婚約破棄されて優しい兄がブチ切れたら、次は公爵家との縁談が浮上しました
前作はたくさんの方にお読みいただき、ありがとうございました。引き続き、リジーの婚約騒動を見守っていただけますと幸いです。
また、今回はほんの少し恋愛要素が入っているので前回と同じジャンルに統一しています。やっぱり恋愛ジャンルじゃないな~、と思ったら遠慮なくコメントください。
剣を持つ男が二人、向かい合って立っている。
一人はロバート・オーブリー。オーブリー伯爵家の長男にして次期当主である。人柄も温厚で礼儀正しく、妹と同じ短い黒髪と琥珀色の瞳を持つ美しい青年だ。
そのロバートの前にいる男もまた、負けず劣らずの美青年だった。風に靡く短い銀髪に、涼やかな瑠璃色の瞳。爽やかに笑む顔が人当たりの良さを感じさせる。名を、フィリップ・モーガン。モーガン公爵家の次男である。
一見すると、気の合いそうな二人だ。
(なのに、どうしてこうなるのかしら……)
二人から離れた場所で途方に暮れていたリジーは頬に手をあて、深いため息を吐き出した。
隣に立つアリシアを横目に見ると、彼女は扇子を片手に目を細め、楽しそうに笑っている。
「ロバート様は本当にリジーさんが大切なのね。わざわざフィル兄様に一騎打ちを申し込むなんて」
一騎打ちとは、すなわち、決闘である。
貴族社会では『気品に欠ける行為』だと忌避されているが、騎士達の間では剣術大会で用いられる正式な勝負方法らしい。
そんな野蛮な勝負を、兄が自ら申し込むなんて。
数日前、リジーの元婚約者を殴り飛ばしてからというもの、ロバートは色んな意味でぶっ飛んでいる。
リジーはそんな兄が心配で仕方がなかった。
「お兄様……やっぱりこんなこと、やめておいた方がよろしいのでは……」
「心配しなくても大丈夫ですよ、リジー嬢。怪我はしませんから」
返事をしたのは兄ではなく、フィリップだった。
「男には絶対に退けない時があるんです。『義兄上』にとっては、それが今なんですよ」
ロバートの眉が、ピクリと動いた。
「失礼ですが、私はまだあなたを妹の婚約者として認めておりません。故に『兄』と呼ばれる筋合いもございませんが」
「おや。噂と違ってロバート殿は手厳しいですね……遅かれ早かれ僕達は義理の兄弟になるのですから、もう少し歩み寄ってもいいと思いませんか?」
次に、琥珀色の瞳がギラリと光った。
「互いに歩み寄るための時間は十分に与えられたと思っておりましたが……むしろ、我々はいつまでこの雑談を続ければよいのでしょうな」
「やれやれ、せっかちな方だ。……では、始める前にきちんと約束していただきましょう。僕が勝てば、あなたにはリジー嬢との婚約を認めていただく」
「ならば、私が勝った場合は大人しく妹を諦めていただきましょう」
「いいでしょう。……それでは、遠慮なく!」
フィリップの言葉を合図に、両者が地面を蹴る。
虚空を切り裂きながら、双方の剣がぶつかり合った。ガキィンという甲高い音を耳にしたリジーは、再び大きなため息を吐き出した。
「そこに私の意思はないのですか……?」
そもそも、何故こんな事態になったのか。
きっかけは、リジーのもとに届いた一つの手紙だった。
所謂、縁談である。それも、相手は代々宰相を務めるモーガン公爵家。その次男であった。
流石に社交を嫌うリジーでも、アリシアに兄がいることは知っている。長兄が騎士団に所属しており、素晴らしい戦績を上げる副団長として名前が知れ渡っているからだ。
しかし、次兄についてはよく知らなかった。
アリシアの手紙によれば、次兄は父と同じ政務に携わる職に就くため、近隣諸国でも有名な学校に留学して勉学に励んでいたのだとか。
その次兄が、つい最近ようやく帰国したらしい。そして家族で話し合った結果、正式に公爵の跡を継ぐことになったため、世継ぎのことも考え早急に結婚相手を探さなければならなくなったそうだ。
(てっきりアリシア様がお兄様に縁談を申し込むものばかりと思っていたのだけど……)
幼い頃に婚約者を決められたリジーと違い、ロバートにはまだ婚約者がいない。本人にその気がないため、どんな令嬢と顔合わせしても婚約が成立しないのだ。いつまで経っても身を固めようとしない兄に、父も母も頭を抱えていた。
