第087話 終章、マグダレーナの記憶その1
【SIDE:復讐の女神ヴィヴァルディ】
地上世界。
冥界ではなく現世の世界にて。
ネコのヴィヴァルディから飛び出した復讐心。
女神ヴィヴァルディは、かつての歴史を思い出す。
それは神々の楽園よりも、もっと前の話。
彼女が楽園に辿り着く前の話。
当時、彼女は一人の男に付き従っていた。
それがあの人――後に転生し、魔術の祖となる男。
名前を言ってはいけない人。
あの人の下には多くの弟子がいた、その中の一人がかつてのアクタであり――彼らについていった金持ちの娘こそがヴィヴァルディ。
当時は別の名だった。
彼女が思い出しているのは、ヴィヴァルディと呼ばれるよりも過去。
後の世において一説には”マグダラの聖女”と呼ばれる生前の話。
名前を言ってはいけないあの人は、完ぺきな存在だった。
彼女に憑いていた悪霊を祓ってくれた人だった。
まるで神のよぅな人だった。
だから、ヴィヴァルディは夢中になった。
あの人に憧れ、あの人に惹かれ、あの人のために資財も投げ出し付き従ったのだ。
そして。
あの人には弟子がいた。
ヴィヴァルディは彼らと一緒に旅をした。
後に魔術を創り出すあの人と、十二人の弟子。
春風のように明るいヴィヴァルディは彼らの世話をし、箱入り娘同然だった人生を変えた。
楽しかったのだ。
嬉しかったのだ。
けれど、そんなヴィヴァルディにも同行者の中でたった一人、苦手な相手がいた。
ユダと呼ばれる、従者の一人だ。
彼はいつでも口煩く、ヴィヴァルディの浪費をチェックする。
会計係だからと、いちいち文句をつけるのだ。
おまえの無駄遣いがなければ、もっと多くの貧者を救えたはずだと説教をするのだ。
彼女は言った。
「本当にあなたって細かいわねえ、そんなんじゃ嫌われるわよ?」
自覚はあったようだ。
それでも男は構わず、ありとあらゆる事に文句を言う。
実際、路銀は火の車――ヴィヴァルディやあの人、そして他の弟子たちが行動する費用を工面するのには苦労していたようだった。
つまりは正論だったのだ。
けれど正論を言われた方とて気に入らない。
彼が弟子の中で浮いていたのは明らかだった。
ざまあみろと彼女は思った。ぷぷぷぷ、と面と向かって笑った時もあった。
とてもウザそうな顔をして、嫌そうな顔をして彼はいつでも呆れを口にする。
真面目なのだろう。
金持ちの娘で奔放なヴィヴァルディと男は相性が悪かった。
いつもケンカばかりであった。
けれど、嫌いだったわけではない。
だから。
彼が他の弟子たちから不正会計を疑われた時には、声を上げた。
「見てなかったの? 彼はたしかに口煩くて陰気で、正直あんまり好きじゃないけれど――それは誤解よ。彼は貧民に施しを与えていたの。お金がないのはわたしやあなたたちが無駄遣いばっかりしてるからであって、彼が横領していたわけじゃないわ」
事実だった。
男は金で救える命を救っていた。
香油を買うよりも弱き者への施しをと、口煩く言ってくるから間違いない。
けれど、他の弟子たちはそれを信じなかった。
あることないことをあの人に言うのだ。
上位存在を知った今ならば分かる――思えばそれも、なんらかの力が働いていたのかもしれないと。
ユダと呼ばれた男は孤立していく。
けれど、彼女は知っていた。
あの口煩いバカは間違ったことはしていなかったと。
ある日、真面目で愚直なあの男は言った。
これはあの人を神の許へと返すための旅。
神とするための旅。
天の上にある父なる神が描く、あの人のための物語なのではないかと。
男は連日、神の声を聞いたのだという。
あの人を裏切り、誰かに殺させろ。
おまえがやらないのならば、他の者にやらせる。
それは裏切りではないのか?
それは非道ではないのか?
師と慕う息子への裏切りではないのか?
