第085話 たとえ見てはいなくとも――
【SIDE:ナブニトゥ】
主を裏切った罪人が落ちる極寒地獄。
ユダの名を冠するジュデッカにて――。
地獄の底に顕現したのは、二匹のG。
執事姿の彼らは冥界神に向かい慇懃に頭を下げ。
「今生においてはお初にお目にかかります、いと慈悲深き冥界の王にして神たる御方」
「小生らと当方らは、芥角虫神様の名代」
「此度は終わる世界の終わりを防ぐために、森人の神ナブニトゥ殿の魂を返還して頂きたく、主から伝言を授かってきた次第です。どうか、ご検討いただけないでしょうか」
願われたのは、助命と嘆願。
彼ら姉弟にはナブニトゥ神に恩があった。
かつての落葉の中で過ごした彼らが――ナブニトゥ神の恵みによって生きていたのは、事実。
ナブニトゥが神として死骸を喰らい、多くの命を正しく冥界に運んだのも事実。
冥界神の瞳にはその善行が見えていたのだろう。
だから死者の王として彼は口を開く。
『汝らの願い、嘆願は理解した――故に、我もまた冥府にして冥界の王として』
「いや、待ってくれないかレイヴァン神」
スカベンジャーとしての鳥葬を善行と判定し、その善性を認めようとした冥界神を止めたのは、他ならぬナブニトゥ自身だった。
『あ? なんだよ、ちゃんとした理由があれば、お前さんを現世に戻す事だってできるっつったろ?』
「僕の代わりに、彼らを現世に戻してやってはくれないかい?」
『は? どーいうことだよ』
ナブニトゥは告げる。
「彼らは嘘をついている」
『嘘だと? わかんねえな、どんな嘘をつく必要があるってんだ?』
「マスターの眷属たる彼らはマスターの名代で来たと告げた。けれど、それはおそらく虚偽だろう。ここは地獄の最奥、主人を裏切った者のみ入れる場所。ならばこそ、いかに彼らがどこにでも入り込めるGだとしても、ジュデッカにまで辿り着くには至らない筈」
冥界神も姿勢を整え。
『続けろ』
「故に、僕は考える。マスターが彼らの命を犠牲にするとは思えない、マスターが彼らの命を生贄にするとは思えない。だから僕はこう考える。彼らはマスターの命令を無視し、止めるのも聞かずに死という扉を開きここにきた。それは主人への裏切りであり、ここにくる条件の一つ。つまり、彼らは自らの主人のために、僕という戦力を現世に戻すために自らを犠牲にした。どうだろうか」
問いかけられたG執事の姉弟は、やはり洗練された仕草で拍手を打ち。
どちらが言葉を口にしたのだろう。
姉弟はナブニトゥ神の推理を認めるように告げていた。
「さすがの御明察、やはりアクタ様にはあなたがいなければならないでしょう」
「我らは所詮はゴキブリ。アクタ様の加護と恩寵を受けてこうして人の姿を保っているだけ。けれどあなたは違いますナブニトゥ神」
「依って、我らは主人の制止を振り切り火に飛び入りました」
「仰る通り、それは主人への裏切り。我らは罪をおかしこの地に参ったのです」
冥界神が厳格な声で、けれど親しみと畏敬を込めて告げる。
『知っていたさ、ああ、知っていた……。なれどその言葉を聞かぬのならば気付かぬふりもできたのだが――もはや遅かったようだな。自らの命を用い、他者のために嘆願しようなどとは大した自己犠牲。大した忠義。我個人は汝らを賞賛しよう。なれど、愚かなことだ。許されぬ事だ』
玉座から立ち上がり、冥界神は幾重にも積み重なる漆黒の翼を広げ。
死者すらも凍える程の冷たい魔力を眼光に走らせ。
宣言する。
『汝らの処遇は確定された。我は我の職務を果たし、冥界の安寧を保たねばならん』
「僕たちの魂を拘束する気かい」
『もはやルール違反も限界がきているんでな――』
冥界神はあくまでも冥界神としての責務を果たすつもりなのだろう。
そこに気さくで三枚目な男、どこか気が抜けた死の皇帝の姿はない。
「ここで、終わりか――」
「ナブニトゥさま……力及ばず、申し訳ありません」
「いや、君達が謝る事じゃない。僕がもっと現世で善行を積んでいれば良かったんだ。もっと周囲を見渡していればよかったんだ。世界樹の頂上で多くを見た。遠くを見た。僕達が自由にできる世界に、僕は心を奪われた。けれど、足元も身近な命も見えなくなっていた。それが僕の過ちだ」
過ちと、口にしたら理解した
それはアクタが口にこそしなかったが、ナブニトゥの中で抜けていたモノ。
驕り高ぶり、見えなくなっていたモノ。
欠けてしまったモノ。
ナブニトゥは終わる間近でようやくそれに気が付いた。
ふと。
浮かんだのだ。
分かったのだ。
「そうか……僕は、森人達をどれだけの間見ていなかったのか。もはや忘れるほどに見ていなかったのだね」
そう。
それは世界樹の足元にいた、森人。
森人の神なのに、ナブニトゥはこの五十年もろくに彼らを思い出さなかった。
顧みなかった。
彼らはきっと恨んでいるだろう。
自分たちを見なくなってしまった神を、憎悪しただろう。
そう思っていた。
思っていた筈なのに。
足元から、暖かさが浮かんできた。
それは、祈りの力だった。
「これはいったい……」
『ギリギリで、ようやく気が付きやがったか――ったく、本当に消しちまうところだったぞ』
そう告げたのは冥界神。
説明を求めたい、そう思うナブニトゥはクチバシを開こうとするが――クチバシは開かなかった。
開く前に気が付いた。
振り返るとそこに、森人達の気配があった。
ナブニトゥの棲家に暮らす獣人だ。
それは現世の光景――。
彼らは皆、ナブニトゥが死んだと知りその死を悼み、再誕を願い祈り続けているのだ。
目を見開いたまま。
ナブニトゥは呟いた。
「彼らは何故、僕をいまだに慕っている。僕は彼らをまったく見てはいなかったのに」
Gの姉弟が告げる。
「小生らと同じでありましょう」
「あなたは確かに、ろくに命を見てはいなかったのかもしれません。森人など、あなたの森に棲むムシケラや寄生虫と思っていたのかもしれません。けれど、事実としてあなた様が齎した恵みが、彼らを生き長らえさせた」
「あなたは彼らを追い出さなかった。あなたは彼らを受け入れた。たとえあなたが見てはいなくとも、それでも――」
感謝し続ける者はいた。
ナブニトゥの中に、彼らの祈りが広がっていく――。