のらりくらりと独身を貫く兄の心算はリジーにも分からないが、相手が公爵家であれば無下に断ることもできない。そうなれば、兄も将来のことを見据えて腹を括るだろうと考えていた。
――な・の・に。
届いた招待状を握りしめ、リジーは手を震わせた。
招待状と言っても、ただのお茶会だ。要約すると、これを機にお互いの兄妹を交えて話をしよう、と書かれている。どうにも当人達の顔合わせをしたいらしい。
「どうしてこんなことに……?」
「嫌なら無理しなくてもいいんだよ、リジー」
「相手は公爵家なんですよ!? 断るという選択肢が私達にあるとでも……!?」
「安心しなさい。まだ打診があっただけだ」
鍛錬を終え、リジーの侍女が用意した紅茶を飲みながら一息吐いていたロバートが事もなげに言うので、何を呑気な、とリジーは泣きそうな声を上げた。
「完全に読み違えましたわ。私、アリシア様はお兄様に求婚したくて私と親しくなさっているものとばかり……」
「なぜアリシア様が私なんかに求婚するんだい? ご兄弟のことは分からないが、初めから彼女はリジーと親しくなりたかっただけで、私に興味などなかっただろう?」
不思議そうに首を傾げる兄に、リジーはがっくりと項垂れた。
そうだ。兄はこういう人なのだ。だから他家の令嬢が近づいてきても、無駄に愛想を振りまくだけで進展が見られない。
確かに、兄の言う通りアリシアにそこまでの下心はなかったのだろう。でも、少なからずロバートとのお喋りを楽しんではいたのだ。「優しいお兄様ですのね」と、(リジーの好感度を上げるためかもしれないが)こっそり耳打ちしてくるぐらいには気に入っていたはず――。
「お兄様はもう少し女心を勉強してくださいな……」
「なんだい、藪から棒に。私は十分に理解しているつもりだよ。リジーという素敵なレディが近くにいるんだから、当然だろう?」
「まあ……」
リジーの口から呆れの声が零れ落ちた。
「どうしてその甘い言葉を私ではなく、他のご令嬢に向けられないのかしら?」
「リジー。男はね、心から愛した女性にしか睦言は口にできない生き物なんだよ?」
「はいはい、ありがとうございます。妹は自慢の兄に愛されてとても幸せに思いますわ。もちろん、私も同じぐらいお兄様のことを愛しておりますけれど」
「これは恐悦至極……それでは愛しのリジー。差し支えなければ、この兄をモーガン公爵家のお茶会に同行させていただけますかな?」
わざとらしく手を差し出して許可を求めてくるロバート。
リジーはうっと言葉を詰まらせた。実の兄とはいえ、その顔を武器に懇願されるのはいつまでも慣れない。
――今日も眩しいくらい顔が良いんだから。
その顔の美しさに負けてしまう自分が情けなくなる。
だが、見ず知らずの場所で人と会うことを考えると、頼りになる兄が傍にいてくれるのは有難い話だ。
「もちろん、そのつもりですわ」
リジーが迷いなく手を重ねて答えると、ロバートはとても嬉しそうに微笑んだ。
「とはいえ、流石に今回は父さんも一緒に来るだろう。お前は婚約を破棄されたばかり。あのパーティーでの出来事はすでに貴族達の間で話題になっているに違いない。アリシア様は一部始終をご覧になられているし、公爵家ともあろう者がつまらない噂をネタにすることはないだろうが……」
「少なくとも、アリシア様はそんな人じゃないわ」
「そうだね、そこはあまり心配していない。……まあ、何はともあれ、スタンリーとの婚約は思うところがあった。次の縁談には、私も少しばかり口を挟ませてもらうよ」
リジーの前では常に笑顔のロバートでも、妹の元婚約者だったデビッドとの一件は大層腹を立てているらしい。父から説教を受けた後も、「あのようなうつけを婚約者として許すとは……父さんも何を考えているんだ」と愚痴を零していたぐらいだ。兄でも尊敬している父に怒りを向けることがあるのかと、リジーは心底驚いた記憶がある。
(そういえば、子どもの頃も私に婚約者ができると知った時……お兄様はあまりいい顔をされなかったような気がするわ)
今にして思えば、幼くても賢い兄なりに妹の将来を考え、納得できない部分があったのかもしれない。度々、スタンリー家との関係についても提言することがあった。
