旅の途中
この旅の始まりは、たった数週間前だというのに。
思えば、随分遠くまで来てしまったと思う。
活気溢れる港街を横目に、私はその場に似合わない溜息を零した。
冬の気配が混ざる冷たい潮風に後ろを押され、前を歩く仲間達の背を少し遅れて追いかける。
そうして、つい目で追ってしまうのは、一番見慣れた黒服の青年だった。
面倒だからと肩まで伸びた髪は、今は無造作に後ろでひとつに結ばれていて、歩く度に軽く左右に振れる。
隣を歩く仲間の小さな魔術師に呼び止められた彼は、そちらに視線を落として口角を上げるとなにか言った。
魔術師は不本意そうに眉を上げて言葉を返そうとして、一歩後ろを歩く銀髪の剣士に止められている。
王都に居た頃は、あんなに近かった幼馴染の距離が、最近遠く感じるようになった。
――理由は、なんとなく分かっている。
三人は大通りの中心、噴水前の広場で足を止めた。
黒服の幼馴染セファは、赤が混じり始めた空を暫く見上げて、私が追い付くのを見計らったように口を開いた。
「さて、どうするかな」
とは言え、選択肢はそう多くもない。
目的の海峡を渡る船の最終便は既に終わっている。
夜は街の外にいる魔物が活発になるので、今から冒険者ギルドで依頼を受けるのも厳しいだろう。
「ボクは先程見かけた魔道具屋を見たいです」
「そうだな、一度解散するか」
セファが言葉を返すが早いか、小さな魔術師は私の隣をすり抜けて、元の道へ引き返して行った。
その背をぽかんと見送って、私は正面のセファを見る。
彼は呆れた顔をして肩を竦めると、ぽつりと言葉を零した。
「まだ待ち合わせ場所も決めてないんだけど、な」
「……宿は私が取っておこう」
「んじゃ、頼んだわ」
「ああ、承知した」
銀髪の剣士はひとつ頷くと、先程魔術師が走っていた方向へゆっくりと歩いて行く。
良くも悪くも対照的な二人の仲間と出会ったのは、この短くも長い旅の中だ。
人と敵対する魔族や彼らの使役する魔物が世界に満ちている現状、一般市民の私が街の外に出る事自体、普通では一生有り得ないはずだった。
この旅の始まりは、今ここに居ない城勤めの幼馴染が、隣国に密書を届けに行く事が決まった時かもしれない。
暫く仕事で王都を離れるから、と挨拶に来たその人を見送って数日後、王都で冒険者ギルドの――というより、街の何でも屋をしている目の前の幼馴染が駆け込んできた。
『悪い、ちょっと手伝ってくんない?』と、気づいたら城下街の外まで連れ出されていた。
聞いた話だが、丁度その時セファが追っていた事件の犯人の所に、なぜかその隣国へ向かった幼馴染が持つはずの書状があったらしい。
秘密裏に行われる交渉のため王国の騎士が届ける訳にも行かず、かといって体制を再度整える時間もなく、色々あって彼が追うことになったそうだ。
道中には謎の失踪事件や、魔族の襲撃。他国の工作員と一戦を交えることになりながら、なんとか幼馴染に無事本物の書状を渡して、あとは王都に戻るだけ、の、はず。
けれど、ひとつ前の街で聞いた話が、その時のセファの息を殺すような声が、一日経っても頭から消えてくれない。
魔王が居ない現状、この世界では序列第三位となるその魔族の情報を耳にしたのは、本当に偶然だった。
表情と雰囲気が崩れたのは一瞬で、すぐに何でもないような顔をして『へえ、そんなこともあるんだな』と言った彼は、けれど明らかに口数が少なかった。
その晩に問い詰めてもあっさり躱されたが、どう見ても因縁がないとは思えない。
そうして思い知る。十年以上の付き合いがある幼馴染と言っても、私は彼のことを全然知らないのだと。
私がセファの過去について直接聞いたのは、王都に来る前は父親と旅をしていたことと、彼の故郷が今は滅んだことだろうか。
その旅をしていた父親は、なんとなく彼の本当の親でない予感はあるけれど、改めて確認したことはない。
聞いてしまえば現状が壊れてしまうような、そんな気がして。
「リズ?」
思考を遮るように、聞き慣れた声が私を呼ぶ。
反射的に「うん」と頷いて顔を上げれば、こちらを見ていたセファと目が合った。
「どうした、ぼーっとして」
歩み寄ってきた彼は、私の頭を手の甲で軽く二回叩くと口角を上げた。
「なんでもない」
「そうかよ」
少し眉を寄せたセファはざっと視線を周囲に巡らせて、それから仲間達が向かったのとは別方向に足を向ける。
