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ここは日出ずる国  作者: 銀河乞食分隊
前章  -宗方サンプル-
1/60

1942年2月 南シナ海

適当にこじつけています。

こんな事実は無いと言わないで下さい。

国際政治はもっと難しいも無しで。


2021/06/17 こっそり修正。後の話とつじつまを合わせるため。

 日本はイギリス・フランス連合と戦争になっていた。要因の一つはアラブの石油利権だった。1938年、日本がサウジアラビアで油田を発見したことが始まりだった。



 日本はサウジ王家とイギリスに了解を得た上での掘削と発見であったが、イギリスの三枚舌は掘削場所から港までの通行権を認めていなかったのだ。事前ではきちんとした輸送路と港湾が確保されていたのだがどうやったのか通行不可になってしまった。現地住民に優先権が有ったと言うが現地には人がほとんどおらず、古代の通商路からも遠く離れている。その上、発見した油田周囲の権利をフランスに売ってしまう。

 イギリスとフランスが油田を日本から巻き上げようとしているのは明らかだった。

 日本はイギリスとフランスに抗議するも受け入れられず、売却なら応じるという返答を受けた。提示されたのはとても安い金額だった。精々油田数年分の原油価格だろう。それなら塩漬けにして毎年の契約料を王家に払ってでもイギリスとフランスに嫌がらせをした方がマシだった。日本が契約した土地はかなりの面積だったのだ。




 その時代、各工業国は石油の確保に躍起になっていた。今でもそうなのだが。

 1937年、当時ファッショになってしまったイタリアとフランスは仲が悪かった。そのイタリアが保護国としているリビアで油田、それも結構大規模なを発見してしまった。それまでは輸入国だったイタリアが一転輸出国になるのは見えている。また、油田発見から起こる様々な波及効果はイタリアを弱小工業国から強い国に変貌させるだろう。特に海軍と空軍はリビア-イタリア間の通商路を確保するために強化されるはずだ。

 地中海に面しているフランスと地中海が大事なイギリスが看過出来るものでは無かった。

 イタリア自体は石油掘削技術は無く他国に協力を求めるが、イギリス・ルーマニア・オランダは拒否をした。アメリカも態度をはっきりさせなかった。同じファッショと見られたドイツ(ナチス)はムッソリーニとヒムラーの仲が悪く、かなり高額な費用と分け前を求めたという。

 そこへ手を上げたのが日本である。

 ここ数年で驚異的な掘削技術の向上を見せた国だ。石油精製技術も欧米並みとはいわないがそれに近づいてきている。

 日露共同開発のオハ油田、極東最大級と見られるバトムガ油田などで実力を磨いたと見られた。オハとバトムガの距離は近く油田地帯の可能性もあった。


 極東唯一の欧米に続くくらいの技術力を持つ工業国であり東南アジアで存在感を増す日本は、イギリス・フランス共に邪魔な存在となっていた。そこへ来てリビアでの油田開発協力、サウジアラビアでの油田発見である。

 イギリスはポンドブロックから日本を外す工作をしている。イギリスが足を引っ張りたくて油田を餌にフランスを引き込んだというのが国際筋での見方だった。

 日本としては冬季に輸送手段が無くなるバトムガ油田を補うためのサウジアラビア油田開発であり、イギリス利権を侵害する気など更々無かったのである。

 半ば詐欺に近いイギリス外交と比べれば素人丸出しのお人好し日本外交が勝てるわけは無かった。

 日本はサウジアラビアの権利を保ったままサウジ王家に契約料を払うことで日本のサウジ油田を塩漬けにする事に決めた。

 冬期の石油はアメリカやオランダ植民地からの輸入と国内に備蓄タンクを増設することで対処することになる。意地でもイギリス植民地・保護国からは石油を輸入しない。

 これが拗れてポンドブロックから外される原因になるのだが、もう意地であった。

 戦略物資の一つである生ゴムであるがほとんどがイギリス植民地で生産されている。これが困るので、こっそりと苗木や種を持ち出していた。元々イギリスもブラジルから無許可で持ち出したのだ。文句を言う資格は無いはず。もっともこれは、やはりイギリスに戦略物資を握られるのが面白くないアメリカも咬んでいた。なぜならこっそりと栽培を始めたのがフィリピンはミンダナオ島だったからだ。



 時は激動の時代を迎えようとしていた。

 スペイン内戦時、1937年ソビエトとナチスドイツが共謀して金塊の奪取を試みるも、両国の動きを警戒していた日本海軍によって阻止された。金塊は日本が一時預かりとした。ソビエトとナチスドイツは日本を批判するも他の国々からは銀行強盗事件として笑われる。両国はスペイン内戦から手を引いた。

 スペイン内戦は1938年夏フランコ側勝利に終わるが、自分勝手な行動を取っていた両国が無くなり統率が取れたフランコ側が優位に立ったためだった。両国がまだ関わっていたら長引いたというのが一般的な見方である。国際的に承認されたフランコ政権に日本は金塊を返還した。この時、承認各国から人民弾圧をしないようにと言う条件で金塊が返還されたのは秘密であった。


 前年1936年、日本では2.26事件が起こり国内は荒れていた。

 そこへ更に一押し有った。

 ベルリンオリンピック後ナチスというかヒムラーに対する興味から『わが闘争』全文が丁寧に翻訳されて出版。特定の人物や陸軍監修の内容とはかなり違うことが分かり、陸軍統制派が関わっていたことが分かる。前年の陸軍粛清に続き連続での粛清となる。永田鉄山など陸軍を背負って立つと言われた人間達が軍籍剥奪、予備役編入、左遷などの処分を受ける。