最初から、ロバートだけがリジーの結婚に否定的だったのだ。大人しく従順に育った妹の前では何も言わないだけで。本当は没落寸前の侯爵家なんてやめて、すぐにでも別の嫁ぎ先を考え直して欲しいと願っていたに違いない。
そう考えると、この妹思いの兄が公爵家を相手に何を言い出すか不安になるが――ひとまずロバートの気の済むまで好きにしてもらおう、とリジーは思った。
後日、その考えが間違いだったと思い知るのだが。
そうして、当日。
伯爵家よりも広い敷地に建つ屋敷と、その屋敷の前で出迎えた美しい兄妹を見て、リジーは腰が引けた。
とにかく、美形揃いだった。遅れて出迎えてくれた公爵当主も、その妻も、みんな整った顔立ちをしている。長兄だけは騎士団の仕事で不在だったが、一家四人の顔を見れば想像は容易い。
中でも、今回の縁談相手である次兄のフィリップはロバートと似通った雰囲気がある。微笑み一つで数多の女性が恋に落ちる様子が目に浮かぶようだった。
うっかりときめく心を誤魔化すように、リジーは空高くに浮かぶ雲を見上げた。
(どう見ても私が場違いだわ……)
リジーとて、決して悪い顔ではない。兄が可愛いと褒めてくれるだけの愛嬌があると自負している。
それでも、この美しさを前にすれば己の愛らしさも霞むというものだ。
――全く、これっぽっちも、釣り合う気がしない。
思わず口から飛び出しそうになったその言葉をぐっと飲み込み、リジーは父と兄に倣って挨拶のために腰を折った。
前に歩み出た公爵が、朗らかに言った。
「久しいな、オーブリー。今日は子ども達の我儘に付き合わせて申し訳ない。ようこそ、モーガン家へ」
「お久しぶりです、モーガン様。こちらこそ、本日はお招きいただき感謝いたします」
笑顔で顔を合わせる当主達の間に緊張感はない。
隣で少し表情が硬かったロバートも、動きがぎこちなかったリジーも、二人が顔見知りであることに内心驚きはしたが、和気藹々とした雰囲気に肩の力を抜いた。
「紹介します。こちらが我が息子のロバート。そして今回、お話にいただいた娘のリジーです」
「お初にお目にかかります、モーガン公爵様」
「本日はお招き、ありがとうございます」
兄妹の揃った挨拶の口上に、モーガン公爵はうんうんと頷き、満足げに笑った。その仕草がパーティーでのアリシアにそっくりで、ついリジーは彼女に視線を向けてしまう。
目が合ったアリシアはリジーにウインクした。優美な女性は茶目っ気たっぷりの仕草も様になるらしい。
「私も紹介しよう。こちらが妻のケイティ。それから次男のフィリップと、娘のアリシアだ」
「お会いできて光栄です、オーブリー伯爵」
「今日という日を楽しみにしておりましたわ」
親は親と、子は子とそれぞれ互いに握手を交わす。
アリシアと握手を終えたリジーは、ふと隣から注がれる視線を感じ、そろりと目を動かした。
兄と笑顔で握手を交わしていたはずのフィリップが、真っ直ぐに自分を見下ろしている。
その澄み渡る青の瞳に吸い込まれてしまうような気がして、リジーはさっと顔を背けた。
何を考えているのかは分からないが、熱心に見つめられて思わず心臓が跳ねた。
リジーの様子に気づいたアリシアが、じとりと横目で自分の兄を睨んだ。
「……フィル兄様、見つめすぎですわよ。少し不躾ではなくて?」
「あ、ああ……失礼。妹から話には聞いていましたが、想像していたよりもずっと可愛らしいレディだったもので、つい……」
我に返り、こほん、と咳払いを一つ。
気を取り直して、フィリップは優しく微笑んだ。
「初めまして、リジー嬢。あなたに会える日を心待ちにしていました。そのドレス、とてもよく似合っています」
「え、ええ……こちらこそ、お会いできて嬉しいですわ」
リジーが狼狽えつつ挨拶を返すと、目を見開いたフィリップはアリシアの方へと向き直り、わざとらしく大袈裟に感動してみせた。
「聞いたかい、アリシア? リジー嬢は僕に会えて嬉しいって! 夢を見ているみたいな心地だよ……! 君も少しはこんな風に殿方を喜ばせる言葉を口にすれば婚約者の一人や二人すぐに――あいたっ」
「あらやだ、ごめんなさいお兄様。ちょうどそこに『社交辞令』も分からない虫がいましたの」
「ごめん、冗談、悪かった!」
靴の踵で遠慮なくフィリップの足を踏んづけているアリシア。パーティーではお淑やかな雰囲気を漂わせている彼女だが、兄弟の前ではこんなにも自由奔放に振る舞うらしい。