かと思えば、数歩進んで肩越しに私を振り返った。
「ほら、行くぞ」
昔から変わらない仕草で彼は私を呼ぶ。
見慣れない景色が、一瞬幼い頃から過ごしてきたあの城下街に見えて、私はふたつ瞬きした。
「あ、待って」
ゆったりと歩き始めた背中を小走りで追い掛けて。
私はセファの隣に並ぶと彼の顔を覗き込んだ。
「どこに行くのかな?」
「秘密、だな」
「またそういうことを言う」
頬を膨らませた私を小突いて、彼は小さく笑った。
「わ、凄い……」
目の前に広がる景色に、私は思わず声を上げた。
あれから、迷うことない足取りの幼馴染の後を追って歩くこと数分。
辿り着いたのは街外れにある高台だった。
少し先の欄干の向こうには、赤く染まった空とそれを反射して輝く海が広がっている。
半分水平線に沈んだ太陽が、揺れる波間に映り一つの円を描いていた。
まるで、その接触点から空が海に溶けていくみたいだ。
私は高台の縁を囲む欄干に駆け寄って、息を呑むような景色を眺める。
行きにこの街を訪れた時は、速足に抜けてしまったから、こんな景色は知らなかった。
いや、まあ、私は船酔いが酷かったので、例え時間があったとしても、こんな余裕は無かっただろうけれど。
ぼんやりと思考を巡らせて、けれどふと思い出して隣を見る。
そこには誰もいなくて、私は慌てて背後を振り返った。
ふわり、と視界を横切ったのはカップから立ち昇る湯気。
その奥には、一瞬見失った幼馴染の姿があった。
多分背後に数軒あった露店のいずれかで買ったのだろう。
先程ひとりで慌てた私に気づきもしないで、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「なにを買ったの?」
「いや、寒かったからな」
「……私のは?」
「なに、欲しいの?」
別に、となるべく素っ気なく返して、意地悪く口角を上げた彼から視線を逸らす。
ひとつだけ、という辺り実に微妙だが、景色を見て真っ先に駆け出した私は何も言えない。
最初とは微妙に色の変わった景色をじーっと見ていれば、後ろから静かに声が掛けられた。
「好きだろ、こういうの」
「うん」
不意に思い出したのは、今から五年程前のこと。
本来立ち入り禁止になっている、街で二番目に高い時計台に二人でこっそり忍び込んだことがある。
後日、もうひとりの幼馴染にバレて数時間お説教コースだったのだけれど。
そういえば。初めて……その、したのも。
彼とキスをしたのも、その時だった。気がする。
その日も、今日のように少し冷え込む秋の夕刻で。
指先だけ繋いだ手も、ぎこちなく触れ合った唇も、とても熱かったのを覚えている。
互いに目を合わせる事も出来ないまま家に帰って、けれど結局、私達の距離は幼馴染のままだった。
かたん、と何かが置かれる音が思考を遮る。
音の方に視線を向ければ、幅広の欄干にカップを置いて頬杖を付きながら私を見ているセファと目が合った。
「なに考えてんの?」
「……なんのことかな?」
「顔、赤くなってるぞ」
「え、うそ!?」
「嘘だよ」
慌てて半歩足を引けば、鼻の先を摘まれた。
どうして私が。目の前の彼は、少し意地悪く笑う。
このまま同じ話題が継続することに耐え切れず、私は慌てて脳内を整理する。
夕焼け、は、だめだ。一度頭に浮かんだ内容は、そう簡単に振り払えそうもない。
そういえば、と浮かんだ言葉を口にする。
「でも、よくこの場所を知ってたね」
「昔、親父と旅してた時に来たことあるんだよ、ここ」
「セファの、お父さん……」
「お前も知ってる方だよ」
含みのある言い方に、以前から感じていた予感が確信に変わる。
「……そっか」
風で流れる湯気を視線で追って、私はそのまま目を伏せた。
人生の半分以上を一緒に過ごしてきた。言葉にするとそれだけだが、現実は私の中でもっと重い。
それは間違いないのだけれど、私が今まで見てきた彼は、あくまでも彼の中の一部分でしかないのだろう。
一緒に旅をして、それが思っていた以上に僅かなものだったのだと否が応でも再認識させられた。
「聞かないのか?」
「ええと、なにをかな?」
「それならそれで、良いんだけど」
聞けるものなら、聞きたいに決まっている。
王都に来るより前の話も、なぜ私を外に連れ出したのかも。
――彼にとって私が、どの程度の存在なのかも。
