第062話 此れは、其の誰かの物語
生前のアクタ――。
かつてイスカリオテのユダと呼ばれ、忌み嫌われた罪人。
アクタの前には、いつもあの方がいた。
直接、名を呼ぶことすらできなくなっている彼は、まさしく神そのものだった。
彼とはアクタの師であり。
彼とは楽園の神々にいつか魔術を授ける祖であり。
そしていつかの果て――。
楽園を滅ぼし魔王と呼ばれるようになる者。
アクタはまだ魔王とも魔術の祖とも呼ばれる前の――神の子としての救世主、その従者の一人だった。
神の子を売った裏切り者として、全ての蔑みを受けた魂たるアクタ。
遥か昔の当時を思い出すその口が、懐かしむように動きだす。
「ああ、とても懐かしいね。我が師は、出逢った頃から完成されていた。我が師は、産まれた時から神だったらしい。我が出会ったこともまた、あの方の計らい。あの方の計算。あの方にとっては必要だった……師としての出会いは、運命だったのかもしれないね」
詩のように語るアクタ。
その言葉に共感する場面があったのか、死の神も静かに瞳を閉じ……タバコの煙を流し始めている。
彼らを眺める闇の神が、大いなる闇の如き波動を放ちながら告げる。
『裏切り者のユダ……ねえ。まったく、たしかにレイヴァンお兄さんは死者たちの管理者だし? 色んな冥界に干渉できるし? そりゃあ最も重い罰を受ける罪人の魂を保管していたのは理解できるけど……あのさあ、普通、かつてユダだったゴキブリの王をよりにもよって、楽園関係者が作った世界に送り込むかい?』
レイヴァンお兄さんと言われた死の神は、バツが悪そうに整えた髪に大きな手を入れ。
『しゃあねえだろう。そもそもこいつは――』
「いや、いいのだ死の神よ。あれは全て我が選んだこと、我が選択した結果なのだ。我は我の思想によって師を売り、そして師の再臨を見ることなく自ら命を絶った。その運命を否定するつもりはないのだから」
『しかしだな、ちゃんと言わねえと』
「レイヴァン神よ――本当に、もういいのだ。我の選択があの方を磔刑にかけたのは事実なのだから」
なにやら死の神とアクタだけ、当時の何らかの事情を知っているのが気に入らないのだろう。
女神にありがちな顔をした光の神が、じぃぃぃぃぃ。
『あのねえ、あなたたち。そうやって、自分達だけは分かってますよ~的なアレは印象悪いわよ! ちゃんと説明しなさいよ!』
『ったく、おめえさんはせっかちだなあ。まったく関係ねえのに、女神ってだけであのヴィヴァルディの嬢ちゃんとそっくりじゃねえか』
『女神の威光を舐めないでよね! あたしもあの子も、女神らしさを失っていないだけ! 男神って言葉が少ないから嫌なのよ』
ふん、っと顔を背ける光の神に辟易しながらも死の神が言う。
『まあ、なんつーかだ。こいつも好きであいつを殺させたわけじゃねえんだよ』
『はぁ!? 意味わかんないんですけど』
『そりゃあおめえが、遠き青き星の事情にそこまで興味がねえせいだろう』
『って言われてもねえ、あたしだってユダの伝承ぐらいは知ってるわよ? 確か、師匠である”彼”を裏切って、敵対者に銀貨三十枚で売ったのよね?』
闇の神がまるで信心深い聖職者のような声で補足する。
『ああ、その通りだ。そしてユダ自身はその後、自らの裏切りを悔いて自分で自分を殺す。まあこの辺りの逸話にも多くの説があるのだけれど、ユダに関する書物はあまり残されていない。まるで焚書にあったように』
普段と違う口調の闇の神を眺め、光の神は感心した様子で告げる。
『へえあんた……無駄に詳しいわね』
『私も遠き青き星の出身だからね、それに――生前は主の教えを説き生活をする、純粋な聖職者だったし』
『まあ……その地球にいた救世主が、色々とあって楽園に辿り着いてえ――魔術を楽園の神々に齎して……さらに色々あってあんたの飼い主をやってるんだから。変な話でもないわけね!』
ああ、納得納得!
と、あっけらかんとした態度の鳩を眺め、黒い猫は、ぬーん……。
『私も君みたいな楽観的な頭脳を持ちたかったよ……』
『へ? あたし、なんか変な言い方したかしら?』
『まったく、これだからウチの駄犬がいつも苦労してたって言うのに……まあいいや。ともあれだ、アクタくん。今は私があの方の”一番弟子”であり、今もあの方の部下の私としては、君に色々と言いたいわけだけど――』
闇の神はそのまま無関係を装う教皇ホテップに目をやり。
何やら言いたげな顔で睨んだ後、アクタに目線を戻し。
『こいつを含めて、ヨグ=ソトースとかの外なる神の連中がやっていた事を考えると、まあ、君には君の真実。冒険や物語、事情があったという事なんだろうね』
「さて、どうでありましょうな――」
アクタはしばし考え、やはり昔を眺めたような口調で――。
「あの方は全てが超越的で。あの方は全てが見えていて。あの方は神の目線で遥か先を眺めていた。我には、あの方が見えている目線の先が分からなかった。一度たりとも、理解ができなかった。なのに、あの方は笑って道を進んでおられた。将来的に、自分が弟子の筈の裏切り者に殺されることも分かっていて、それでも……いっそ、出会わなければ良かったと、ふふ、そのような考えさえ浮かんでしまう程に――あの方は全てを魅了しておられた」
まとまりのない言葉だった。
おそらく、誰かに語るための言葉ではなかったのだろう。
だが。
アクタの言葉には僅かな疲れが滲んでいた。
「そこに目の前で困っている人がいたとして、同じ条件で助けを求めているとしても――助ける時と助けない時がある。彼方では、助ける方がその者のためになる。と言い。此方では。助けない方がその者のためになる、と言い。その都度瞬時に見極め、適切な対応をあの方は選び続けていた」
『ああ、あの方はそーいうところがあるからねえ……未来が見えるって言うのも考えものだね』
共感する闇の神は、器用に猫の手で腕組みをし、うんうんと頷いている。
そして直後に、まるで同じ弟子ですが何か? とマウントを取るように、くは!