初めて知ったアリシアの一面にオーブリー兄妹がぽかんとしていると、二人の視線に気づいたアリシアは今し方見せた暴挙を誤魔化すように咳払いをした。
ほんのり頬を赤くして、彼女は公爵に声をかける。
「お父様。さっそくリジーさん達を庭に案内しても? そちらはそちらでお話しなさるのでしょう?」
「ああ、もちろん。好きにするといい。……フィリップ、二人に失礼のないようにな。それと、あまり人前で妹をからかうんじゃない」
「すみません、妹が可愛くてつい……ちゃんと客人をもてなしますから、そこはご心配なく」
ならいいが、とまだ疑わしい顔をしながら、公爵は夫人を伴って伯爵を屋敷の中へと案内していく。
それを見送ったアリシアとフィリップも、リジーとロバートを公爵邸の庭へと誘導した。
目的地に辿り着いたリジーは、さっそく広大な庭園を見渡して「わあ」と感嘆の声を漏らした。
モーガン家の庭は、丁寧に手入れを施された見応えのあるバラ園だった。入り口のアーチから、噴水近くのガゼボまで続く道も全てバラで囲まれている。
「色が多いでしょう? 中でも噴水近くに咲いている青バラは特に珍しい色ですのよ」
「まあ……青バラは品種改良されたばかりで、国内では入手困難だとお聞きしていますが……?」
「僕が留学先から伝手で種を取り寄せたんです。母がどうしても家族の瞳と同じ色が欲しいというので……」
なるほど、とリジーは納得した。
アリシアは顔立ちだけでなく髪や目の色も夫人に似て赤い。対し、フィリップは顔立ちこそ夫人寄りだが、銀色の髪と瑠璃色の瞳は公爵と同じだった。
(ここは夫人が家族を想って作った庭園なのね)
だからこんなにも美しいのかしら――なんて、うっとりと庭園に見とれていたリジーは、自分の横顔を見て呆けている次兄の横腹をアリシアが思い切り突いたことに気づかなかった。
「いっ……!?」
「あら……フィリップ様、どうかなさいましたの?」
「い、いえ、何も……それより、リジー嬢。良ければ私のお手をどうぞ」
「え」
にこやかに声をかけられ、リジーは無意識にロバートを振り返った。
ロバートはただじっとフィリップを見つめているだけだった。口を挟む様子は見られない。
だからフィリップもロバートのことは素知らぬふりで、リジーの返事を待っているようだった。
「ほんの一時でいいんです。どうか僕にエスコートさせてください」
(うぅ……だから、その顔で懇願されるのはダメなのよ~……)
ロバートの時と同じだ。美しい顔が切ない表情を浮かべ、懇願してくる――そんなことをされて断れるはずもない。差し出された手に自分の手を重ね、リジーは「お願いします」と小さな声で答えた。声が震えてしまったのは気のせいだと自分に言い聞かせた。
フィリップの手が、優しくリジーの手を握り返してくる。
父とも兄とも違うその感触に、リジーの心臓は何度も飛び跳ねた。少し指が細く感じるが、それでも厚みのある大きな手だった。
(……この方、もしかして剣を握るのかしら?)
長兄が騎士団に所属しているなら、それもあり得るかもしれない。公爵家ともなれば剣術そのものを嗜むのかもしれないし、外交の仕事を目指すからこそ護身術の一環として覚えたのかも。
そんなことを考えながら、ついフィリップの横顔を凝視する。前を向いて歩く姿は凛々しく、王族に負けない気品さを感じる。見れば見るほど、兄に雰囲気が似ている気がした。
(ほんと、どこから眺めても美しい顔だわ……いったい何人の女性を泣かせてきたのかしら……)
これだけ顔が良ければ、パーティーでも兄と同じようにたくさんの女性に囲まれたに違いない。公爵家の子息であれば、自分好みの女性を選ぶこともできただろうに――。
そんなことを考えていると、物言いたげな視線に気づいた彼が「ん?」と柔らかな笑みでこちらを見下ろした。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ……フィリップ様は剣を握ることがあるのかと思いまして」
「おや、良く気づきましたね。国外に赴くことが多いので、身を守る術として兄に叩きこまれました」
「まあ……そんなに危険なお仕事なんですの?」