けれど全部音にできないまま、私はセファの横顔を見た。
出会った時から、ずっとその横顔を追いかけてきた。
手が届いたと思った瞬間も確かにあったけれど、気づけばいつの間にか私は置いてけぼり。
その距離感が寂しくて頑張ろうとしたことも、既に一度や二度の話ではない。
けれど、現状が崩れることが怖くて、いつも寸前で二の足を踏んでばかりだ。
予定通りであれば、明日には対岸行きの船が出る。問い掛けるための時間は、残り僅かだ。
――彼はまだ、旅を続けるのだろうか。
私はセファの横顔を見ながら、両手を握り絞める。
本当に、このまま流されていて良いのだろうか。
視線の先の彼は、夕日を見ながらカップの中身を一口飲んで、僅かに眉を寄せた。
そんな顔するくらいなら、なんで買ったのだろう。
セファはカップを欄干に置くと、私を見た。
「不安」
「……え?」
「って、顔してるぞ」
伸びてきた手を、無意識に避ける。
瞬きした彼に、私は慌てて誤魔化すように首を振った。
「気のせいじゃないかな。最近忙しかったから、少し疲れちゃったのかも」
「それもそうだな」
もう一度手に取ったカップの湯気の向こうに、一瞬セファの顔が隠れた。
間を置いてから聞こえたのは、小さな溜息。
「昔はもっと素直だった気がするんだけど」
ぽつりと呟かれた言葉が聞き取れず、私は軽く首を傾いだ。
「……えーと、なにか言ったかな?」
「いや、今日の晩飯どうするかってな」
「来たことがあるのなら、美味しいお店も知っている?」
「いや、そこまでは覚えてねえよ」
伸ばされた手に、くしゃりと頭を撫でられる。
何故だか無性に安心して口を開きかけて、けれど何も言葉にならない。
意気地無し。私は心の中で呟いた。
手の温もりが遠ざかり、私は乱れた髪を撫でつけながら、俯き加減で隣を向く。
片手のカップを弄ぶセファと再び目が合った。
「……飲むか?」
「あ、うん」
反射的に頷いて、私は固まる。
どうした、と聞かれた言葉になんと返事をしたかは覚えていない。
というか、ちょっと待て。
よく考えたら、いや、考える迄もなく間接キスじゃないだろうか。それは。
今更そんなこと気にする間柄じゃないような気もするけれど、と今まで重ねたキスの数を思い返して片手じゃ足りな……だから違う。そうじゃない。
冷静に考えて、私達はただの幼馴染だ。
少なくとも、彼にとっては。
数秒して硬直が解けた私は、大きく左右に首を振った。
間違いなく、顔は赤くなっていると思う。
「どっちだよ」
苦笑したセファが、改めてカップを差し出す。
私は一瞬躊躇ったものの、両手でそれを受け取った。
「ありがとう」
夕暮れの展望台でこんな風に二人で巫山戯合うなんて、まるでデートみたいだ。
いや、違う。違くないけど、じゃなくて、違くしかない。これ以上考えるな。
一度脱線した思考は、そう易々と戻ってはくれないらしい。
大きく深呼吸をして、私はカップを口に運ぶ。
少し悩んで、持ち手を逆にして彼とは反対側に唇をつけた。
……隣から抑えた笑い声が聞こえた気がする。
「あれ?」
これ、私が好きな味だ。
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもない」
緩く首を振って、私は湯気の向こうの夕焼けを見た。
港街の酒場は、王都のその場所と比べても負けず劣らず賑やかだった。
汗の香りも豪快な笑い声も、数度しか行ったことはないけれど、なんとなく似通っている。
ただ、ちょっとだけこちらの方が声が大きいかもしれないと、ようやく配膳係の人を捕まえて、現実逃避のように考えた。
机に並んだ料理は、活気ある港街だけあって魚料理と海藻が多い。
その代わり、野菜の量は少なめだ。
そんな分析で気を紛らわせても、現実は変わらない。
「一体どこに行ってたんですか」
「いや、ちょっとそこまで」
ジト目の魔術師の鋭い言葉に、隣に座るセファは肩を竦めて視線を逸らした。
「ボク達が宿屋でどれだけ待ったと思ってるんですか」
「いい感じに腹が空くぐらい、じゃねえの」
「そうやって、貴方は………もう、いいです」
そう言って、魔術師は不機嫌そうにグラスを手に取ると一気に呷った。
仲間の中でも唯一未成年なので、中身は果実水だけれど。
「……あまり虐めてくれるな」
「いや。反応が面白くてつい、な」
静かな剣士の言葉に、セファは小さく口角を上げた。
