第088話 マグダレーナの記憶その2
【SIDE:復讐の女神ヴィヴァルディ】
楽園での暮らしはしばらく平穏だった。
彼を慕うスカベンジャーたちも愉快で、暮らしは穏やかで、だからヴィヴァルディも幸せを感じていた。
気掛かりだったのは彼の性質……。
願われれば何でも相手に与えていた事だ。
かつての反動か。
それとも贖罪か。
彼は地を這うスカベンジャーたちに文字通り己が身を削って、多くを与えて施した。
ユダと呼ばれていた時でさえ、弱者のために己が立場を悪くしても施していたのだ。
罪の意識があるのならば猶更だったのだろう。
ヴィヴァルディは言った。
「あなたが誰かを助けたいと願うのは、とても良い事だと思うわ? それであなたの気が済むのなら、わたしも止める気はないわ。けれど……ほどほどにしておいた方がいいんじゃないかしら?」
声なき声で彼が言う。
――彼らはずっと嫌われ疎まれ殺され、ここに流れてきた。
――僕にはその気持ちが分かるんだよ。
――それに、僕は罪人だからね。その罪を拭うことを止めるべきではないと、そう考えているよ。
ヴィヴァルディは思った。
その罪とて、押し付けられたもの。
弟子たちは彼を糾弾した。裏切り者だと罵った。
けれどヴィヴァルディは知っていた。
彼らの多くも”名前を言ってはいけないあの人”を裏切っていたと。
はじめは再誕を信じていなかったと。
「あなただけが悪いわけじゃないでしょう? むしろ、あなただけがあの人の使命を知っていて動いたのでしょう? もういいじゃない、もうあなたは十分頑張ってここに居るのよ」
それでも、彼は施しを止めなかった。
スカベンジャーたちは初めてご飯を貰ったヒナのような顔で、彼を見上げている。
もっと欲しい、もっとください、あなたはきっと神様だと言わんばかりに。
実際、彼らにとって彼は神様に見えたのだろう。
どんな時も守ってくれる父のような存在。
大黒柱に見えたのだろう。
だから、柱の神。
スカベンジャーたちは純粋無垢だった。
悪気もない、悪意もない。
ただ純粋に、初めて与えられた温もりに甘えていたのだ。
だから彼も与え続けた。
そうして、与えられるものが少なくなっていた頃にヴィヴァルディは折れたのだ。
「いいわ、分かったわ。わたしも彼らに少し分けてあげるから、あなたはその間に自分の回復をなさい。なにを? って……はぁ、今のあなた……本当に浮浪者みたいよ? 皮膚も眼球も力さえも貸し与えちゃって、いいから、わたしを少しは信じて? これでも同じ方の弟子だったんだから」
そう。
弟子といえば、この世界にあの人が産まれていた。
転生してきたのだ。
あの人はこの神々の楽園に在っても特別で、産まれた瞬間に魔術を生み出し実の兄レイヴァン神を驚かせたという。
あの人が転生してきたのは――ユダと呼ばれた彼がここにきて、どれほどの日々が経った時だったのだろうか。
一年だろうか、十年だろうか、百年だろうか。
分からない。
ともあれ、あの人はこの世界でも神だったのだ。
柱の神と呼ばれるようになっていた彼は、きっとあの人に会いたいと願っているだろう。
けれど、ヴィヴァルディは反対だった。
彼とあの人を会わせたくなかった。
だから、あの人と彼を積極的に再会させようとはしなかった。
平穏なのだから問題ない、今が幸せなのだから掻き回して欲しくない。
そうも思っていた。
彼と彼女は、純粋無垢なスカベンジャーたちに分け与えた。
それが幸せだと感じたから。
それが生活だと感じたから。
けれどだ。
幸せだった楽園にも陰りが見え始めた。
楽園には不穏な空気が流れ始めていた。
◇
家畜に魔術を授けるなどという禁忌をおかした、あの人の楽園追放から始まり。
楽園の偉い人達、上層部の政争。
小さな不穏は溜まり続け――そしてそれはとある事件をきっかけに爆発した。
あの人の実の兄レイヴァン神が上層部の反感を買い、殺されてしまったのだ。