「そういう訳ではないですが、私達の国と違って国外には野盗被害の多い地域もあるのでね……念のためです」
ああ、とリジーはすぐに思い至った。
「野盗被害が多いといえば、東の国境辺りでしょうか? 父が商談の際、よく護衛を増やしていますの。商売人にとっても頭の痛い悩みですわ……東との貿易がもう少し盛んになれば、国境を繋ぐ街道付近や領内の治安の改善にも目を向けられますのに」
スラスラと話すリジーに、フィリップはきょとんとした。
「治安の、改善……?」
「え? ええ……盗人に商品が奪われては流通もできませんし、命の危険を伴う仕事では働き手もいなくなりますから。国家公認の貿易になれば、自ずと流通経路の安全対策は考えられるかと思いまして……」
「……」
「まあ、今この国で東と交流しているのは我が家くらいですから、あまり重視されていないようですが……あ、申し訳ありません。このような愚痴はするべきではなかったですわ……私ったらつい」
政にも関わらない女がペラペラと喋り過ぎた。
呆気にとられているフィリップを見て、リジーは「申し訳ございません」と視線を下げた。
しかし、フィリップは慌てて首を横に振った。
「謝ることはありません。すみません、今のは少し驚いただけで……僕の知る貴族のご令嬢達はみんな、こういった堅苦しくて重い話題を避けているようでしたから……」
(それはそうよ。だって、貴族に生まれた女は普通、政から遠ざけられて育つんですもの……)
リジーは心の中で吐き捨てた。
国も領地も、全ての政は家督を継ぐ男の仕事。
女の役目は、その男を支えることだった。もっと明け透けな言い方をすれば、その家の血筋を守ることが仕事だと言われている。そのために、貴族に生まれた女は蝶よ花よと大切に育てられるのだ。
だから、リジーのように自ら領地の管理や事業の経営について学ぶ令嬢は大変珍しい。オーブリー家の者でなければ、まず奇異の目で見られていたことだろう。
「アリシアの言った通り、あなたは聡明な方のようだ。スタンリー家は惜しい人材を手放すことになりましたね」
唐突に元婚約者の家名が挙げられ、リジーは俯き、苦笑した。
「惜しまれるほどのことは何も……女性らしい嗜みもなく世情ばかり気にしていましたから、きっと小賢しい娘だと思われていたに違いありませんわ」
「そんなことはないでしょう。少なくとも僕は今、あなたがここにいて良かったと思っていますよ。こんなにも気楽に、話題に悩むことなく会話できる女性は初めてです。もしかしたら、僕達は気が合うのかもしれませんね」
「ま、まあ……お上手ですこと」
口説かれているのか、素直に言葉を並べただけなのか。どちらにせよ照れくさい褒め言葉だった。
自分を見下ろす青い瞳に熱が宿った気がして、リジーは思わずそっぽを向いた。うっかり早く脈打つ心臓を鎮めるのに必死で、自分達の数歩後ろで兄のロバートが目を光らせていることに全く気づかなかった。
そうして語らいながらゆっくりと庭園の中を進み、リジーとロバートはモーガン兄妹にガゼボへと案内された。
そこからは、至って普通のお茶会が始まった。
普段、家で何をしているのか。趣味は何か。好きな料理やお菓子。巷で最近流行っている演劇など、そんな当たり障りのない話題だ。そこにはリジーとフィリップだけでなく、アリシアとロバートもちゃんと会話に加わっている。
見合いの席のような緊張感がなく、兄がいる安心感もあってリジーはリラックスした気分で会話を楽しむことができた。
中でもリジーの関心を引いたのは、フィリップの話す留学先での出来事だった。学友に案内されて見て回った観光名所、見たこともない植物、知らない異国の文化――世界には、まだまだリジーの知らない物事で溢れ返っているのだ。好奇心が疼いて仕方ない。
だから、迂闊だった。
「私も国の外へ行ってみたいですわ……」
無意識に、本音がぽつりと零れ落ちる。
その瞬間、フィリップとアリシアは満面の笑みを浮かべた。
「僕のお嫁さんになってくれるなら、いくらでもその願いを叶えてあげられますよ?」
「ええ、ええ! ぜひ、そうしてくださいな! 私、リジーさんならきっとフィル兄様の支えになれると思いますの!」
「え、ええ……?」
夢心地から一変して、現実に引き戻された。
(そうだ……! 私、縁談を受けていたんだったわ!)