「それで、これからどうするんですか?」
未だ半眼な魔術師は、私とセファの方を見て言った。
どきり、と心臓が小さく跳ねる。
私は聞こうと思っても聞けていないことだったから。
「いい加減、王都に戻るかな」
目的はひとまず片付いたし、とセファはあっさり続けた。
それでは、ここでお別れですね、と魔術師。
「……例の魔族は?」
「そりゃ王国騎士さまの仕事だろ? 仕事奪っちまう訳にはいかねえって」
セファはそう苦笑して肩を竦めた。
その答えに、きっと私は安心するべきなのだと思う。
けれど、今まで一緒に過ごした長すぎる時間が、本当にそれでいいのかと問い掛けてくる。
別れの時間は、明日の船出前まで。
魔術師と剣士はここから北の鉱山都市に向かうのだと聞いた。
魔族の情報があった遺跡は、その通り道にある。
彼らが巻き込まれないとも限らないし、なにより不器用で優しい彼が、誰かが傷つく可能性があるのを放っておけるとは思えない。
たとえ代わりに傷つくのが、彼自身だとしても。
「どうした?」
不意に席を立った私を、セファが振り仰ぐ。
彼と目を合わせないまま机の上を見回して、なるべくいつも通りの調子で言葉を紡いだ。
「飲み物、お替り頼んでくるね。同じものでいいかな?」
「ありがとな」
「うん」
小さく笑みを浮かべて、私は逃げるようにテーブルを離れた。
小走りにカウンターへ向かう、空色のスカートの彼女を目で追う。
漸く捉まえたらしい店員と話す後ろ姿は、あっという間に人垣の向こう側へと消えた。
それでも視線を外せずにいれば、隣の剣士が声を掛けてくる。
「……言わないのか」
「そりゃ、なにを?」
「……。追うのだろう」
「いや、敵討ちなんて柄じゃねえよ」
「……そうか」
ひとつ前の街で、魔族の目撃情報を聞いた。
その特徴が、あまりにも故郷を滅ぼした魔族と一致していて、思わず冷静さを失った自覚はある。
正直、もう昔のことだと思っていた。過去にできたと、考えていた。
けれどそれは、そう思いたかっただけなのだと、改めて思い知らされたかもしれない。
あの日の景色が、記憶から消えたことはない。
それでも、忘れかけていた音や匂いも、どうしようのない感情も、あの話を聞いて一瞬で蘇った。
けれど、それは全て過ぎてしまった話だ。
「上手く行かないもんだな」
はっきり言って、リズは荒事に不向きだ。
王都で薬師をやっていただけあって、応急処置は的確だし魔物や人体の弱点もある程度把握している。
けれど、とっさの判断力はゼロに等しい。
一瞬の躊躇が命取りになる外の世界で、それは致命的だった。
勢いで連れて来てしまったが、限界が近いのは分かっている。
彼女ひとりで王都に帰して自分は旅を続けることも、考えなかった訳ではない。
船で海峡を渡ってしまえば、王都までは乗合馬車もある。
彼女だって世間知らずではないのだから、無茶な行動はしないだろう。
愛想や人当たりも悪くないから、大抵の状況でも上手く切り抜けるとは思う。
けれど、頭では理解していても、それは手放す理由にはならないのだと。
この旅に出るまで考えもしなかった。
視界から消えた大切なものは、一瞬で永遠に失われる。
それは経験から来る強迫観念のようなものだと、自覚はあった。
現実は違うのだと分かっていても、けれど彼女だけは失えない。
いっそのこと閉じ込めてしまいたいが、意外と行動力のある彼女が大人しくしてくれるはずもなく。
――それならば、守ればいい。
例えなにを犠牲にしても、彼女を傷つけることはしない。
その一点に於いて迷うことは、この先もないだろう。
「まあ、ボク達は数日この街に滞在します。決めるなら早くしてください」
「あんたらに迷惑は掛けねえよ」
「そう願いますけどね」
未だ不機嫌な魔術師は、そう言って頬を膨らませると机の空席で視線を止めた。
「ところで、彼女はどうしたんでしょうか」
リズが席を立ってから、それなりに時間は経過したはずだが未だに戻らない。
店内に視線を巡らせれば、少し先のテーブルで、空色のスカートの彼女が体格の良い奴等に囲まれているのが見えた。
思わず溜息を零してしまう。
「なにやってるんだか」
席を立って、会話の聞こえる距離まで近づく。
「足、細っこいなぁ。ちゃんと食べてるのか?」
「嬢ちゃんは新しい配膳係? いつもの子は美人だけど言葉キツいんだよな」
「肉喰え、肉」
