覚醒
「レイ殿、レイ殿!!」
暗闇の中で棒立ちの状態になり、虚ろな目をするシグルド。呼びかけても、肩を揺さぶっても反応はない。
その症状にレティは見覚えがあった。
「これは、幻術……」
王国での訓練の中に、情報を秘匿するために対幻術の訓練がある。もし、身元がバレて敵に確保された際に情報を流さないようにするためのものだ。その時に幻術に嵌まった名前も知らない同胞と同じ症状がシグルドに出ている。
思い切り、レティがシグルドの頬を叩く。スパァン!!と乾いた音が下水道に響き、紅い紅葉がシグルドの頬にできる。
「ダメか」
力の限り叩いたにも関わらずシグルドの症状は変わらない。それを目にしたレティが舌打ちを零した。
幻術を解く方法として最も手っ取り早く簡単なのは相手のことを思い切りぶん殴ることだ。魔術に長けていなくとも解くことができる方法だが、それができないとなると幻術をかけられた本人が自力で出てくるか、幻術をかけた魔術師以上の使い手がそれを解くかだ。
今度はシグルドの胸に手を置き、目を閉じる――が、しばらくして溜息をつく。
外側から魔力を送り込み、幻術を解こうとするものの上手くいかない。どうやら自分よりも相手の力量の方が上らしい。
「申し訳ございません。私では貴方を開放することはできません。これは残しておくので、できれば後から来てください」
そう言ってレティーはシグルドの背中に魔剣を背負わせようとした時だった。変化を感じ取ったレティーは後ろを振り返り、目を見開いた。
「殿下!! 殿下!?」
そこは綺麗な花園だった。
噴水の近くには石灰で出来た白く輝くガーデンフロアがある。そして、その近くには侍女服に身を包んだ茶髪の女性がいた。その女性は不安そうな顔をして辺りを見渡している。
「――――アネット!!」
「殿下!? 良かった。そんな所におられたのですね」
その呼び声に答えたのはミーシャだ。茂みから顔を覗かせ、服を汚しながら女性の元へと走り、女性の腰にしがみつく。
「アネット、みーつけたっ」
「はいはい、見つかりました。ホントは見つけたのは私ですが……それよりも殿下、お召し物が汚れております。こんな姿をマリア様が目にしたら、また雷を落とされますよ」
「うっ――――で、でもでもマリアは今日別の仕事が入ってるって言ってたでしょ? だから、大丈夫!!」
無邪気な笑顔で母親譲りの銀髪の髪を靡かせた今日で十二歳になるミーシャに苦笑いを向ける。マリア、と少女にとって天敵にも等しい存在である女性が耳に入れば、顔を青ざめて体を硬直させる。――が、それも一瞬のこと。見られなければ問題なしという子供らしい思考で胸を張り、不安そうな表情から一変して笑顔を浮かべた。
「いや、全く大丈夫じゃないですよ。王宮内は色々と噂が立ち易いんですから」
「なら、幻術でどうにかするわ!! あ、皆には内緒よ?」
「いつの間にそんなことができるように……」
「マジュリスの部屋で勉強したの」
「…………なるほど、だから内緒なのですね」
納得がいったと眉間を抑えるアネット。この場合の勉強というのは、椅子に座り、黒板で理論を教えて貰う、というような勉強ではない。部屋の主がいない間に忍び込み、そこにある魔術書を許しなく勝手に見るという意味だ。
魔術によって何重にも張り巡らされた罠を解除して、マジュリスが自身の宝を読み漁られることに悲鳴を上げていることなど気にしていないのだろう。他にも動物の複製があった、綺麗な宝石があったと得意げにミーシャは語る。
「後でご報告させて頂きます」
「えぇ!? 何でそんなこと言うの!? アネットは私の味方だと思ったのに、この薄情者!!」
「ならば、今度からは許可を貰ってから魔術師様の部屋に入ってください。それならば、誰も怒りはしません。陛下も頭を悩ませておいででしたよ?」
