第061話 世界で最も嫌われた男
かつて敗北した明けの明星が落ちたように。
かつて死の神になる前の死の神、神々の楽園にて殺された魔兄レイヴァンが落ちたように。
アクタもまた、かつてこの地に落ちたように――落ちていく。
これはあの日の再現ではない。
けれど、アクタは確かにここに帰ってきた。
教皇ホテップを掴んだアクタは、柱の神の世界から実質的に脱出。
死した魔兄レイヴァンが実力で支配した世界。
地獄の最奥、ジュデッカと呼ばれるコキュートスの最も奥にある氷の牢獄に到着。
周囲は肌がチクりとするほどの極寒だった。
香りは死に、感覚も薄くなるほど過酷な場所。
ここは異世界の神が干渉しても問題のないエリアだ。
だから。
アクタと教皇ホテップが氷結地獄ジュデッカについた――!
その瞬間。
普段はネコの姿をしている闇の神の朗々たる声が響く。
『戒めの鎖よ――』
『天照の天秤にお乗りなさい』
『我が名はレイヴァン。魔兄レイヴァン! 冥界の皇帝にして、全ての輪廻を見守る者なり!』
闇の神に続いたのは、光の神の声と死の世界を支配する死の神の声。
彼らはアクタの様子を眺めていた。
だから、こうしてあからさまに異質な存在を見逃さなかったのだろう。
三柱の神がそれぞれ放った魔術が、アクタでさえ不可能だった異物を捕縛。
光の縄に捕縛された教皇ホテップが、無の広がる顔に亀裂を作り。
『あぁああああああああああぁぁぁぁ! なんてことをするのですか! というか! 大物が三人で寄ってたかって、これほどにか弱いわたくしを狙おうだなんて、卑怯ではありませんか!?』
「ふはははははは! どうだ教皇ホテップよ!」
アクタはいつものふはははは! けれど、その腕はポーズを取れていない。
「見よ、この大人げない連中を!」
『なにが、ふははははは! ですか! というかアクタさん!? あなたも一緒に捕縛されちゃってますよね!? 思いっきり、要注意人物扱いされちゃっていますが!?』
「ふむ! そのようであるな!」
そう。
教皇ホテップを連れて、転移。
本来なら生者は入れない地獄の底に招き入れたアクタもまた、闇と光と死の神に捕縛されてしまっているのである。
死の神レイヴァンが伊達男風の顔でニコニコ。
死の迷宮の皇帝姿とは裏腹、親戚のオジサンが詫びるような顔と声で言う。
『すまん! こいつらにおまえの正体、バレちまったんだわ!』
しれっと告げる死の神に、光と闇の神はそれぞれ魔力を纏い――。
ゴゴゴゴゴゴ!
先に白鳩姿の光の神が、露骨な程に目を尖らせ。
『あのねえ! 何かあるとは思っていたけれど――まさかこんな危ない死者を野に放ってたって! いくらなんでも先に事情を説明してからやらかしなさいよね!』
『お兄さん、君ねえ……さすがの私も今回ばかりは擁護のしようがないんだけど?』
闇の神と光の神もさすがに看過できなかったようだ。
それもその筈。
おそらくアクタは光の神や闇の神にとっても捨て置けない存在、そして死の神にとってもアクタは重要で、目を離してはおけない存在である。
光の神によって生み出された天秤フィールド。
左右の天秤に乗っている者の力を強制的に無力化させ、拮抗させるかなり高位な特殊空間にて――。
光の縄で縛られる教皇ホテップが言う。
『ということは、はぁ……やはりこのゴキブリは例のあれなのでありますか』
訳知り顔の教皇ホテップを睨むのは、黒猫姿の闇の神。
『というか、君も大概に問題人物だろう?』
『そうでしょうか?』
『君には覚えがある、おそらくかつて勇者伝説を三千世界……つまりこの宇宙にバラ撒き異世界勇者召喚システムを創り出した存在。この宇宙の更に上位の次元から私たちの世界を監督者気取りで干渉している外なる神。んで、私たちに負けて封印されている筈のニャンコ=ザ=ホテップの別端末だろう?』
なにやら、外の世界で起こった事件の関係者らしいが。
アクタ自身も、実は彼らの素性に覚えがあった。
おそらくアクタとは別件で、闇の神はこの教皇ホテップたちを知っている――彼らが所属する一団と事を構えた経験があったのだろう。
ジト目の黒猫に睨まれた教皇ホテップは、ポンと姿を変え。
……というよりは、光の神の天秤の上で変装が解けたのだろう。
目と鼻だけがない、三日月型の口だけを持つネコに姿を戻し。
ニヒヒヒヒヒっと無貌のネコは邪悪に笑み。
『やはり見抜かれましたか。いやはや、はぁ……せっかく正体を隠して動いていたというのに、あんまりです。……って! 何をいきなり虚無の魔力をお溜めになられているのです!?』
『いやあ! 君みたいな口先三寸もできるタイプは会話をすっ飛ばして、虚無の彼方へ消し去った方が良いかなって!』
闇の神は肉球の上に色のない……漆黒の球体を召喚。
全ての事象を否定できる、防御不能の虚数空間を生み出し。
ゴゴゴゴゴゴ!