会話に夢中になって忘れていたが、今日のお茶会も顔合わせと同義である。
リジーは我に返り、言葉に詰まった。
ロバートが口を開いたのは、その時だった。
「先ほども妹と話しておられましたが、国外にはまだ治安の悪い場所がたくさんあると聞きます」
幾分か冷たさを感じる声音に、リジーは兄を振り返った。
彼はいつもの柔和な笑みを浮かべ、フィリップを真っ直ぐに見据えていた。
「あまり妹を危険な場所へ連れて行くのはご遠慮願いたいですな」
「ロバート殿は本当に妹思いのようだ。……ですが、ご安心を。うちには優秀な騎士が揃っています。それに、僕自身も剣術には多少の心得があります」
「お言葉を返すようで恐縮ですが、嗜む程度の技量では話になりません」
「お、お兄様……それは流石に――」
「リジー嬢」
不穏な空気を感じ取り、すかさず口を挟もうとしたリジーをフィリップが手で制した。
双方が、笑みを浮かべたまま向かい合う。
「何がお望みですか、ロバート・オーブリー伯爵令息」
「フィリップ・モーガン様。今ここで、私との決闘をお願い申し上げる」
アリシアが目を輝かせ、リジーは卒倒した。
「決闘!? そんなこといけませんわ!」
「決闘!? 良いではありませんの!」
お互いに相反する反応だった。
リジーは勢いよくアリシアの方を見るが、彼女はニコニコと笑ったままだった。
「ア、アリシア様……?」
「リジーさん。男は拳で語り合う生き物なのですわ」
「いえ、何か違うと思います」
少なくとも、兄が言っているのは拳ではなく剣だ。
まさかアリシアが賛同するとは思わず、リジーは冷や汗を流した。上に二人も兄がいれば、こんな反応も普通になるのだろうか。ロバート以外の兄弟がいないリジーには理解できなかった。
それはさておき、兄達は口元に笑みを携えたまま火花を散らしているように見える。こちらもこちらで、全く考えを改める様子が見られない。意外にも二人が好戦的であったことに、リジーは肝が冷えた。
最後の頼みは使用人達だ。リジーは助けを求めるように公爵家の執事やメイド達を振り返った。
残念なことに、一同揃って顔を背けられた。
(な、なんでなの~~~~!?)
止める者が誰一人おらず、リジーは一人オロオロとしながらロバートに声をかける。
「お、お兄様、何も決闘なんてしなくても……」
「リジー。お前が婚約破棄されたあの日から、私はずっと考えていたんだよ。お前の夫に相応しい男とはどのような者か……」
「それは……なんとなく気づいていましたけども」
「私は可愛い自分の妹が何より大切だ。誰よりも愛しく思っているし、あのうつけ者に傷つけられた分、幸せになってほしいと願っているんだよ」
「え、ええ……ありがとう、お兄様」
「だからこそ私は、次に選ばれる結婚相手はリジーを心から愛し、慈しみ、守れる男でなければならないと考えているんだ。私は、私より弱い男をお前の婚約者として認められない……絶対に!」
(だから決闘なんて話になったのね……)
血走った目で熱弁するロバートに、言葉が出ないリジーはぼんやりと空を見つめた。
スタンリー家と婚約が解消されてから、ロバートの過保護に拍車がかかっているのは気づいていた。兄なりに心配してくれているのだと思っていたが、まさかここまで拗れているとは――。
この様子だと、元婚約者に『剣を抜く』と脅したあれも冗談ではないだろう。
この兄はやる。
否、絶対、殺る。
リジーは今、そう確信した。
「リジー嬢。ロバート殿は心配なさっているのですよ。私はこれで婚約を認めてもらえるのなら構いません」
「そうですわ。私達、ここは黙って男の勝負を見守るべきではなくて?」
アリシアはともかく、当事者であるフィリップにそう言われてしまえば、リジーに止める術はもうない。
兄の好きにさせようと思った数日前の自分を、リジーは恨めしく思った。
そうして、あれよあれよとリジー達は鍛錬場に向かうことになり、冒頭に至るのである。
キィン、と金属がぶつかり合う音が何度も響き渡る。
鍔迫り合い、睨み合う兄達の表情はとても怖い。
何故なら、二人の口元にはずっと笑みが浮かんでいるのだ。
攻防を続けている間に言葉を交わした訳でもないのに、何がそんなにおかしいのか。
楽しそうで何よりだが、リジーは早くこの勝負が終わらないかとハラハラするばかりだった。
