第084話 たった一つの善行すら
【SIDE:ナブニトゥ】
死者であり、罪人が落ちる場所である地にて。
森人の神ナブニトゥは、器用にクチバシの下に翼を当て考える。
どうしたら現世に戻れるのかと。
考えていると、思考も冴えてきた。
だが、そのせいか――走馬灯に似た現象が起こっているようだ。
ナブニトゥには今、あの世界で始祖神がなした失態や人類が起こした罪が、手に取るように感知できた。
脳裏に浮かんでいるのだ。
そしてここは死者の世界。
ここが罪人の罪を裁く地でもあるからだろう――脳裏に浮かんでいた景色が、目の前に広がっていた。
【死者の迷宮】の最奥、コキュートスの氷の壁に反射しているのだ。
映し出されているのは、罪の光景。
協力を仰ぐ柱の神の手を振り払い、翼を広げ飛んでいく――過去のナブニトゥの姿である。
映像の中で羽ばたく過去のナブニトゥの瞳には、もはや柱の神は映っていない。
自由に支配できる大空が広がっている。
希望に満ちた空を眺め、自分を神と仰ぐ森人達を眺め鳥が飛んだ。
大空へ、空高く。
遥か上空、世界樹の頂上に――。
もはや誰にも届かぬ場所。
もはや柱の神とて自分には届かぬと。
話があると柱の神が寄って来ても、もはやその高さには届かなかった。
自由と力を手に入れたナブニトゥは、悠々と翼を広げ鳴いていた。
勝利の雄たけびだった。
自分勝手な優越感に浸り、神鳥と化したナブニトゥは世界樹の頂点に君臨し続けた。
その根元にて。
そのような高すぎる樹はいけない、鬱蒼とした樹々が太陽を隠し――多くの命を奪ってしまうと、柱の神がどれほどに注意しても、警告しても。
もう、二度と届かなかった。
世界樹に群がる浮浪者として、柱の神が追い払われたことをあの日のナブニトゥは知らない。
けれど。
今、死んだ世界で彼は見た。
「やはり……君だったのだね、主人……」
それは柱の神の善行。
高すぎる樹の多くを伐採し、太陽の火を確保した姿を。
自らの肉を削り、それを肥料に森人達の果実の樹を守った姿を。
見た。
けれどやはり。
あの日の神は何も知らない。
世界樹の頂上にて――神を気取って羽毛に太陽を集めていた馬鹿な鳥。
あの日のナブニトゥは知らない。
それでも柱の神は動いていた。
全ては自分ではなく、彼らのための行いだった。
話を聞かなくなったナブニトゥに代わり、命を繋ぐために動いていた。
けれど森人達は武器を持ち、魔術を放ち――柱の神を追い払った。
やっていることは大樹の伐採。
そして肉を使った怪しい儀式。
柱の神が森人達から邪神と思われても仕方のない光景である。
或いはこの時、世界樹の頂上にいるかつてのナブニトゥが気付いていれば――。
いや。
と、今、現実の彼のクチバシが動く。
「僕は恐らく、知っていても動かなかっただろう。あの日の僕はもう……誰のいう事も聞かなくなっていたのだから。これを醜いと、人は形容するのだろうね」
これが過去の裏切り。
ナブニトゥが忘れてしまった物語。
その記憶の断片すら、もはや思い出せはしない。
おそらく、真実を知ったナブニトゥが願ったのだろう。
記憶を食って消してくれ、と。
「僕らは結局、神となっても心は塵芥のまま……ああ、とても醜いままに道化のように踊っていたのだろうね。まるで裸の皇帝のように、いつまでも……己の醜さに気づかずに」
言葉には後悔と自嘲が浮かんでいる。
そんな猛禽類の亡霊を眺める伊達男は冥界神レイヴァン。
玉座に腰掛ける男は、姿勢を崩したままに告げる。
『これこそが、汝等が罪人の証。始祖神の罪。主人を裏切った罪はコキュートスの深淵、ここジュデッカにて裁かれる。この地獄の由来こそが、ジューダス。かつてお前らが主人と仰いでいたユダ。主を裏切った罪人の名だ』
かつて主人を裏切った男が、畜生共に裏切られる。
それが因果応報だと、死を司る男は冷たい微笑を浮かべている。
しかし、罪は罪としてナブニトゥは顔を上げ。