『お待ちなさい、お待ちなさい! わたくし、ネコですよ!? この宇宙にはネコを虐げてはいけないという、あなた自身が作り出した強制命令がある筈ですが!?』
『ネコの姿をしているだけだろう?』
『いいえいいえ、この肉球をごらんなさい! この腹毛に刮目なさい! それに! 今わたくしを消すと後悔いたしますよ! あの世界を滅びに導こうとした、というか既に滅びを確定させていた正当性を既にあなた方も知っている筈では!?』
柱の神を滅ぼし、あの世界を滅ぼそうと暗躍していたのには正当な理由がある。
そういいたげな、黒猫姿の教皇ホテップであるが。
どうやら事実だったのだろう――。
闇の神は、ちっ……っと露骨な程の舌打ちをし。
消したいなあ、潰しちゃいたいなあとネコの仕草で、じぃぃぃぃぃ。
もふもふな尻尾を左右に振り、闇の神は虚数の塊をくるくるさせながら告げていた。
『確かに、我が主我が愛しき魔王陛下に、君を”まだ消すな”とは命じられている。だからその辺を確認する前に消しちゃいたかったんだけどな~』
白鳩姿の光の神が言う。
『あたしも正直、今ここでこいつは消しちゃった方が良いと思うわ』
『おまえらなあ……』
死の神だけは魔王の命令に従っているようだが。
『だいたい闇の神、お前さん。あいつの命令に逆らってもいいのか?』
『主人を守るためには主人からの命令さえ破ることがある。忠誠とは愚直になることではない、考えなしの道具になる事とも違う。そう私は既に学んでいるからね』
しんみりと告げる闇の神の瞳には、深みがあった。
多くの神話、多くの逸話、多くの物語を体験したような――長い歴史を感じさせる色を放っているのだ。
そしてその瞳は、アクタと教皇ホテップを振り向き。
ざぁあああああああああぁぁ!
ぞっとするほどの魔力を孕んだ口を開き。
普段の、飄々とした黒猫とは思えないほどの落ち着き払った、まるで神父のような声で淡々と告げる。
『だからね、私は私が危険だと判断したら君たちをいつでも消す。いついかなる場所でも、いついかなる状況でも、私の爪はいつでも君たちの首の根を捉えている。どうかそれだけは覚えておいて欲しいんだ。分かるね?』
予定にない脅しだったのか、死の神すらもぞっと息を呑む中。
アクタは言う。
「既にあなたには恩がある――あなたに消されるのでしたら、まあ仕方のない事なのでありましょうな」
『そうか、そうだね。しっかし、まさか君がかつて生前の魔王陛下を裏切り殺した、世界で一番嫌われた男。誰よりも疎まれた人類。イスカリオテのユダ。救世主を売った使徒の転生体だったとはね』
気付かなかったよ、と闇の神は嗤い。
アクタもまた、遠いかつての名に瞳を伏せていた。
その口から、言葉が漏れる。
「とても、懐かしい名ですよ――ええ、とても。とても」
そう。
アクタが人々からの憎悪と怨嗟、ありとあらゆる悪しき感情を向けられた呪いにより――。
芥角虫神。
全ての知恵ある命から嫌われるスカベンジャーの神となる前の正体は――。
ユダ。
磔刑に遭った後にやがて――楽園に転生し、楽園の神々に魔術を授ける宇宙にとっての転換期となる男、魔術の祖たる魔王が最初に死ぬ因となった存在。
人類史最大の裏切り者。
冥界神レイヴァンが支配するこの地獄にて、延々と繋がれていた罪人。
間接的に神を殺し。
地上に産まれた救世主を父なる神の許へ送った、ヴィランだったのである。




