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「要するに当時は、イタリア各地が、皇帝派と教皇派に分断されて戦争をしていた。時代は下るけど『ロミオとジュリエット』でもお馴染みの、ギベリンとゲルフの抗争だね。皇帝フリードリヒにとってはシチリア王国で実現した、近代国家を先取りしたかのような中央集権支配をイタリア全土に拡張するには、教皇庁の勢力を支配下に置く必要があったし、一方のグレゴリウスはフリードリヒを筆頭とするシュタウフェン家の血筋を根絶やしにしなければ、ヨーロッパ世界の教会の優位が脅かされると考えていた」

東亜子がやや身を乗り出したのは、彼女は英文学専攻の学生で、最近、翻訳で読んだ『ロミオとジュリエット』の注釈に、キャピュレット家とモンタギュー家がギベリンとゲルフで争っていたと書いてあったことを思い出したからだった。

「教皇はフリードリヒ二世を破門にすると、有力な枢機卿をローマに招集して、皇帝の廃位を決めようとした。フリードリヒは先手を打って、ローマに向かおうとする枢機卿たちを次々と殺害したり、捕虜にしたり。そんな容赦ない皇帝の軍隊がローマの城門の前に集結している緊迫した状況のなかで、当のグレゴリウス9世が急逝した」

「それで皇帝が勝ったわけ?」

「いや、そんなに単純な話でもなかった。ローマはもともと保守派の牙城だったから、そうなってようやく両勢力が拮抗したというところだ。実際、その時点でローマ市内にいた枢機卿のうち、半数は皇帝支持派に鞍替えしていた。このままでは教皇選挙会議が紛糾することは目に見えている。これ以上教皇の空位状態が続くと、皇帝派の勢いに圧されて、ローマは内側から瓦解してしまう。慌てた元老院議員の独裁者オルシーニは、すぐにでも次の教皇を擁立しようと、教皇選挙権を持つ枢機卿たちをかき集めた。

 かき集めたというより、拉致(らち)したと言ったほうがいい。十人の年老いた枢機卿たちは、足蹴にされ、白髪をひっつかんだ兵士たちに引きずられながらセプティゾニウムに集められた。セプティゾニウムというのは神話の土地、パラティヌスの丘に建てられた石造りの建造物で、造ったのは古代ローマの、アフリカ出身の皇帝だったらしい。その後の天災や戦乱で破壊されて今は跡形もないが、当時すでに廃墟になっていた。

 オルシーニは考えた。劣悪な環境に老人たちを閉じこめて教皇選挙会議(コンクラーヴェ)を行えば、家に帰りたさにすぐに決着がつくだろうと。だから老人たちには召使いも医者も同行を許さず、与えられた食事もごく貧しいものだった。八月の炎暑のさなか、枢機卿たちが監禁された部屋には耐えがたい暑気がこもっている。そのうえ、番人たちが嫌がらせをして、上階の床を便所がわりに使ったので、天井からは糞尿がしたたり落ちてきた。ここまで地獄の責め苦を与えれば、老人たちはさっさと自分たちのなかの誰か一人を、新教皇として選出するだろうと、元老院側の誰もが考えた。

 しかし、枢機卿たちは、想像以上に職務に忠実だった。皇帝派と教皇派が拮抗した選出会議は、双方が必要とされる三分の二の多数を獲得できず、異例なほどに難航した。

 これを知った皇帝フリードリヒ二世は、いにしえの皇帝介入権を主張した。皇帝派の足りない一票が皇帝によって補われることで、ついに趨勢が決する。……そんな期待を裏切るかのように、皇帝派の一名が死亡した。その枢機卿は数日前から瀕死の状態にあったのだが、兵士たちから唾を吐きかけられて放置されていた。死の間際には屋外に引き出されたが、直前に服用していた下剤が効き目をあらわしはじめて、衆人が見守るなかで脱糞して息絶えた」

 尚は話しながら、困惑気味の東亜子の顔を見ることもなく、胸もとにかかった髪の間から、図案化されたオウムの顔がちらちらと覗くのにばかり気を取られていたのだが、

「あ……」

 と口を開いたままになったのは、西日を遮断するレースのカーテンがみるみる電動で閉じられて、職員が向かいの大扉を閉じてしまったために、魔法のような光景が一転して見慣れた食堂に戻ったからだった。それでもまだ、カーテンを貫いた淡いオレンジの光が、食堂のそこかしこには漂っている。

「どうしたの?」

「いや、カーテンが閉じたから……」

「私、目が弱いから、そのほうがありがたい」

「うん……えっと、どこまで話したっけ」

「酷いところまで」

「いや、酷いのはこれからなんだ。それでね……。

 ふたたび振り出しに戻った議論の末に、枢機卿たちは自分たち以外から新教皇を選出することを決定した。ローマ市民たちへの新教皇披露という示威行為をすぐにでもなしとげたかったオルシーニは激怒した。枢機卿たちを口汚く罵ると、この場ですぐに誰か一人を教皇に選ばなければ、グレゴリウス九世の亡骸(なきがら)を掘り起こしてテーブルに横たえて、その腐臭でお前たちの息の根を止める、皇帝派はすぐにでも虐殺すると脅迫した。心底おびえた枢機卿たちの意見はようやく一致したが、皇帝派の枢機卿を選んだことが、せめてもの抵抗だった。そして、死にかけた一人の老人が、新教皇ケレスティヌス四世に即位した。

 最終的に枢機卿たちは二ヶ月間も閉じこめられて、全員が重い病にかかっていた。新教皇ケレスティヌス四世は即位16日後に死亡した。在任中に彼が成した仕事は、オルシーニを起訴する手続きに取りかかったことだけだった」


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