第092話 教皇ホテップの憂鬱:中編
【SIDE:教皇ホテップ】
混沌の海が広がる宇宙にて。
教皇ホテップは柱の神たちが産み出した世界の上で、ヨグソトースが待つ座標まで急行。
その姿は宇宙に出た影響か、異形なる神の姿へと変貌している。
蠢き這いずったような肉の胴体に、円錐形の頭。
腕として伸びる肉の先には、巨大な鉤爪。
目的地に顕現した教皇ホテップは、ネコの姿の時には基本的に出さぬ”紳士的な声”を肉の隙間から押し出していた。
『待たせたようだな、我が同胞ヨグソトースよ』
『遅いぞ、ナイラトホテプ! なにをしておったのだ!』
対する相手もまた、いつもとは違う口調に違う声。
明らかに不具合を起こしている状態である。
そもそもだ。
今のヨグソトースは本来なら異形の姿である筈なのだ。
宇宙に漂うときには”虹色に発光する球体の集合体”であった姿が変わっている。
その姿は……海獣。
まるでセイウチなのだ。
教皇ホテップは考える。
つっこむべきかどうか、と。
邪神として恥ずかしくない姿をしているナイラトホテプ、その目の前にいるのはセイウチ。
牙と髯が、フンフンと揺れている。
しばし考えた結果は、スルー。
教皇ホテップは相手を刺激しないようにだろう、やはり静かな声で告げていた。
『時間逆行の能力者のループの輪に捕まったと言ったであろう。対処できたのはつい先程の話だ』
『ループだと!? 時空も次元も時間も問わず干渉するあの害悪! 不当に占拠した次元の狭間にて図書館の居を構える! あの、あの邪悪なる赤猫姫の手であるか!?』
確かに次元の狭間には、厄介な魔女猫が棲み付き好き勝手をしている。
だがそれよりもだ。
セイウチの髯がふぁっさふぁっさと揺れている。
思わず笑いそうになる教皇ホテップは考えこむフリをし、自然と顔を背ける動作を作り。
『いや、あの厄介な姫ではない。この世界で発生した人類のスキルによるループだよ』
魔術式を提示して見せると、セイウチがふむと頷き。
ふぁさぁぁぁぁぁ!
『何を奮えておる? よもやキサマ、あんな小娘に臆したのではあるまいな!?』
『ヤツは大魔帝の娘。世界をループした数だけ力を蓄えたバケモノネコ、迂闊に手を出していい存在ではないぞ』
『がははははは! 汝は随分と腰抜けのようだ、だが、我は違う!』
セイウチは、がばっと海獣の手を上げ。
『憎きあのペンギンを喰らいつくしっ、大魔帝を滅し! 我らが産み出したあの魔術の祖、全ての魔王を喰らいてこの宇宙を破壊しつくすのだ!』
うわぁ……と三角錐の肉頭をドン引きの形に歪める教皇ホテップであるが。
ふと、違和感に気が付いた。
今、このセイウチはとんでもない事を口にしていた。
教皇ホテップは、瞳となる切れ目を肉の円錐に作り。
『待たれよ同胞よ』
『なんだ、狡猾だけが取り柄のネコもどきよ!』
『今、汝は宇宙を破壊尽くすと宣言していたように思えたが――聞き間違い、であろうな?』
セイウチことヨグソトースは、ニヒィ!
まるで心を覚えた動物のように口を吊り上げ。
『聞き間違えなどではない! 我は決意をしたのだ! あの邪悪なる詐欺師ペンギンを生み出したこの宇宙は失敗作であると! 我はこの宇宙のリセットを決めたのだ!』
セイウチは完全に狂っていた。
『……其れは許されぬ事だ、ヨグソトース』
『なにゆえ!?』
『そもそも我らの目的は此の宇宙全体の安定と恒久。我らは思考も思想も違えど、其の一点のみは違えぬ筈。何があった、何が汝をそこまで狂わせた』
セイウチと化したヨグソトースは、海獣の牙と髯を震わせ宣言する。
『あのペンギンめを、あのペンギンめを野放しにするわけにはならんのだ――ッ!』
『だから何を言っているのだ、ペンギンとは……いや、まさかとは思うが、汝はペンギンを喰らうために、その海獣の姿に成り果てたのか?』
『当然であろう! セイウチこそがペンギンキラー! セイウチこそが天敵! 鉄錆び味の苦痛を与え、あの生意気な面を歪めてやらねば気が済まん!』
なにやらぶち切れ状態のセイウチは、ブモブモブモ!
埒が明かないと、教皇ホテップは他の同胞に干渉する。
ルトス王のループから抜け出し、宇宙に上がった事で他の仲間と同機を実行。
宇宙の外から中に侵入している他の神と情報を共有したのだ。
結果。
情報を取得した教皇ホテップは、ヨグソトースが作戦に失敗……。
自らが駒にしていた存在に敗北……。
あまりにも頭に血を登らせた影響か、残りの端末が暴走状態にあると確認。
ようするに、どのような存在かは知らないが……力あるペンギンに負けたようなのだ。
実際、教皇ホテップの脳裏には、マカロニペンギンに吹き飛ばされるヨグソトースの姿が映っていた。
神の父を気取っていたかつての邪神と、このヨグソトースの端末の落差は相当だったのだろう。
しかも暴走状態のヨグソトースを廃棄するかどうか、ルトス王のループに巻き込まれていた間に議論もされている模様。
だが一番いけなかったのは、やはりセイウチの姿だろう。
とうとう堪え切れなくなった。
『ぷっ……ヨ、ヨグソトースよ、ペンギンの天敵といえばヒョウアザラシやシャチであり! セイウチではないぞ? セイウチが主に食すのは貝類。汝がもしペンギンを標的にその姿となったのなら、全くの見当違いであるが……っ!』
吠え続けるセイウチに教皇ホテップは、呆れと嗤いをそのままに突っ込んだのだ。
『嗤うなぁぁああああぁあ! よもや、キサマも、キサマもあのペンギンの手の者ではあるまいな!?』
『落ち着かれよ神の神よ。我は汝の滑稽な……っ、ひひ、ひーっひっひひひ! ダメだ、ペンギンに負けて、父たる神の姿を捨て、セ、セイウチになるなど! うひゃはははははは!』
ゲハゲハゲハ!