「何度かお話に伺ってましたけれど……ロバート様は本当に剣捌きが素晴らしいですわ。スタンリーへの脅し文句も口ばかりではなかったのですね」
「アリシア様、よく落ち着いていられますね……私は心配で今にも心臓が止まりそうですのに……」
「ふふっ。上に二人も兄がいれば、殴り合いの喧嘩なんて普通に見られましてよ」
「殴り合い……!?」
「ええ。顔を痣だらけにして、気の済むまでやっていました。もちろん、全てが終わったあとにお父様に怒られていましたけれど……」
「信じられませんわ……フィリップ様はあんなにお優しそうですのに……」
フィリップは兄の温厚さとはまた違う、穏やかな空気を纏う青年だ。勝手な想像だが、気さくで優しい気質故に喧嘩や勝負事も無縁なのだろうと思っていた。
ぱちくりと目を瞬かせるリジーに、アリシアはニヤリと笑みを深めた。
「まあ……心配なさらずとも、直にフィル兄様が決着をつけますわ」
「え……?」
「だってお兄様、留学先の剣術大会で優勝してますもの」
――なんですって。
耳を疑った、その瞬間だった。
フィリップの剣が下から上へと剣を払いのけ、ロバートの手からそれを弾き飛ばした。
アリシアの言う通り、勝負に決着がついたのである。
現実をすぐに受け入れられなかったのか、ロバートは地面に落ちた剣を見て固まっている。
リジーも信じられなかった。
ロバートの剣術はほぼ独学で磨き上げたものだが、それでも幼い頃から毎日のように鍛錬は欠かさず行っていた。時間のある時には、父が護衛に雇った傭兵に教えを乞うこともあった。「領主ではなく騎士になればいいのに」と周りから勧められるぐらいには、本当に実力がある人だったのだ。
「お兄様が負けるなんて……」
「どんなに才能があっても、その程度だったということだ」
第三者の声が聞こえ、リジーの心臓が跳ねた。
振り返った先には、モーガン公爵に連れられてこちらに向かってくる父がいた。
公爵の後ろで眉根を寄せ、険しい顔をしている父の顔を見たリジーはこの世の終わりを見た気がした。
「お、お父様……」
「ロバート。そしてリジー。これはいったいどういう事だ? 説明しなさい」
厳しい目が兄妹を交互に見る。冷静に説明を求めているが、すでに父はここで何があったか見透かしているように思えた。
リジーは言葉に詰まる。
身内が決闘を行っていたなどと、口にできるはずもなかった。ましてや、先に勝負を申し出たのはロバートだ。正直に話せば、間違いなく父の怒りの矛先は彼に向けられるだろう。
――兄が怒られないよう誤魔化すべきか。
――素直に白状して少しでも父の怒りを和らげるか。
何度も考え、躊躇い、そしてリジーは諦めた。
嘘は絶対見抜かれる。父の目を見れば分かることだ。何より『人に誠実であれ』と言い聞かされて育ってきたのだ。些細なことでも、父に嘘を吐くことはどうしても憚られた。
放心状態だった兄も自分と同じ考えらしい。地面に落ちた剣を見つめ、ロバートは観念した様子でおもむろに口を開いた。
「私が――」
「僕がお願いしたんですよ、オーブリー伯爵」
事実を話そうとした兄の声を遮り、場を和ませる明るい声が響いた。
リジーとロバートは声の主を振り返った。
真実を誤魔化したのはフィリップだ。視線が合った彼は「任せろ」と言わんばかりにウインクし、話を続けた。
「少しでもリジー嬢に良いところを見せたくて、無理を言ってロバート殿に鍛錬に付き合っていただいたんです。彼は素晴らしい腕をお持ちですね。妹のリジー嬢が自慢したくなる気持ちも分かります。騎士でないのが悔やまれる実力だ」
伯爵は両眉を上げた。
「……そうでしたか。てっきり、私はロバートが妹を思うあまり暴走でもしたのかと思いましたが」
(当たりです、お父様……)
未だ訝しげな表情をしている父に、リジーは心の中で頷いた。いつバレてしまうか分からない嘘にひやひやとしながらフィリップを見ると、嘘を吐いた張本人は変わらずにこやかな笑みを浮かべ、平然としていた。
「確かに妹思いなところはありますが、伯爵がご心配なさるようなことは何もありませんでしたよ。……ねぇ、リジー嬢?」
「!」
それどころか、さらりとリジーまで巻き込んできた。
話を振られるとは思ってもみなかったリジーは、オロオロと視線を彷徨わせる。
(ど、どうして私まで……!)