レイヴァン神は好かれていた神だった。
外見は二枚目の三枚目。
上層部側の存在だが、下の者に優しく――家畜と恋に落ち堕天した友に世界と島を作り、安寧の地を提供したほどのお人よしだ。
いつも皆が雑に扱っていたが、慕われていたのだろう。
だから、上層部は非難された。巫女や巫女頭もレイヴァン神の処刑に猛抗議した。
はじめは小競り合いだった。
それが次第に群れとなり、集団となり。
やがて小競り合いは立派な戦争になっていた。
楽園の神々同士で争い始めたのである。
そうして争いの火種が広がっているうちに、かつて柱の神がスカベンジャーに魔術を授けていた事も漏れ伝わってしまった。
魔術を家畜以下のスカベンジャーに授ける。
それは重罪だと、時を遡って罪となった。
もちろんヴィヴァルディは抗議をした。
これはあの人が来る前に授けた魔術。魔術を授けることを禁じるよりも前に授けたモノだと。
抗議は受け入れられなかった。
上層部は始まってしまった戦争に使える戦力が欲しかったのだろう。
だから難癖をつけられた。
だから。
彼女は彼らと敵対した。
持てる力のすべてを用い、代償魔術の限界を越えて彼と彼を父と慕うスカベンジャー達を守ったのだ。
力はどんどん失われていく。
ヴィヴァルディが扱えるのは自らを犠牲にする魔術だけ。
思い出が、消えて行く。
心が消えて行く。
かつての故郷の記憶も、まるで手のひらに乗せた雪が溶けて、消えてしまうように散っていく。
それでもヴィヴァルディは敵対した楽園の神々を追い払った。
けれど、代償魔術にも限界があった。
だから――ヴィヴァルディは神々に噂されていた魔道具を頼ることにした。
それはあの人が力を授けたとされる、あの人の残したモノ。
それは生きたネコとその主人の魂が封じられた”猫の置物”と”遊戯盤”。
それは遊戯に勝てば、実現可能な範囲ならば何でも願いを叶えてくれる、魔法のゲーム。
それは後に四星獣イエスタデイ=ワンス=モアと呼ばれることになる、願いを叶え続ける神のアイテム。
ヴィヴァルディは神のゲームに参加し、その遊戯に勝利した。
盤上遊戯の勝利者を見上げ――。
猫の置物は言った。
何が欲しいのであるか、と。
ヴィヴァルディは言った。
自分が持っているモノならどんな犠牲を払ってもいい、仲間や家族を守れる力が欲しいと。
願いは成就された。
ヴィヴァルディはやはり文字通り全てを犠牲とし、彼らを守り続けた。
記憶を、感情を、知性を、品位を……彼女は捧げて、守護し続けた。
それがヴィヴァルディの贖罪。
くだらないと言ってしまった、ヴィヴァルディの後悔への想い。
やがて、その戦争にも終わりが訪れた。
あの人が兄を殺された復讐に帰ってきたのだ。
あの人を迎え入れたのは、よりにもよって彼だった。
どんな会話があったのかは分からない。
もはやまともに理解する知性を、彼女は使い果たしていた。
そして、楽園はその日の内に滅んでいた。
◇
滅びゆく楽園から抜け出たヴィヴァルディたちは新天地を目指した。
混沌の海を漂い、理想郷を探した。
けれど、そんな地は存在しない。
ならばと、柱の神とヴィヴァルディと始祖神となるスカベンジャーたちは力を合わせ、世界を創りだした。
それが天地創造。
創世神話。
新しい世界で、新しい生き物を創り……彼らの信仰を力として生きる。
ハッピーエンド――の。
筈だった。
だが、そうはならなかった。
もはや薄れてしまった理性の中。
理知的な女神ヴィヴァルディではなくなったヴィヴァルディの中で、彼女は外を眺めていた。
全てを投げ出し皆を守ったヴィヴァルディの残骸の中で、彼女は見た。
人類も始祖神も、次第に父と慕う柱の神から離れていく様を。
疎んでいく様を。
あれほどのものを犠牲にした自分達を、あっさりと見限ろうとしている場面を。
ああ。
彼はまた裏切られるのかと、女神は世界に絶望した。