第044話 老婆の歩み
【SIDE:ナブニトゥ】
ナブニトゥが招かれたのは、大きな屋敷。
それなりに裕福な家庭なのか、通いの使用人の姿がちらほらと確認できる。
老婆はナブニトゥを、持て成す客のための最上位の席に案内し、にっこり。
「こうしてお話するのはいつぶり、でしたかしら」
「すまないが僕には記憶にないね」
「ふふふ、そうですわね。あなたはいつでもそうでしたものね」
分かってますよと言わんばかりの、けれどとても穏やかな微笑を老婆は浮かべている。
童が言う。
「へえ、やっぱりお祖母ちゃんとナブニトゥ様って知り合いだったんだあ」
「昔にお世話になっただけですよ。ナブニトゥ様にとってはただ通り過ぎていくだけの、すぐに消えてしまう人間の事はあまり覚えてないでしょうけど……それでも、あたくしは覚えているのよ。神様との付き合い方はそういうものなのかもしれないわね」
実際、ナブニトゥは老婆の事を覚えていない。
給仕が食事を運んでくる。
席についているのは老婆と童とナブニトゥだけ。
ナブニトゥが言う。
「この童にご両親はいないのかい?」
「二人ともお仕事なのよ、これでもあたくしの家はそれなりに優秀な家系で――なんて、ふふ、自分で言うのもなんだか図々しいとは思うのですけど、ともあれ、なかなか家にまでは帰ってこられないのです。だから、ナブニトゥ様が食事をご一緒してくださると、孫もとても喜びますのよ」
「そうかい、ならば遠慮せずに頂くとするよ」
給仕たちは食事の支度を終えると、まるで貴族に向けるような礼を老婆に残し――退出。
そのまま自宅に帰っていく。
おそらくは日中の老婆の世話係、介護を担っているのだろう。
食事を開始しながらナブニトゥは老婆に言う。
「大事にされているようだね」
「おかげさまで、引退した後もこうして慕って貰えているみたいなの。こちらはね、ふふ、ただお仕事だから頑張っていたのだけれど……だから、なんだか悪いみたいで」
「仕事は何をしていたんだい?」
聞かれた老婆は少し寂しそうな顔をして。
「これでも人を使って、移住してきたこの王都で民のために頑張っていたのよ? 本当よ」
「そうか、ならばやはり僕とも会ったことがあったのだろうね」
「ええ、何度か書類のやりとりもさせて貰ったことがあったかしら。でもそうね、あたくしももう歳だから、具体的になにがあったかとか、どんな会話をしたのかしらとか。そういうのはもう、忘れてしまったわ。ダメね、歳をとると。本当にダメ」
言葉とは裏腹。
年齢を感じさせる口には幸せそうな皺が刻まれている。
「ねえお祖母ちゃん!」
「なあに」
「オレ、今度アクタの兄ちゃんにまた魔術を教えてもらいたいんだ! 祖母ちゃんからも頼んで欲しいんだけど、ダメかな?」
「ふふふ、そうね。今度会いに来てくださったときにお願いしてみようかしら」
ナブニトゥが言う。
「マスターがここにきているのかい?」
「月に一度、ぐらいかしら? ふはははは! まだ生きておるか! なんて、あたくしを心配してくださって。お忙しいのなら無理をしないでって、こんな老婆はもう忘れてくれていいのよって言っているのに。あの方は、そうね、義理堅いのでしょうね。昔に世話になったからって、看取るぐらいはしないといけないだろうって、顔を見に来てくださるのよ」
昔?
ナブニトゥは引っかかりを覚えた。
「老婆よ、確認したいのだが構わないだろうか」
「ええ、もちろん構いませんよ」
「僕はあなたを知っているのだろうか?」
「ふふ、そうね。知っているかどうかなら、知っているって答えないと変になってしまうのかしら」
ナブニトゥは考える。
違和感が、胸の中に広がっている。
ナブニトゥは考える。
かつてあった、アクタとのやりとりが脳裏をよぎった。
人間と神との違い。
考え方の違い。
価値観の違い。
アクタはあの日言っていた。
神と人間の五十年は違う、と。
歩む速度も、体感時間も、神とは異なる。
ナブニトゥは老婆を見た。
しばらく考え、思い出したというよりは思いついた。
「失礼、違っていたら申し訳ないのだが。君は、あの領主イナンナかい?」
「ええ、そうですわよ。もっとも、もうとっくに引退して領主ではなくなっているけれど。お久しぶりですわ、ナブニトゥ様。最後にお会いできて、とても嬉しく思っておりますのよ」
領主イナンナ。
かつてルトス王の騒動の時に巻き込まれた、三大領主の一人。
そして、領主エンキドゥと領主となったビルガメスの幼馴染。
ナブニトゥは今、ようやく気が付いた。
アプカルルに見えていて、ナブニトゥに見えていなかったもの。
それは人間と向き合う姿勢。
見えていなかった。
ナブニトゥは、まったく人間を見ていなかったのだ。
ナブニトゥにとって五十年など一瞬の事。
けれど、人間には違う。
知らないうちに、領主イナンナは老婆と化していた。
ならば……。
あの日、王城に入り込んだ時に出されたスイーツも、既に二代目。
フィンクス王はフィンクス王でも、フィンクス二世が用意したスイーツだったのだろう。
アプカルルは気が付いていた。
なにしろルトス王を粘着し続け、人の人生がどれほどに深く複雑なのか知ったのだろうから。
けれど、ナブニトゥは思う。
自分は違う。
いま、ようやく気が付いた。
「そうか……マスターが僕にあんな顔をしていたのは、こんなことにすら気付かない僕に失望していたのだろう」
「ふふ、失望はしていないんじゃないかしら」
「なぜそう思うんだい? 僕なら、絶望するよ。こんなことにも気付けない……あれから五十年近くも経っていることすら気付かず、ただ日々を過ごしていた部下さ。僕は僕自身に失望したい気分なのだが」
老婆イナンナが言う。
「だって、四十年近くもよ? あたくしはあの方の部下として、領主として過ごしていたんですもの。あの方について、詳しくなっちゃうわ。大丈夫、あの方は失望なんてしないわ。だって、相手をよく見ているんですもの。断言するわ。それとも老婆に断言されても、困っちゃうかしら?」
「いや、ありがとう――」
ナブニトゥは言う。
「ところで、君はどちらの男と結婚したんだい?」
「どちら?」
「領主エンキドゥか、領主ビルガメスか――まさかそれ以外の男と結婚するとは思えないのだが」
ふふふふっとかつて領主だった老婆は微笑み。
「恥ずかしいから内緒ですわ」
と、本当にうれしそうに笑い。
「ナブニトゥさま、あたくしね、本当にこの世界に産まれて幸せでしたのよ?」
「そうかい」
「ええ、そうですわ。だから、この世界を創って下さり、本当にありがとうございました」
老婆は神に感謝を述べた。
ナブニトゥは知った。
思い出した。
かつてこうして、人類から感謝されたことを――。
それは遠き過去。
もはや色褪せた思い出だった。
けれど、確かにあった過去だった。
ナブニトゥは考える、神々はいつから……人間をちゃんと見ることができなくなっていたのか。
と。