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どうやら尚は東亜子からあきれられて、他人のことがまったく眼中にない、古い書物に囲まれた自分の世界にたてこもった人間のように思われたようだった。もっとも大学という特殊な環境の中では、研究室の書庫に入り浸って、一生そこを自分の住処にするような人種がいても怪訝しくはない。東亜子の周囲にはそういった、将来は研究者として大学に残るといったタイプの友人がいなかったので、学生のなかには本格的な研究の道に進む者もいることを知ってはいたが、自分たちと教職員はまるで別人種で、その間には埋められない断絶があるという感覚を持っていたから、両者をつなぐミッシング・リングのような存在に初めて出会ったように感じていた。この人はおそらく、私が話した恋愛の話など、自分には関係のない世俗の雑事だとみなしているのだろう。
一方で尚は自分のことを、極めてセンシティブな人間だと思っていて、東亜子が言う失恋というのは、いったいどういものかを想像する間もなく、悲惨な話をなどと言われて、記憶に新しい書物でとりわけ印象に残った話をいつになく饒舌に語ってしまったのだが、考えてみればこんな汚濁にまみれた話が心を癒やすわけはないし、それが相手にどう思われたかはあらかた了解していると考えていた。けれども尚は気を利かせて相手の気持ちを汲んだ上でケレスティヌス四世の話をしたわけではないし、相手のことをまったくわかっていないように振る舞うのが自分にふさわしいとさえ思っていたから、東亜子が尚のことをやや共感性に欠ける人間だとみなしたことは、遠からず的中していた。
そんな東亜子がいま、なぜ尚が借りているワンルーム・マンションの一室にいるのかといえば、そろそろ自室に帰るきっかけにしようと思ったらしい尚が、時計がわりに取りだしたスマホの待ち受け画面にインコの画像があるのを目に留めたからだった。私は鳥が大好きだから、彼が飼っているのだというそのインコに遭いたいと目を輝かせながら、東亜子は尚の部屋に押しかけたのだが、もちろんそれは尚のことを人畜無害な男だと判断した上でのことで、加えてこういう種類の人間が、普段はどういう生活をしているのかという興味があったし、おそらくは研究者になるだろう人と、在学中につながりを持っておくのも悪くはないという気持ちもあった。
「可愛い、綺麗! それに賢そう。ぺっちゃん、ぺっちゃん、ぺっちゃん……」
東亜子は部屋に入る早々、目敏く見つけた鳥籠に走り寄ると、尚から聞いたばかりのインコの名前を連呼した。
「ほんとうはペロンヌというんだ」
さいしょはふわふわとした新雪か、白い綿毛のかたまりが籠のなかに静止しているように見えたのだが、止まり木をカチカチと横歩きして、端まで来てくるりと向こうを向くと、頭と背が淡い緑色で、濡れた黒翡翠のまん丸な目も光るばかりで動かないから、生き物というよりも抹茶の蜜をふりかけたかき氷で、額の部分だけが淡いオレンジ色なのは桃かなにかのフルーツを乗せて、嘴は艶やかなナッツで造られているかのよう。けれども顔を横にして片方の目を向けながら、しきりにこちらを気にしてクッと伸びあがると、やや広げた翼の逞しい肩の線や、羽毛のレギンスから伸びた、精密な鱗模様を刻んだ脚がすらりと覗いて、いかにも俊敏な、猛禽にも似た面影がある姿に一瞬で変化するのだった。
「写してもいい?」
と、すでにスマホを構えていたのだが、
「籠から出して遊べないの?」
「いや……」
と尚はためらいをみせた。
「コザクラインコは、なんというか……嫉妬深い性質でね、つがいの相手か、飼い主か、それも一人にだけにしか懐かない。懐いた相手がほかの鳥や人と仲良くしているのを見ると、噛みついてくる。そもそもこの子を実家から連れてきたのは、僕にしか懐いていなかったからなんだ」
「ええっ、じゃあ、ここで私が柄本君と仲良くすると噛みつかれるわけ」
「まあ、そんなことがあったら僕が冷たくする、みたいなことを繰り返して、よくないことだと教えていくしかないんだろうな……ほら、ちょっと今も機嫌が悪いみたいだ」
金切り声を上げて止まり木から降りたインコは、籠の床をカチカチと爪の音をたてながら落ち着きなく歩きまわっている。この鳴き声のせいで防音重視の部屋を選ばなければならなかったのだと、尚はいくぶん自慢を含んだことのように言った。