第027話 狂気のアプカルル
【SIDE:海の司祭オアンネス=アプカルル】
ここはこの世界にとって新たなエリア。
そしておそらく最後のエリアとなる場所。
世界をそのまま複製したかのような異世界Gの迷宮。
姿を隠し、内部を観測するのは一柱の神。
彼女の名はアプカルル。
女神ヴィヴァルディやナブニトゥ神とは同郷。
滅びた神の世界から柱の神に連れられ、この世界に逃げてきた住人である。
海の司祭オアンネス=アプカルル、かつて彼女は間違いなく聖職者だった神。
姿は半魚人。
顔は鯉。
彼女の信仰は全て柱の神に注がれていた。
だが、神を失った彼女が今も聖職者かどうか、それは彼女自身にも分からない。
ただ彼女は柱の神を慕っていた。
自分たちを終わる世界から連れ出してくれ、この世界を与えてくれた彼にその心を捧げていた。
けれど、柱の神は死んでしまった。
滅んでしまった。人類によって殺された。
だけれど。
と、海の司祭オアンネス=アプカルルは目の前に広がる世界を眺め、驚嘆していた。
多くの人々が怖いと告げたが、唯一、柱の神だけはつぶらで愛嬌のある顔だなと。
褒めてくれた鯉の瞳に、光が満ちていく。
アクタの生み出した迷宮はまさにノアの箱舟。
終わる世界から抜け出す宝船のようだと、確かにそう感じたのだ。
だからオアンネス=アプカルルは歓喜する。
「ええ、そうね! これがアプカルルの理想郷! 世界が壊れてしまうのならば、アプカルルたちは混沌の海を渡る船を用意すればいいと思っていたのね! けれど、違うのね! そうなのね! アプカルルは分かったのよ! 世界をコピーし、壊れない世界でまた楽しく暮らせばいいだけなのね!」
自らをアプカルルと呼ぶオアンネス=アプカルルは、口をパクパクと蠢かしながらもひしりと、胸の前で祈るように手を重ね。
周囲を魔力の濁流で揺れ動かし、うっとりと告げる。
「ああ、そうなのね! アクタといったかしら、あなたこそがそうなのね!」
「その声は、ああやはり君だったのかアプカルル」
「あら? あらららら? その声はナブニトゥなのね?」
言葉の通り、そこには森人の神とされる一柱の神が顕現していた。
ナブニトゥ神。
「ああ、そうだよ。狂気のアプカルル。君は相変わらず狂っているね」
フレスベルグの姿を借りるナブニトゥ神を、首だけ傾け振り返るオアンネス=アプカルルは、うふふふふふっと不気味な笑みを浮かべるばかり。
ナブニトゥ神が言う。
「何をしに来たんだい」
「何をって、分かるでしょう? アプカルルはね、この迷宮が欲しいのね。だからアクタに伝えて欲しいのね。ここにいる薄汚い蟻たちを流して、アプカルルの家にしていいかしらって」
「それは許されないよアプカルル。僕のマスターは人類を気に入っている。いや、少なくとも王都で知り合った人々のことは守るべき臣民と思っているようだ。だから駄目だよアプカルル」
告げるナブニトゥ神にやはり、鯉の顔を傾げ。
「ナブニトゥ? どうしたのかしら、アプカルルはね? あなたを知っているのよ? ナブニトゥ、あなたは人類のことが大嫌いで大嫌いで仕方ないと思っているのよね?」
「ああ、そうだよアプカルル。僕は人類が大嫌いだ。反吐が出る程に嫌いな事に違いはないよ」
「じゃあなんで人類を守ろうだなんてしているの? アプカルルは分からないのよ?」
海の司祭オアンネス=アプカルル。
彼女の指摘通りだった――ナブニトゥ神は背後にアンズーの群れを従え、いつでもアプカルルを追い払えるようにと陣形を組んでいる。
アプカルルにはそれが分からない。
領主と呼ばれる男女も、聖騎士も聖職者もそしてコピーされた王都に移住した人々も、アプカルルにとっては大好きな柱の神を殺した一族の末裔。
だからアプカルルには分からない。
「僕のマスターが人類を消すと決めたのなら僕は人類を正しく消し去るよ」
「本当なの?」
「ああ、そうだよアプカルル。僕はね、人類が大嫌いだよ」
「なのによ? ああやって理想の箱舟で生きる人類を濁流に沈めないなんて、アプカルルには分からないのよ?」
「アプカルル、君は嫌いだからといって殺すのかい?」
