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「私よりもっと可哀相な人の話をして」
と東亜子が言った。
大理石調の白を基調にした正方形のフロアタイルが敷きつめられた床には、飛び石状に黒みがかったタイルが配列されているのだけれど、窓から侵入したまぶしい日足の輝きは、床材がかたちづくる規則性をまるで無視した、激しい明暗のコントラストを内装に上書きしている。とはいっても侵入した光線はそれ自体の法則を持ちながら、いかにも学生食堂らしい、機能を最優先したシンプルな形状のテーブルの卓面や椅子の背に豪奢な黄金の織物を投げかけていたから、見慣れた器物がなにか別世界の法則に侵食されていく瞬間に、この世界で自分だけが立ち会っているかのような空想を誘うのだった。昼食の時間をとうに過ぎて、座席を占める学生はまばらで、視線の先には、なぜか大きく開け放たれたままの観音開きの入り口の戸があって、その先には長い廊下が続いているのだが、その矩形のトンネルのような空間もまた、まだらな金色の光に満たされていて、歩いている人が光に溶けたり、影になったりする。すっかり見慣れて習慣の一部にしか思えなくなっていた食堂が、侵入者である陽光もふくめた透視図法に支配されながら、異世界の消失点に吸いこまれていくような光景にすっかり気を取られていた柄本尚は、正面に座った東亜子に、振り返って背後を見るように促そうとしたところを、不意に思いがけないことを言われて、ふと我に返ったところだった。
「可哀相な人の話?」
「うん」
「というと、失恋をした人を慰める話ではなくて、失恋くらいなんとも思えなくなるような、酷い話を聞きたいと、そういう理解でいいのかな?」
「ううん、そんなひねくれたつもりで言ったわけでもないんだけど……でも、そういうことかしらね」
「可哀相な人、か。僕はあまり、他人がどうしたという話を知らないから」
と、カフェラテが半分ほど残ったカップを傾ける。
「歴史学って、たくさんの人のことを調べるんじゃないの」
と、西洋史専攻の尚に、東亜子が突っかかった。
「じゃあ、書物のなかの人のことでいいの?」
「ええ」
とうなづいた東亜子は、紺の地色に、赤や緑のインコが散らされた、変わった図柄のコットン・ボイルのワンピースを着ているのだが、ややくすんで、落ちついた配色のそれに、胸もとまで落ちたストレートの、ダークブラウンに染めた髪がかかっている姿は、むしろ地味な印象を与える。痩せた身体に面長で、鼻筋がスッと長く通った姿は、柳や萱草といった、それを画くためには細い線を使わなければならない種類の植物を思わせる。
尚とは、教職課程の単位を取るために履修したバドミントンの実技で、たまたまペアを組んで知りあった。次の講義までの時間つぶしに立ち寄った学食で見かけて声をかけ、同席をして話してみると、どうも無口で陰鬱な性質らしい。実習科目で軽快にラケットを振っていた姿とは、かなり印象が異なったのだが、こうして再会をしても自分にほとんど興味を示さず、かといって冷たいわけでもなく、聞かれたことだけを真面目に答える様子が、いかにもずっとこの距離感を保ち続けるつもりだと示しているようで、もしかすると卒業するまで、もう話すことはないのかもしれない。けれども東亜子はそこに、一時の話し相手としての安心を感じていた。
「だったら、オウムの絵柄のドレスを着た女の話をしようか。これは、可哀相なのは男のほうで、女はその男をたぶらかすんだけど」
東亜子は自分の胸もとにちらりと目を走らせると、
「意地が悪いのね。私がそんなふうに見える?」
「えっ? いや……単純な連想だよ」
この男はほんとうに他人に興味のない、たんなる変わり者なのだとつくづく思った東亜子は、
「もっと、そうね、無理に恋愛の話じゃなくてもいいから、世の中にはこんな酷い目に遭った人がいる、みたいな話がいい。思い切り傷ましい話を聞きたい気分なの」
「……だったら教皇ケレスティヌス四世の話をしよう」
「教皇?」
「うん。ホーエンシュタウフェン朝の末期だから、中世もわりと末期、十三世紀なかばくらいにいた教皇だ。先代がグレゴリウス九世といって、その人は、皇帝フリードリヒ二世と対立したことで有名なんだ……」
と、曖昧な視線を泳がせながら早口で語りはじめた尚は、そこで言葉を切って、東亜子の顔をちらりと見た。
「そう……ほんとに歴史の話をするわけね。ちっとも知らない人たちだけど……それで?」