本気の嗤いが宇宙に響き渡る。
だが一頻り嗤った後、教皇ホテップは空気を凍てつかせるほどの低い声で、告げる。
『さて――結論だ。この我、ナイラトホテプこそが他端末とのメッセンジャーとなっているのは知っていようぞ、ヨグソトースよ。宇宙の破壊への賛成は汝の一。反対が汝を除く全。その答えは否決された』
『ナイラトホテプよ! キサマまで、キサマまで我を否定するのか!?』
セイウチが睨んでいても怖くはない。だが、一種の憐れみの瞳なき視線を込めた後――教皇ホテップは邪悪な身を蜃気楼のように揺らし。
『一度宇宙の外へと戻り、頭を冷やせと言っているのだ』
『許さぬ、許さぬぞ! 我はっ、あのペンギンともどもこの宇宙を破壊しつくすまで戻りはせん!』
仕方ない。
と、教皇ホテップは肉腕の先にある鉤爪を肥大化させるが。
次の瞬間だった。
「あら、ダメよ。殺しちゃったら可哀そうじゃない」
声がした。
それは先ほどまでルトス王のループに巻き込まれていた、復讐の女神の声だ。
教皇ホテップは、はて……? と訝しんだ。
一体どこから声がしているのか。
彼女は女神ヴィヴァルディの本体の中の筈。
分からなかったので見渡した――。
「ここよ、ここ――あなたがいま殺そうとしていたセイウチの中よ。声だけを飛ばしているだけだから、安心して頂戴」
『何のつもりですか?』
無貌のネコの時の声を上げた教皇ホテップに、セイウチの中からの声が響く。
「わたしにとって、そして彼にとって、このセイウチこそが元凶ということでいいのでしょう? だったら、少しはわたしの役に立ってもらおうかなって、そう思っただけよ?」
『その声は、おおぉおぉぉぉお。汝はマグダラのマリアか!』
「あなたからは同類、復讐の魔力を感じるわ。ねえ、どうかしら。あなた、わたしと組まない? 決めたの。気付いたの。この宇宙は醜いって、だからね? わたしはね? 彼以外の全て、この宇宙全部を壊したいの!」
確かに、既に女神は狂っていた。
そんな女神が同じく狂うヨグソトースを見てしまったら、どうなるか。
裏切りを直感したその、刹那。
即座に教皇ホテップが動いていた。
セイウチごと、声を伸ばしている復讐の女神の精神を破壊すべく、グジュゥゥウゥゥゥ!
それは攻撃。
暗黒が、周囲を覆う。
全てを混沌に帰す鉤爪の一閃。
それこそが邪神の必殺の一撃だった。
『悪く思うな、同胞よ――バグを起こした汝が悪いのだ』
肉塊の腕と鉤爪で、セイウチの頭蓋を破壊していた。
筈だった。
だが、セイウチは健在。
『なにっ――!』
『侮ったな! このセイウチの頭蓋を――っ!』
そう。
鳴った音はボヨン!
弾力ある肉の塊と氷海にぶつかっても耐える頭蓋骨で、教皇ホテップの一撃を防いでいたのだ。
ナイラトホテプの円錐型の顔。
その肉の隙間が初めて驚愕で歪む。
『これは、最強のギャグ属性か……っ』
『ぐわはははははは! さあやれマグダラのマリアよ! 汝に我の奇跡、我の祝福、我の恩寵を授けようぞ!』
ニヒィと嗤い髯を揺らすセイウチの中から、復讐の女神の魔術が発動される。
「誰も届かぬ虚無の暗黒、宇宙の狭間へお行きなさい――」
それはただ命令を刻む言霊だった。
けれど、復讐の女神が魔性として覚醒していた影響か、言霊は意味と現象をもって発動。
宇宙の法則を書き換え、魔術としての効果を発揮する。
教皇ホテップの身体が、軋んでいく。
強制転移が発動されようとしているのだ。
歪む視界の中。
教皇ホテップは、ぐぎぎぎぎぎぎ。
時空を軋ませながらも、おぞましい声を漏らす。
『まあいいだろう――だが、この我を裏切ろうなどとは――高くつくぞ、復讐の女神。そしてセイウチへと身を窶した狂った聖父よ』
『ガハハハハ! 吠えるな、敗者よ!』
『――せいぜい二枚貝でも貪っておくがいい! ペンギンを食えぬその身体でなぁぁぁ! ギャヒヒヒヒヒヒ!』
最後に教皇ホテップ側も、ペンギンキラーと勘違いしセイウチへと転化した神を嗤い。
そのまま消滅。
教皇ホテップはいずこかの次元。
分からぬ場所に転送されていた。