「あの、私……」
どう見ても酔っ払いに絡まれている。
これだけ近付いても、彼女がこちらに気づく様子はない。
というか、自分達が居たのは、それ程離れた場所じゃない。
少し大きめの声で呼んでくれれば、いつでも助けに来たのだけれど。
彼女にとって自分は頼るべき存在ではないのだと言外に言われているようで、つい眉を顰める。
「嬢ちゃん、次の酒持ってこーい!」
「だから、ええと、私、違くて」
リズは飲み物の乗った盆を持って、あたふたしている。
テーブル近くで怒りの表情を浮かべながら大きく息を吸い込んだこの店の本当の配膳係から盆を受け取って、グラスと男を交互に指し示す。
頷いた彼女からグラスだけ受け取って盆を返すと、男の机上の空いた場所に置いた。
「おっさんの酒はこっちだろ」
「おう、ありがとうな!」
普通に、ただの気の良いおっさんだった。
若干酒で箍が外れかけているだけの。
「で、それオレの連れなんで回収してくわ。店ん中で迷子になっててね」
「勘違いして悪かったな。普段より可愛い子だったもんで、ついな」
「あんま、後ろのお姉さん怒らせない方が良いんじゃないか」
「……、げ」
仁王立ちした配膳係を見て、男は軽く身を引いた。ご愁傷様、としか思えない。
ぼーっとしているリズの腕を引いて、輪を抜ける。
「あの」
「いや、楽しいお喋りの邪魔して悪かったな」
「違うんだけどな」
そう言ってリズは、首を傾ぐ。
愛想や人当たりも悪くないと先程考えた気もするが、撤回だ。
慣れない場所では危なっかしくて目が離せたものじゃない。
「こんな狭い場所で、本当に迷子にでもなってたか?」
「なりません!」
ええと、これは、あの人達にはお店の人に間違われて。あ、これは注文しに行ったらそのまま手渡されたんだけど、さっきセファ頼んでたよね。時系列は掴めないが、状況はなんとなく分かった。
「……あんま心配させるなよ」
色々思うところはあるが、ぽんと彼女の頭に手を置いた。
小さく頷いた彼女を本当に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られながら、息を吐きだした。
酒場からの帰り道、雲から覗いた半月が白い煉瓦道を照らす。
少し前を歩く魔術師と剣士の後を、セファと共にゆっくりとした足取りで辿る。
こうして仲間達と過ごすのも、この夜が終わるまで。
明日の朝、私とセファは船に乗って対岸に渡る。
今度は用事もないので、王都までは真っ直ぐ帰れるだろう。
その先にあるのは、今までと変わらない、ささやかな幸せを集めた日常だ。
――本当に、それでいいのだろうか。
「セファ」
「ん? どうした」
私は足を止めた。
一歩先のセファは、振り返って不思議そうに私を見る。
心を落ち着けるように長く息を吸い込んで、私は意を決して口を開く。
「あのね、私一人で帰ろうと思うの。王都まで」
返事はなかった。
「大丈夫、来た道を戻るだけだもの。向こう岸に渡れば、乗り合いの馬車も出てるはずだし。これでも一人暮らしは長いから、人付き合いは苦手じゃないよ。セファが心配するような無茶はしない。それに……」
言葉を続ける私に、セファは無表情のままだ。
続きを躊躇いかけて、けれどそれでは立ち止まった意味がなくなってしまう。
「後悔する道を選んで欲しくない」
「…………」
「私は、大丈夫だから」
俯きかけた視線に、上から溜息が降ってくる。
その距離は、思ったよりも近い。
「セファ?」
名を呼んで顔を上げれば、表情を見る暇もなく腕を引かれた。
「ちょっと、待って。今、私は話がしたくて」
知らない狭い路地に引き込まれて、けれど相手が彼なので恐怖は感じない。
痛いくらいに掴まれた腕が離されることのないまま、私は壁に背を押し当てられた。
「どうしたの――」
「なあ、それ……わざと?」
真っ直ぐに突き刺さる、吸い込まれそうな夕闇色の瞳。
彼の真剣な表情に、冗談でも笑い返せなかった。
逃げ道は、既にその手で塞がれている。
例え自由があったとしても、私は彼を振り切る事は選べないだろうけれど。
ゆっくりと近づいてくる唇に、私は静かに目を閉じた。
曖昧な距離感の表現を思い出すための練習作です。
これで両片想いとは、どうなんだろうという気もしますが。
設定を作り込み過ぎた感はあるので、序盤の無駄に長い説明文は書き直すかもしれません。