第049話 三章エピローグ
【SIDE:ナブニトゥ】
夜の静寂と冷たさが終わり。
朝を照らす太陽と共に、鳥たちが澄んだ空気に声を上げ始める時間。
既に夜明けの時間、ナブニトゥは冒険者ギルドへと帰還していた。
どんちゃん騒ぎが続いていたギルドの酒場も、さすがにこの時間はおとなしいようだ。
酔い潰れた人類達はまだ睡眠中。
彼らと飲み明かしていたヴィヴァルディもまた酒瓶を抱えて、くかーくかーっと腹を上に向け眠っている。
そんな彼女の顔を眺めるナブニトゥは、沈黙。
ただただ静かに、その安らかな寝顔を眺めていた。
人類から上着を一時的に奪い布団とし、本当にバカみたいに呑気に寝ているのだ。
その姿がまるで本当のバカに見えるからこそ。
ナブニトゥは思うのだ。
「ヴィヴァルディ――今の君の方がよほど、昔の君よりも幸せなのだろうね」
思わず言葉にするナブニトゥの背後に気配が生まれる。
アクタである。
ナブニトゥは振り向いた。
「マスター、僕はどうしても聞きたいのだがね。君はどこまで見えているんだい」
「ルトス王が多くを回避した記憶はもはや既に終わっている。汝も気付いたように――なにしろあの男の死から、およそ五十年の時が経っているからな」
「そうだろうね、ルトス王の記憶はもはやこの先の未来にはつながっていないのだろうね。けれど、マスターはもっとずっと先まで見えているのだろう? 僕にはそう思えて仕方がないよ」
「さて、どうであろうか――」
アクタは苦笑し、ヴィヴァルディの横……空いている席に座る。
口元を穏やかに緩め――その長い指は多くを忘れ、ただのネコになりかけているヴィヴァルディの頭を撫でていた。
けれど、口からはナブニトゥからの問いへの回答が零れている。
「我は救世主ではない。我はけっして善性の光ではない。万能ではない……」
「僕にはマスターこそが万能に近い能力者に思えるがね」
実際、おそらく本当にもう――主神に近い力を手に入れているのだと、神であるナブニトゥだからこそ理解していた。
「我が知る中でもっとも万能に近いと言える存在は、ただ一人だけ。かつて遠き青き星にてメシアとして産まれ、自らの願いを叶えるという形で転生し……汝らが知るところの楽園へと辿り着いた魔術の祖にして、父たる神の落とし子。万能とは――魔術のある宇宙の始まりとさえ語られる、あの男こそを言うのだ」
それはおそらく、柱の神が迎え入れた男。
神々の世界、楽園を滅ぼした男の話だろう。
ナブニトゥは情報を確定させるべく、アクタに凛と問いかけていた。
「その口ぶりからすると、やはりマスターは兄を殺された復讐に楽園を滅ぼした『魔王と呼ばれた男』を知っているのだね」
「……我もかつて、あの方に拾われた過去がある」
「マスター、君がかい!?」
驚くナブニトゥに、アクタは僅かに顔を上げた。
そして。
いつもとは全く違う口調で、憂いを帯びた、疲れ切ったその唇が蠢きだす。
「もはや擦り切れてしまう程の昔、記憶も恩讐も……全てが枯れてしまう程の前の話だがな」
ギルドを包む斜めの太陽。
明け方の陽ざしが、アクタのフードの下の顔を映し出す。
いつもくははははと、嗤っている男の嗤っていない素顔がそこにあった。
「あの方は汝等、始祖神が知るところの『柱の神』のように、多くの弱者を救っておられた。道を倒れ、世界の底に落ちている者にさえ手を差し伸べ、拾い上げておられた。それこそ自らの身を削ってまで、世界のために自らを生贄にしてまで救っておられたのだ。我のような醜い者さえ拾い上げてくださった。ああ、我は、その恩を決して忘れぬ。たとえ、全ての生きとし生けるモノから疎まれ、全ての邪悪、全ての廃棄物、全ての背徳の象徴とされ、この身を荒ぶる神へと落とされようと……ああ、そうだ。我はあの方を敬愛していた」
ナブニトゥがマスターと仰ぐアクタの体からは、赤い魔力が垂れ流れていた。
魔力の源は心。
揺れる感情の高ぶりが、アクタの荒魂を揺すり絶大な魔力を放っているのだろう。