『まあでもさあ! 君とは違って私も、ちょっと百年くらい先なら見えてるからさあ! あの方が見えている未来も見えちゃってるんだけどねえ!』
言った直後に、はっとわざとらしく肉球で口を塞ぎ。
闇の神はニヤニヤしながら肉球を振り。
『ごめんごめん! いや! 自慢じゃなくて、事実だからさあ! 君にはあの方と一緒に見えなかったものが、私には見えているってのは本当なんだから仕方ないよね~!』
『駄猫……おまえ、こいつが同じ師匠の弟子だったからってなあ……』
『同じ弟子? 私なんてあの方のペットですけど!? 飼い猫なんですけど!?』
飼い猫マウントでちらちらとアクタを眺める闇の神。
その露骨なモフモフを、うわぁ……と見ていた光の神も引き気味に言う。
『あ、あんた……”彼”が関わると本当にどーしようもない性格になるわね……』
「あの方は、いつでもそうだった。関わる皆の心を捉え、放さない――」
同じ師。
同じ存在に師事しただろう相手を眺め、アクタは言葉を続ける。
「あの方の目線はまるで神の目線。遥か彼方、それこそ五十年先の未来を眺めているようで……。自分には神の目線を持つ師の考え方が、価値観が、神としての思考が――最後まで理解できなかったよ」
吐露に近い言葉を不憫に思ったのか、光の神が女神の口調で朗々と語る。
『それはまあ――当然なのでしょうね。文字通り彼は、神の子だったのですから。人と神との価値観の違いは、神とて理解できないのですから……』
『にゃははははは! 君も一回それで失敗してるからねえ。今の君は改心したけど――進んだ道が違っていたら、飼い犬に噛まれて死んじゃってたらしいし!』
う、うるさいわね! と光の神はわりと本気でその話題を嫌っているようだ。
光の神を揶揄う闇の神の言葉は真実なのだろう。
この神々も、この神々の物語や逸話を通り過ぎて今――ここにいるようだが。
彼らは皆、やはり上位の神。
当然、神々の目線を持っている。
対するアクタは、嫌という程に人間だった。
五十年先よりも今を見る。
世界全てではなく、目の前の個を見る。
だから、師たる彼の考えがアクタには分からないままだった。
いつかのナブニトゥが、神としての目線しか持っていなかった事とは逆。
アクタには人としての目線が備わっていた。
今のアクタは人としての心と、神としての心を持っていた。
アクタは当時を思い出す。
旅の供は他にもいたが、彼らは皆、あの方が行う事は全てが正しいと――疑う目を持たない。
全ての発言に意味があり、全ての行いが計算であり、全ての選択を誤ることがない。
そう笑って、盲目的に師を信じる。
だが、アクタは違った。
アクタには見えていた。
神に見える師とて、悩みもするし笑いもすると。
弟子たちは皆、彼に心を焼かれていたのだろう。
旅の中で出会う人々も、彼に心を焼かれていたのだろう。
だからこそ、彼は孤独の中にいた。
誰も、何も、理解していないのだ。
だから。
”彼”はアクタに言ったのだろう。
あの日の師の言葉を反芻しながら、あの日のアクタは死んだ。
なすべきことをなして、あの日のアクタは死んだ。
光の神がしれっと言う。
『っていうか、なんであいつを嫌っているようには見えないあなたが、彼を裏切り殺したわけ? ちょっとわかんないんですけど』
『君ねえ……よくもまあそんなセンシティブなことを聞けるね』
『あら、だって純粋に気になるじゃない。あなた、そのせいで地獄に落ちたんでしょ? んで、その後降ってきた死の神に管理を引き継がれたみたいだけど』
アクタが答えぬ代わりに闇の神が無数の書物を浮かべ。
はぁ……。
様々な聖書、様々な福音書を魔力で浮かべ――呆れた様子で告げる。
『まあ、色々な説があるけれどね。当時の宗派や教皇様とやらの利権も含んでて? なかなかデリケートな問題だから私の口からはあまりできないが。結局のところは簡単さ。少なくともあの世界のあのルートでは――当時の魔王様は一度死なないといけなかったのさ、絶対にね。それが人類が生き残る道だと、少なくとも当時の彼らは思ったのさ。だから、誰かが魔王様を死なせないといけないわけだけど』
『そんな役目はまあ、誰だってやりたくないわな』
誰だってやりたくない。
吐き出すタバコの煙と共にそう告げる死の神は、ただ静かに――。
その重責を押し付けられた”誰か”に目をやっていた。
『だから、その誰かとして”管理者”に選ばれた男は地獄に落ちた。このコキュートスの最奥、ジュデッカで魂を戒められ続けた。誰からも理解されず、誰からも疎まれ。人類の呪いにより、その身を最底辺へと落とされるほどの罪過を背負わされた。世界のために、最も愛する師を殺したその誰かは、今も救われることなく――人類から呪われ続けているんだろうよ』
その誰かを哀れに思った神がいた。
事情を察した神がいた。
だから冥界神レイヴァンは、今回の転生を執り行った。
おそらく、冥界神としての責務ではなく、ゴキブリ以下と蔑まされた誰かへの憐憫として。
それが。
この物語の始まり。
アクタがあの世界に落とされた、本当の理由でもあったのだろう。




