二、三人が掛けられる長椅子の端になんとなく腰をずらして、耳をそばだててみた。聞こえてきたのは雨はすぐに止むだろうとか、宅配便を受け取り損なったとか、ありきたりな会話だったので、しばらくは聞くともなしにしながら画面をスクロールして、レポートを冒頭から読み直していた。
すると耳に入ったのが、僕とつき合ってほしいという男の声だったので、思わず気づかれないように身をすくめて固くしたのだが、そもそも彼女は小柄なうえにノートパソコンに頭を突っ込むようにしていたので、背後の席には誰もいないと思って、二人はそこに座ったらしい。
――嬉しい
と女が答えて、しばらくはなにか吐息や身じろぎの物音しかしなかったのだけれど、
――でも、ちょっと……。
と、女がことばを続けた。
――わたし、好きな人と別れたばかりなの。その人のことをちゃんと忘れて、けじめをつけてからあなたとおつきあいしたいって思う。それまで待ってもらえる?
――……待てないかもしれない。
――いいんだよ。普通につきあってるって感じで。私の気持ちの問題だから。
――そう……じゃあ僕も喜んでいいのかな。
――うん……。
と、そこまで聞こえたところで、ウェイトレスがコップに水を濯ぎに来たので、二人は背後の席に人がいることに気づいたようだ。
――雨も止んだみたいだし、部屋に戻ろっか。
と、気まずそうに男が言って、こちらを覗きこまれないかとどきどきしていたのだが、会計をしているようなので背もたれの脇からちらりと覗いてみると、やはり女は、彼女と仲がよかったわけではないがよく知ってはいる藤澤みやで、男のほうはなんとなく顔を覚えていた須永だった。
「……という話を、その子がK女子大の友だちにして、それを聞いた子が、あのときの合コンがきっかけでつきあってる、うちの仏文の彼に話して、仏文科で話題になってるんだって。なんか、粉をかけてみたら、逆にパラパラふりかけられて粉だらけみたいな、ひどい、っていうか、馬鹿な男だと思わない?」
「え……」
と、たとえの意味がとっさに了解できずに、尚はちょっと戸惑ったふうだったが、
「……ね」
とだけ発声して頷いたのは、東亜子の語勢に呑まれて、まとまったことばを口にするタイミングを逸したからだった。
「それでね、その藤澤みやってのは、ちょっと危ない女らしいの。M大学のヤバいサークルの男とつるんで、女の子をそこに誘いこむみたいな役をしてるって噂があるんだって。しかもマジでバイセクシャルらしくて、そんなことするときなんか、先に男の目の前でやって見せたりとか……」
そこまで話を聞いて、慌てて目線を泳がせると、ゴクリと唾を呑みこんだ尚を見て、東亜子はかわいらしいと思っている。
静かで平坦だった飼い主の生活をかき乱そうとする、憎い敵を牽制するかのように、ペロンヌはしきりに金切り声をあげた。