「マスターの助けになりたい、現世に戻るにはどうしたらいい?」
それは開き直りではない。
恩人を裏切っていたからこそ、今、ここで動くべきだと彼は考えたのだろう。
そして冥界神も、私欲で言っているのではないと理解しているようだった。
けれど――。
やはり、冥界神は嗜むタバコの煙に気だるい言葉を乗せる。
『諦めの悪い鳥だな……』
「僕ら死肉を喰らう鳥のスカベンジャーは相手が死ぬまで粘り続けるからね。しつこさだけならばエエングラよりも上だと自負しているのだよ」
今度の言葉は開き直りである。
現世への帰還を望む死者に、冥界神は冥界の神として告げる。
『本音を言うと、こっちとしてもお前さんを戻してやりてえんだよ。なにしろ事態が事態だ。本来ならば、アクタの野郎にあの世界の危機を伝えてやって欲しいんだが……』
「貴殿はマスターを見送った神なのだろう? そのまま口頭で伝えればいいと僕は思うけれど――なにかできない理由があるのだね」
『おまえ……まじで察しが良いな。このままウチの秘書官にならねえか?』
冥界神もナブニトゥの能力は買っているようだ……。
それは本気の勧誘だった。
ナブニトゥはズイズイっとアニマル特有の図々しさを隠さず、翼を広げ。
「僕の主人はただ一人、そしてもはや二度と裏切ることはない。スカベンジャーである僕でも恥という概念を知っているからね」
『はは! そうか、そりゃ残念だ――』
断られたのに冥界神はどこか嬉しげに、歯をのぞかせケシシシと嗤っている。
「本来の女神はともかく、彼女から抜け出たあのヴィヴァルディは危険だ。そして、このような事態だ。マスターはあれで何をするか分からない性質もある、僕を現地に戻す事をお勧めするがね?」
ナブニトゥによる正論攻撃である。
冥界神は皮肉を告げるように、両手を肩ごと竦めて見せ。
『――それができれば苦労しねえんだよ。なんつーか……さすがに俺達三柱で干渉しすぎたせいで、他の連中にバレちまってな。これ以上の干渉は絶対厳禁。本当に宇宙が壊れかねないからって監視されちまってるんだよ』
「今こうして僕と話していることも干渉では?」
『俺はこれでも本物の冥界神。この世界の死についても、今は俺が管理している。あくまでも職権の範囲内なんだよ』
ふむ、と考えナブニトゥは狭い檻の中を徘徊するクマのように歩きだし。
「つまり、あくまでも死者を管理する冥界神の立場で、僕を現世に戻す事も可能なのでは?」
ガシガシと髪を掻きながら冥界神レイヴァンは息を漏らし。
『まったくもってその通りなんだが――おまえさんは罪人だ。この走馬灯はかつての記憶だろう? 主神と主神を支えていた女神ヴィヴァルディ、おまえらが恩人を見捨てた罪を死者の世界は咎とする。まさか、自分がやっちまったことを忘れちまったわけじゃねえんだろ?』
覚えているさ、とナブニトゥは瞳を閉じ。
「神としての力を得た僕らが驕り高ぶり――彼らから受けた恩を忘れた、文字通りの畜生だということはね」
『ならいいが……なんか、こう、ねえのか?』
「なにがだろうか」
『ようするに罪が重すぎて戻せねえんだ。それ以上に積んだ善行がありゃあ、そこに捻じ込んで無理やり蘇生することもできなくもねえんだが……』
善行。
そう言われても浮かばない。
なにも、ひとつも浮かばない。
それもそうだ。
ナブニトゥをはじめとした始祖神は皆――力に溺れ、ろくに人助けなどしなかった。
その様子を眺め、冥界神も瞳を細め……。
『まあ、そういうわけだ。だから、お前さんの旅路はここで終わり。もう、全てを忘れ休め。おまえだけが悪かったわけじゃない、おまえだけが責任を感じる面をする必要はない』
存外に、優しく。
冥界神は鳥神の終わりを告げていた。
だが。
そんな終わりの宣言に、乱入する者がいた。
Gだった。
アクタではない。
「お待ちください――冥界神様」
そこにいたのは、二匹のゴキブリ。
バトラーとヴァレット。
執事姿のあのG姉弟だった。