けれど、その魔力が外に漏れることはない。
アクタは自らの暴走する感情と魔力を制御していたのだ。
それこそが、アクタが既に主神の器まで至った証か。
そこにナブニトゥは目をやっていた。
一種の泥酔、魔力酔い。
酒に浸って口が軽くなっている印象を感じ取っていたのだ。
真実を知りたいナブニトゥが言う。
「マスター。話を聞く限り、どうも魔王と呼ばれた男と、柱の神と呼ばれた男には同一性が見える。柱の神も、僕らを拾いその身のすべてを削り助けてくれたのだからね。知っているのなら教えて欲しい、マスター。魔王と柱の神は同じ男だったりするのだろうか」
アクタは首を横に振り。
「別人であると、これだけは断言しておかねばならぬだろうな。ただ、勘違いはして欲しくはないのだが……別に汝の信じる柱の神を侮蔑しているわけではない。やっていることは似ているが、本当に別人だというだけの話だ」
アクタの気遣いを感じ取ったナブニトゥは翼を一度、ばさりと揺らし。
体制を整え静かに告げる。
「気にしていないよマスター」
「ナブニトゥよ、そなたは……少し変わったな」
「反省を覚えただけさ――」
自らの過ちを認める。
それは決して恥ではない。
アクタが言う。
「我はあの方の下で多くを学んだ。やはり、それももう遠き過去……かつて在った筈の幻想の如きまほろば。祟り神となり果てた我には、過ぎた思い出やもしれぬがな」
もはや、あまり思い出せぬのだ――とアクタは寂しそうな微笑を浮かべ。
同じくその身を削っていただろうヴィヴァルディの背を撫で、息を吐く。
「我は、あの方には自由であって欲しいと思っていた。自己犠牲の上に成り立つ、全てを削っての献身など、いつか破綻がくると思っていた。我は何度かその件について語ったが、我の言葉に耳を傾けてはくれなかった。あの方は……結局、愛する者から裏切られ続ける運命にあったのやもしれぬな」
アクタの言葉が途切れ、口の端からは僅かな苦笑が漏れている。
そのままなにやら黙ってしまうアクタを眺め、ナブニトゥはこの機を逃したくないと――少し、前に出た。
前のナブニトゥならしない、以前とは違う反応だった。
「マスター……。すまないがもう少し聞きたいのだが構わないかい?」
「今日は本当によく喋るようだな」
呆れが混じったその言葉を肯定と受け取り。
ナブニトゥは再び疑問を問う。
「魔王と呼ばれるようになったマスターの恩人は、闇の神も拾い、部下にしていたと想定しているのだが。その辺りの事は何か知っているのだろうか? 僕は闇の神もまた、魔王と呼ばれた男に育てられた、かつて弱かった存在だと感じているのだが。どうだろうか」
アクタはいつもと違う空気のままに語りだす。
「おそらくな――だが魔王と呼ばれたその時代のあの方については我も知らぬ。全ては楽園が滅んだ後の話、あの方がようやく、救世主という枷から解き放たれた瞬間を我は知らぬ。ナブニトゥよ、汝らにとって魔王と呼ばれたあの方は故郷を滅ぼした悪神に思えるやもしれぬが、我にとってはそうではない。そのことを、心のどこかで覚えておいて欲しい」
それは本気の願いだったようだ。
恩人をけなされるのは、さすがのアクタも看過できないのだろう。
ナブニトゥは頷き。
「了解したよ、マスター。その約束は必ず守ろう」
「まだあるならば聞くが」
「マスターが神と仰ぐ、死の神について何か知っていたら教えて欲しいのだが。彼に聞けば、まだ僕も知らない何かが多く見えるだろうからね。ダメだろうか」
「ダメではないが……多くを語ることもあまりできぬな。ただ」
「ただ?」
「あの死の神こそが汝らの楽園が滅ぶこととなった、きっかけの男。魔王と呼ばれた我が恩人の兄。弟が人類に魔術を授けた罪で追放されていたその時、楽園で忙殺された兄神であることだけは間違いあるまい」
もし、その話が本当ならば――。
アクタを送り込んできた死の神こそが、楽園が滅ぶきっかけとなった殺された男。
たしかその名はレイヴァン神。
ならば。