しかし、こうなってしまっては父に怪しまれる前に腹を括るしかない。
覚悟を決めたリジーはフィリップの話に合わせ、つらつらと言葉を並べた。
「……はい、何も問題ありません。むしろ、お兄様は私の我儘を聞いてくださったのですわ。フィリップ様から剣を嗜むと聞いて、ついお兄様と鍛錬しているところが見たいと言ってしまいましたの」
もちろん、心の中は父への謝罪の嵐だ。なんとか平静を装っているが、罪悪感で泣きたくなった。
そんなリジーを、父はしかめ面で見つめた。
「ふむ……」
「それでしたら、私も同罪ですわね。久しぶりにお兄様の稽古姿を見たいと言いましたもの。お優しいロバート様は私達の願いを叶えてくださっただけですわ」
「アリシア様まで……」
彼女まで擁護してくるとは思わなかったのか、オーブリー伯爵はため息を吐き、仕方なしと頷いた。
「……分かりました。今日のところは目を瞑ります。……リジー。ロバート相手ならともかく、フィリップ様やアリシア様まで困らせないように」
「はい……申し訳ありませんでした」
しおらしく答えたリジーは、父の視線が逸れるとほっと胸を撫で下ろした。
もう二度と嘘は吐きたくない。慣れない緊張に、どっと疲れが押し寄せてくる。
恨めしい思いでフィリップを睨むと、彼は微笑み、声を出さずに唇だけを動かした。
「ありがとう」
そう言ってあまりに綺麗に笑うので、つい許してしまいそうになった。
そうして話がまとまったところで、成り行きを見守っていた公爵が興味深そうに顎を撫で、口を開いた。
「それにしても、流石はオーブリー伯爵の息子だ。領主としての才能だけでなく、剣の才能にも恵まれているとは……うちの長男とは大違いだな」
「……恐れ入ります」
「父上、兄上はあれで良いのですよ。だから殿下の目に留まり、護衛の任を与えられたのですから」
ところで、とフィリップは不思議そうに首を傾げた。
「父上達はどうしてここに? もしかして、もうお開きの時間になりましたか?」
「ああ。仕事の話が終わったから、お前達を呼びに来たんだ。庭にいないからもしや、と思ってこっちに来てみたんだが……まあ、概ね想像通りだったな」
「……そうですね。とても楽しい時間でした。終わってしまうのが惜しいです」
意味深な瞳が二人分、リジーに向けられる。
注目を浴びたリジーは首を傾げ、そんな彼女をさりげなくロバートが背で隠す。
「フィリップ様。本日はありがとうございました」
恭しく首を垂れ、不自然に聞こえない程度に挨拶の言葉を継げるロバートに倣い、リジーも腰を落とす。
「どういたしまして。可愛い婚約者のためなら、このぐらいどうってことないですよ。こちらこそ、鍛錬に付き合っていただきありがとうございました」
美しい顔で優雅に微笑むフィリップ。
ロバートは完璧な愛想笑いを浮かべた。
「『ま・だ』妹は婚約者ではございません」
「おや? 僕はてっきり話がまとまったものだと思っていましたよ、義兄上殿?」
「正式に決まってないのですから、事実でこざいましょう」
バチバチバチ。
再び散った火花に、リジーはやや呆れた目を兄に向ける。
それはアリシアも同じで、彼女は手に持っていた扇子で兄の頭を軽く叩いた。
「フィル兄様。少しからかいが過ぎますわ。ロバート殿の言う通り、まだ正式な婚約はしておりません。リジーさんのお気持ちはちゃんと聞きまして?」
「わ、私……!?」
「もちろんですわ、リジーさん。私はあなたのことを兄嫁である前に、大切な友人だと思っていますの。あなたのことを父に薦めたのは他でもない私ですけれど、友人の気持ちを誰よりも尊重したいと思っていますわ。フィル兄様はこの通り、少々強引なところがありますから」
「ひどいなぁ。僕は純粋にリジー嬢を気に入っただけなんだけど」
フィリップの言葉に、オーブリー伯爵が表情を明るくした。
「ほう……それは大変光栄な話です。リジー、お前はどうなんだ?」
どう、と問われても返答に困るのが本音だ。
リジーは首を横に振った。
「あ、有難いお言葉ですが……今はまだ、なんとも……」
「それなら、僕に気持が傾くまで口説き落とすことにしましょう。手始めに花を贈っても? ああ、リジー嬢は外の国にも興味がおありでしたね。留学先からお菓子や本を取り寄せてもいいかもしれない」
さらりと言ったフィリップに、ロバートが眉間に皺を作る。
「……全て灰になるかもしれませんな」
「お兄様、やめてくださいまし」
ぽつりと聞こえた声に、リジーはすかさず注意した。
フィリップがさらりと流してくれることが唯一の救いだ。彼はロバートを気に留めることなくリジーの方へ歩み寄ると、手を掴み、その指先に軽くキスをした。
冷たい瞳が熱を宿している。兄に負けず劣らずの美形に微笑まれ、リジーはまたしても自分の頬に熱が集まるのを感じた。
「またお会いしましょう、愛しい人。その時はぜひ、僕のことをフィルと呼んでくださると嬉しいです」
「……はい」
こんなの、頷く他にない。
リジーは真っ赤な顔のまま、何度も首を縦に振った。
その後、我が家に戻ったリジーはずっとぼんやりしていたそうだ。
そして、気づけば翌朝。
侍女が持ってきた自分宛ての贈り物を見て、リジーは高鳴る胸の音を聞きながら顔を手で覆った。
侍女がリジーに差し出したのは、一枚のメッセージカードと一輪の花だった。
それは、フィリップの瞳と、同じ色。
『あなたと巡り会えた奇跡に感謝を込めて』
とても美しい、青色のバラだった。
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