 中本内閣最初の試練で有る。

 内容的に日本人を一段下と見る事が窺われ批判を浴びせるも、ヒムラーはどこ吹く風だった。

 銀行強盗事件と共にナチスドイツへの警戒感が強まる。



 1938年ソビエトは飢餓輸出と大粛清を原因とした内戦が共産党・NKVDと赤軍の間で始まる。

 ソビエトとナチスドイツが起こした銀行強盗事件は資金不足に陥った両国が起こしたのだが、資金不足は飢餓輸出をしても改善されず、そこへ大粛清で不満を持った赤軍がクーデターを起こしたのだった。このクーデターは密告者・造反者多数により赤軍の敗北で終わった。赤軍がただ単に共産党と入れ替わろうとしただけで有り、正義もへったくれもなかったからだ。この敗北により赤軍は更に粛清を受け規模も縮小をさせられてしまう。


 資金不足のドイツはソビエト内戦を参加すること無く見つめるだけだった。それでもユダヤ排斥の流れは止まらず、水晶の夜事件が起こる。ソビエトまで手を出す余裕は無くても隣国なら有った。オーストリアをアンシュルスしてしまったのである。

 これに味を占めたヒムラー・ナチスドイツは併合政策を進めていくことになる。

 中央ヨーロッパはナチスドイツが不安定要因となっていく。



 アメリカ合衆国は経済巨人であったがモンロー主義が変に拗れてしまい、孤立主義となる。それでも中南米に対する干渉は止めなかった。イギリス並みに酷い二枚舌外交である。しかも、元宗主国よりもかなり下手だった。



 イギリス・フランス両国の対日感情の悪化で遂に上海租界で事件が起こる。

 上海には日本が日清戦争の結果手に入れた上海租界があるが、管理の手間と経済効果を考えると微妙であり、返還を考えていた。航路中継点なら態々他国に利用料を払わずに済む海南島が有ったからだ。

 当時、中華民国は共産中国と内戦をしていて上海の生み出す金は魅力的だった。利益のかなりを海外が持ち出すとしても、なお魅力があった。ただ自身が管理しきれるものでは無いのは自覚していたようだ。日本からの権利返還申し出を受けた後イギリスとフランスにそれなりの金額で渡してしまう。日本が中華民国を信用できない相手と見定めた事件だった。


 上海租界で日本人事業者が尽く妨害を受けるようになったのはこの頃からだった。

 撤退する日本人事業者の後釜にはイギリス・フランスの事業者が入り込んでいた。やがて、上海に停泊している日本船籍貨物船を狙い撃ちするかのように臨検が相次ぐ。苦情を言う日本政府と素知らぬ顔のイギリス政府とフランス政府。拗れていくのは当然だった。そこへ持ってきてのサウジ事件である。更に拗れた。


 ある日、日本船籍の貨物船からアヘンが見つかったとイギリス上海総領事から発表があった。イギリスがアヘンと言っても信用されないのに、使い古された手であった。御禁制の品が見つかるのはだいたい気に入らない相手からである。

 この時の日本の対応は不味かった。艦隊を派遣して貨物船と乗り組み員を奪還したのである。

 欧米相手でなければ良かっただろうが、相手は無駄に誇り高いイギリスとフランスで有った。

 事実無根と相手にしない日本と、謝罪と賠償を要求する英仏。平行線であった。

 遂にイギリスは日本をポンドブロックから外す決定をする。資源や製品の値上げばかりでは無く、各種手数料、関税、スエズ運河の通行料も跳ね上がった。

 それでも文句を言いながらも払い続ける日本に旨味を見つけたのか、事もあろうにポンドブロックとフランブロックに加えて欲しければ海南島を割譲するように言ってきた。

 さすがに日本の怒りを買う。

 日本は海南島の防衛力強化を始めた。

 これに文句を言うのがやはり、英仏両国だった。シンガポール・仏印ベトナムから香港・上海に向かう中間に海南島がある。脅威で有った。

 海南島の武装を放棄するように迫る英仏と無視する日本の間には、ユーラシア大陸の西と東並みの距離があった。


 フランスが海南島に逃げ込んだ犯罪者を捜査する為に上陸すると通告してきた。海南島は海南道という日本の領土で在る。当然日本は拒否をする。


 上海アヘン事件の事を持ち出してフランスと共に日本を犯罪者を匿う国と非難する。

 日本は捏造事件で有るとして無視をする。


 1941年8月、遂に英仏が共同で最後通牒をしてきた。日本は驚く。理解不能であった。

 1941年12月20日までに最後通牒を受け入れること。受け入れない場合は1942年1月10日をもって日本に宣戦布告すると言う、本当に理解できない内容だった。

 受け入れる気のない日本政府は海外の英仏影響圏に居る日本人に帰国命令を出す。それでもパリに残る日本人がいた。残れば迫害を受けそうなのに、そんな魅力があったのだろうか。同時に資本の回収を始めた。妨害は有るものの法治国家を曲がりなりにでも称する国であり、それなりの回収が出来た。

 英仏も日本が最後通牒を受け入れる気は無いと戦争準備を始める。


 1942年1月10日

 日本に対してイギリス・フランス両政府から宣戦布告があった。

 日本政府もイギリス・フランスに対して宣戦布告を返す。


 通称、両端戦争の始まりだった。両端はユーラシア大陸の両端である。


 上海と香港の駐留軍は治安維持部隊であり、脅威度は低いとして無視をする日本。

 海南島を守らねばならないので海軍は南シナ海に入っていた。

 第一航空戦隊と第二航空戦隊を中心とした、二つの小ぶりな機動部隊である。

 

 敵は仏印フランス艦隊とイギリス東洋艦隊である。


アメリカとは政治上は仲が良くないけれど経済的にはそこそこ仲が良いのでした まる




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