あれは裏切られて殺され、再誕してこそ逸話となる。
さあ、アレを神にしろ――。
と。
そんな邪念が送られ続けているのだと、馬鹿な事を言うのだ。
そしてその念はおそらく、弟子たち全員に送られているとも語る。
ありえない。
彼女はそう思った。だって自分にはそんな声は聞こえていない。
だが答えはすぐに理解した。
その父なる神にとって彼女は部外者、あの人の弟子として数えられていないのだ。
だから父なる神の声は届かない。
そう思った時、彼女は胸を締め付けられた。
認められていないと、そう思った。
だから言ってしまった。
くだらない。
と。
神様がそんなことを言うわけないと。
彼の言葉を否定し、逃げ出した。
彼女は彼の言葉を受け入れなかったのだ。
◇
彼があの人を裏切り、銀貨三十枚で売ったのはその少し後の話。
そうして裏切られたあの人は処刑され。
皆の旅は終わった。
楽しかった日々も終わり、全員がバラバラになった。
彼女はあの人が殺された瞬間を見た。
彼女は泣き腫らした。
彼女はどうして裏切ったのだと、愚直だった彼を心で罵った。
けれど。
けれどだ。
教えに従い、あの人の遺体に香油を塗ろうと、埋葬されたあの人の墓を訪れた時だ。
あの人は本当に再誕した。
蘇っていた。
一度殺されたはずなのに、目の前で槍に貫かれたはずなのに。
奇跡を起こし、再びこの地に戻ってきたのだ。
そして彼女は散り散りになった弟子たちに――あの方が蘇った。
帰ってきた。
戻ってきたと伝えに回った。
そして、ふと思い出す。
これはあの時、あの男がいっていた通りの結末だった、と。
裏切られ殺された男は黄泉がえり、逸話となった。
彼女は恥じ入った。
あの男の言葉から逃げ、くだらないと罵倒した自分が不意に恥ずかしくなったのだ。
その話を出会った弟子たちにもした。
するとどうだろう、彼らは顔色を変えて知らないと言い切った。
まるで主を裏切る使命を、あの男に押し付けたことから逃げるように。
皆が皆、あの男を罵倒する。
裏切り者だと誹りを残す。
彼女はそれを否定した。あなたたちも聞いていた筈だと、本当のことを言って欲しいと。
あの男は裏切り者などではないと。
けれど、誰も彼女の言葉を受け入れなかった。
彼女はあの男を探した。
自分だけは信じていると。
あの時、くだらないなどと言ってごめんなさいと謝るために。
けれど。
あの男は死んでいた。
それが自死か他殺かは分からなかった。
それでも、あのまじめな男は首を吊っていたのだ。
全ての罪を背負ったまま。
誰かがやらねばならぬ業を抱えたまま、裏切り者として死んだのだ。
もう二度と謝罪はできなかった。
◇
時が過ぎた。
彼女も死ぬ時が来た。
だから、祈った。
どうか、あの男と再会させてくださいと。
ごめんなさいと告げたいと。
祈りが天に届いたかどうかは分からない。
けれど、彼女は楽園と呼ばれる神々の地に転生していた。
春風を運ぶヴィヴァルディとして。
生命を象徴とする女神として。
そうしてしばらく暮らしていると、みすぼらしい男がやってきた。
彼女は見た瞬間、男が彼だと気が付いた。
だから――手を伸ばした。
再会を喜び、泣き腫らした。
ごめんなさいと、何度も詫びた。
けれど、返事はなかった。
男は声なき声で言った。
声を彼に分けてしまったのだと。
それが罪滅ぼしなのだと。
背負わなくてもいい罪を背負わされた真面目だが不器用な男は、死んでもなお、転生してもなお――。
不幸だったのだ。
彼女が男を支えると誓ったのはその瞬間。
女神ヴィヴァルディは自身を犠牲とする代償魔術を扱い。
男と男が拾った弱き嫌われ者たちを匿った。
柱となる男も、彼女も魔術の祖の弟子。
だから、あの人が楽園に来る前なのに魔術が扱えた――。
もう二度と、男が不幸にならないように。
それが彼女の贖罪であり、決意だった。
だが、男に憑りついた呪いは消えることなく、男を蝕み続けていた。