「ええ、そうよ。だって嫌いなんですもの。アプカルルには分からないわ、なぜヴィヴァルディはあんな人類をいまだに守ろうとしているのかしら」
ヴィヴァルディの単語にナブニトゥ神も露骨に嘲笑の息を漏らし。
「ああ、僕にも本当に分からない。ヴィヴァルディ、ああヴィヴァルディ。可哀そうで愚かな女神。彼女はいまだに人類のために、己の神性を犠牲にし守護し続けている」
「怖いわ、ナブニトゥ。あなた、彼女を世界樹に変えて一緒に消えたいのよね?」
「ああ、そうだったよアプカルル。あの方が居なくなった世界でそれだけが僕の望みだったんだよ、アプカルル」
「だった?」
「ああ、そうだよアプカルル。僕は今、マスターに従い行動しているからね」
鯉の顔の中央、口をパクパクとさせてアプカルルは訝しみ。
「変なのよ。あの自由なる音楽家のあなたが、【柱の君】以外に従うの? それはおかしいわ、ナブニトゥ」
「それは仕方のない事だよアプカルル。彼の素顔を一目見た瞬間、僕の運命も行動も全て決まっているのだからね」
「そう……。ねえナブニトゥ」
「なんだいアプカルル」
「この場所、アプカルルに貰えないかしら? 人類には勿体ないってアプカルルは思うのよ? この世界から抜け出すために動いている皆も、きっと、ここを見れば考えを改めるでしょう? あの方と柱の君と一緒に、また楽しく暮らせるのよ? みんなが一緒になれるでしょう? アプカルルはね、思うのよ? あの人が愛したみんなが離れ離れになるのは悲しい事だって思うのよ?」
ねえ、アプカルルは正しいでしょう?
と、鯉の顔を持つ神はうっとりと告げる。
「悪いがそれはできないよアプカルル」
「あら? どうして?」
鯉の口が、パクパクと蠢く中。
ナブニトゥは謡うように、けれど低く美しい声で淡々と告げる。
「君が柱の君と呼ぶ、あのお方……柱の神はもう死んでしまったのだからね。悲しいけれどね。もう、全員は揃わないんだよアプカルル」
「何を言っているの?」
「君こそ何を言っているんだい」
「あら? そう、アプカルルは分かっているのに、気付いていないのねナブニトゥ」
次第に周囲の空気が揺らいでいく。
「……君はまた、いつものように勘違いをしていないかいアプカルル。思い込みが激しい癖が変わっていないのだね、アプカルル」
「ナブニトゥ。本当に知らないの? それとも隠しているの? この楽園を独り占めしようとしているの? ねえ、ナブニトゥ。ねえナブニトゥ。ねえナブニトゥ」
狂気のアプカルルと他の神々から揶揄されることのある、始祖神。
海の司祭オアンネス=アプカルルは、ぷくぷくぷくと泡を発生させナブニトゥの周囲を取り囲む。
「僕を殺す気かい、アプカルル」
「だって、あなたが独り占めにしようとしていると、アプカルルは分かっているのよ」
「仮に君の仮説が正しいとして、ヴィヴァルディはどうするんだい。彼女はいま、僕らとマスターと行動を共にしている。それを独り占めとは言わないだろう」
「変なこと言うのねナブニトゥ」
「変?」
「だってヴィヴァルディは数に入らないじゃない」
眼中にないと悪意なく告げるアプカルルに、ナブニトゥはくくくっと嗤い。
「まったくもってその通りだ。一本取られたね」
「……あら」
「どうしたんだいアプカルル」
「ナブニトゥ、あなた笑えたのね。そんな風に、顔をくしゃっとさせることもできたのね。アプカルルは驚いたのよ。本当に驚いたのよ」
「笑っていたのかい、この僕が」
「ええ、笑っていたのよナブニトゥ」
「そうか、そうだね。僕は存外、フレスベルグの姿が性に合っているのかもしれないね」
やはり、ひとしきり笑った後。
ナブニトゥは真顔に戻り淡々と告げていた。
「いいかいアプカルル。これは警告だ。マスターが許可する前にこの迷宮に移住した人類を襲うなら、僕は君や君たちと敵対するよアプカルル」
「なら彼と直接話をさせて欲しいのよナブニトゥ」
「それはできない。もし君とマスターとで本気の戦いとなったら、君は間違いなく負けるだろうからね」
「アプカルルが負ける?」
鯉の口を、ふへへっ、ふへへっと歪め。
半魚人の女神が魔力によって、物理的に空間を捻じ曲げながらアプカルルが告げていた。