ナブニトゥは、ようやく理解した。
やはり、全ては楽園……アクタとの出会いもまた――。
柱の男と出会ったあの神々の世界と繋がっているのだと。
「最後に、一ついいだろうか」
「このような機会もあまりないであろうからな、構わぬぞ」
許可を得て。まっすぐにフードの下の美貌の男を眺め。
ナブニトゥは問いかける。
「君は一体誰なんだい」
「かつて語ったであろう――我はアクタ。全ての悪態、全ての罵詈雑言、全ての汚泥を押し付けられし塵芥の王。ゴキブリとして生きるスカベンジャー、芥角虫神。かつて魔王に拾われた……世界で最も嫌われた存在だろうさ」
これ以上を聞くのは躊躇われ、ナブニトゥは静かに瞳を細めた。
ヴィヴァルディはスヤスヤと、やはりバカみたいに呑気に寝ている。
そう、能天気で何も考えていないように見えるからこそ。
ナブニトゥは複雑なのだ。
全てを捧げ、多くを忘れ。
ただ他者への施しの願望と愛だけが残る、残念な神。
こんな神に成り果ててしまった女神が、ただ幸せそうに眠る明け方。
ナブニトゥは夜明けの中で口を開く。
「マスター。僕はこの世界の人類を救いたいと願っている。そして他の神々にも、女神の真実を伝えたいと考えている。動く許可を貰えるだろうか?」
「汝の好きにせよ――」
「どうか、マスターも手伝ってはくれないだろうか」
問いかけへの答えはしばらくなかった。
アクタはフードを被り直しながら、周囲の空気を言葉で揺らす。
「それは、これからの人類次第であろうな。正直な、あの方を思うと……そしてヴィヴァルディを思えばこそ、ただ尽くし、助け続ける姿が正しいとは我には思えぬのだ。もしも、もしもだ。人類がさらに施しの女神よりなけなしの心を奪い、創造主たる女神から全てを奪いつくしても尚、浅ましく生き残ろうとするのならば」
フードの下の瞳にて、アクタはヴィヴァルディに目をやり。
「女神ヴィヴァルディ、我はこの者を優先し――汝らの世界を見捨てるであろう。神だからといって、力があるからといって……人が神のすべてを奪い取ろうとする姿など、そして、神が自らの矜持すらも犠牲にし世界に尽くす姿など。我はもう見たくはないのだ」
ようするに。
アクタはヴィヴァルディを憂いているのだ。
おそらくはもっとずっと前から。
ルトス王の記憶を喰らったアクタは、アホな事ばかりするヴィヴァルディにきつく当たりながらも、その実はしっかり見守り、助けていたのだろう。
おそらくこの猫の姿もそうだ。
今のヴィヴァルディには、強力な補正が働いている。
アクタは女神を守っていたのだ。
いつからだ。
いつからアクタはヴィヴァルディの真実に気付き、彼女を助け始めたのか。
それはナブニトゥには分からなかった。
アクタの本当の心の底が、全く読めないのだ。
ただ。
分かっていることが一つだけあった。
ナブニトゥが知らぬ間に。
アプカルルも含め、まだ始祖神全てが女神ヴィヴァルディを下に見ていた、あの時すでに。
アクタだけは――彼女を。
……。
アクタの根底にある無償の愛を感じながら。
けれどそれは言葉にはせず。
淡々とナブニトゥが言う。
「ありがとう。それで構わないよ、マスター」
夜の終わりを見届けたギルドに朝が来る。
陽射しが、命を照らし出す。
おそらくアクタが会話のために、周囲の全てを眠らせていたのだろう。
魔術が解除された皆が徐々に目覚め始めていた。
朝の支度を始める冒険者ギルド。
その生活と育みと喧騒の中。
ナブニトゥの瞳には、二人の神が映っていた。
それは女神を優しく見守るアクタと。
そして。
アクタに守られているとも知らずに、ただ能天気に眠る女神のどうしようもない姿だ。
きっと、彼女が目覚めればまたバカなことを言いだす。
アクタもまた、くははははっとしたいつものような受け答えをする。
ただの日常だ。
本当に変哲もない、明日になれば忘れてしまう程の暮らしだ。
けれど。
おそらく。
そのただの日常こそが――。
きっと。
三章、『失い、見えなくなっていたモノ』 ―終―