「柱の君よりも、いいえ、神々の中で一番強いアプカルルは負けないのよ?」
「君は確かに強いね。僕らの中で最強だ。でも君は彼には勝てないよアプカルル」
「アプカルルはそうは思わない」
「そうかい、ならばもういいさ。僕は止めたよ。さようならアプカルル、かつて友だった狂った女神よ」
「それじゃあまたいつか会いましょうナブニトゥ。アプカルルはね。まずは神聖教会ってところを潰してくるのよ。だからその次にここに来るの。その順番でいいのよね?」
「ああ、神聖教会なら僕も構わないよ」
アプカルルが言う。
「本当に良いの? ヴィヴァルディが怒るでしょう?」
「ヴィヴァルディを縛る鎖が消えれば、彼女は自由になれるだろう。だから君が神聖教会を潰してくれた方が僕は助かるんだよ」
「ヴィヴァルディが大好きで大嫌いなナブニトゥ。あなたのそういうところは相変わらずなのね。アプカルルはね、ちょっと安心したのよ」
「しかし、理由を聞かせて貰ってもいいかいアプカルル。人類が死ぬことなんてどうでもいいと僕も思うよ、けれど、なぜ神聖教会なんだい?」
くすくすと微笑んでいた鯉の女神は、不意に言葉を殺したような顔で言う。
「あいつらね、アプカルルが気持ち悪いって言ったのよ」
「人間と会ったのかい?」
「ええ、そうよ。世界が終わると聞いてアプカルルもね、最初は動こうとしたのよ? 柱の君、あの方のために大嫌いな人間を助けようとしたのよ。けれどね、あの日、王様と大司教が言ったのよ。アプカルルを見て、おぞましい魔物だって。アプカルルを見て、鼻を塞いで睨んだのよ。アプカルルは悲しかったのよ。だからアプカルルはあいつらを潰すのよ」
「それが神聖教会とあの暗愚なのかい?」
「ええ、そうなのよ。今の王様と、その王様を使って好き勝手やっている神聖教会の大司教……いえ、大司祭? 分からないけれど、ヴィヴァルディを崇めるあいつらの一番偉い人間がいったのよ」
ナブニトゥが言う。
「王に呪いをかけているのは君か、アプカルル」
「呪い? かけていないのよ? ただ毎日毎晩、夢の中に入って追いかけているだけなのよ? アプカルルは気持ち悪くないのよ? ってアプカルルは可愛いのよって。だって柱の君がそう言ってくれたんですもの。アプカルルは許せないのよ。だから、アプカルルは神聖教会を潰すのよ」
「呪いより酷いねアプカルル」
「酷いのは、アプカルルを気持ち悪いっていったあの子供なのよ」
子供?
と、ナブニトゥは理解できない様子で鳥の眉間を顰めるが。
ああ、と答えを得た様子で言う。
「そうか、アプカルル。君が王と出会ったのは、まだ王が子供だったころだったんだね」
「そうなのよ? あの子ね? 次の日もね? 神聖教会の大人に囲まれてアプカルルを出迎えてね? アプカルルを見て大きな瞳を震わせて、怖い、気持ち悪いって、泣いたのよ? それをね、神聖教会の連中が止めなかったの。ダメですよと、注意をしなかったの。だからアプカルルは気持ち悪いって思われちゃったのよ。酷いと思うでしょう、ナブニトゥ」
「……けれど、それはもう何十年も前の事だろうアプカルル」
「ナブニトゥ? 四十年ぐらいしか経っていないのよ、ナブニトゥ」
「ずっと恨んでいるのかアプカルル」
「恨む? どうして? あの子は可愛いのよ? 毎日毎晩、震えてくれるのよ? アプカルルはね、いつかあの子にアプカルルは気持ち悪くないって言わせるのよ」
哀れな、とナブニトゥは神としての慈悲ある声を漏らし。
「一思いに殺してあげないのかい?」
「変な事を言うのね、ナブニトゥ。だって毎日毎晩、あの子は怯えて、あの子はごめんなさいって震えてね? 謝ってくる姿が惨めで無様で美味しそうで。きっとあの子は悪い大人に騙されているのよ。だからアプカルルはね、あの子を操って好き放題の政治をやらせている連中をね? 神聖教会だけを潰すのよ。そうしたらあの子はきっと、全部が分からなくなる。もっと美味しそうに、もっと可愛らしく、震えるような夢の中で出迎えてくれると思うのよ?」
うふふふふ、うふふふふっと狂気のアプカルルは頬を支えて泡を飛ばす。
二柱の会話は終わり。
アプカルルは転移、吹いた泡の中にその身を溶かして消えていた。