「むぅ――――そこでお父様の名前を出すのはずるいと思う」
ぷくり、と小さな頬を膨らませたミーシャはアネットを睨み付ける。しかし、敵意を滲ませていない少女の睨みなどただ、駄々を捏ねているようなものでしかない。やっていることは冷や汗を掻くことが多いものの、可愛らしい姿を見れたことに笑みを浮かべてアネットはミーシャの手を引く。
「ほら、殿下。それよりも、今日も料理人達が腕によりをかけてお菓子を用意致しましたよ。服を変え、手を洗ってお召し上がり下さい」
「えぇー、このままでいい」
「いけません。もう、お顔まで汚しになって……」
「むぅ……」
我儘を許さず、しかし、優しく丁寧に接していく姿は姉と言っても良いかもしれない。ミーシャも不服ながらも抵抗せずにいたのは、このやり取りがどこか気に入っていたからだろう。王族としてではなく、ミーシャ個人を見て、親身になってくれる。そんな存在は数少ない。
そのことに懐かしむミーシャ、しかし、そんな幻術に捕らわれることなく自分の魔力を意図的に乱す。
感情がここにいたいと悲鳴を上げる。思考がここにいるべきだと誘惑してくる。なるほど、五感全てを支配され、自身の幸福な夢を見せるこの幻術は強力だ。何時、幻術をかけられたのか分からないため、これが幻術だと気付くことは難しいだろう。
庭でのお茶会。確かに、ミーシャは経験したことはある。場所も同じで再現度は高かった。唯一違ったのは、お茶会の時にアネットが傍にいたことは一度もないということだ。
「(――約束、してたんだけどな)」
優しく怒られたこともある。服や顔に付いた泥を払ってくれたこともある。しかし、彼女はいつも忙しそうに動いており、ゆっくりと一緒に過ごしたことはない。だから、今度は一緒にお茶会をしようと約束していたのだが、その約束が守られることはなくなってしまった。
景色が変わる。
美しい花園から暗い地下通路へと移り変わる。アネットの姿も、テーブルの上に置かれていた甘い菓子もなくなり、石の壁と下水、そして自分に幻術をかけたであろう怪物が視界に入る。そこで、ミーシャは自分がその怪物に抱えられているということに気付いた。
「薄汚い蜥蜴が、離れろ!!」
苛立ち、嫌悪、不快感を隠すことなく表情に出し、火球を怪物の顔に叩き付ける。
怪物が怯んだ隙にミーシャが腕の中から抜け出し、距離を取った。
「————」
顔面に炎を叩き付けられたにも関わらず、怪物は倒れることはなかった。炎が顔を包んでも手で触れる余裕すらある。
「——蜥蜴風情が」
「■■?■■」
怪物が首を傾げる。まるで、何故戻ってきたのか疑問に思っているかのように。品定めをされている気分にミーシャは陥り、気味悪さを覚える。
見た目はスラムにいた騎士と似ているが、怪物にこちらの方が近づいている。これがシグルドの言っていた下水道の怪物だろう。何をすればこんな醜い形になるのか知ったことではないが、自分の身体を弄って何がしたいのだろうか。
そこまで力が欲しいのか、それとも命令されてやられただけなのか。どちらにしろ帝国は頭の可笑しい連中しかいないと言うことだろう。
何故、理性のないはずの怪物が攫おうとしていたのかは疑問だが、目覚めてしまった以上どうでも良いこと。ここでこの怪物を倒し、戻ればいいだけ。そう考え、ミーシャが魔力を高めていく。
戦闘態勢に入ったミーシャを見て、嘲笑うかのように怪物は牙を見せる。
「怪物が、所詮捨てられた人形風情が。何の目的があって襲撃してきたかは知らんが、私は虫の居所が悪いんだ。後悔するなよ」
「■■捕■■」
人一人を丸呑みできる程大きく顎を開き、咆哮が響く。空気が震え、鼓膜が痛む。
「かかって来いよ!! 塵溜めのクソ野郎がっ。落ちた奴が上にいる人間に噛み付いてくるんじゃねえよ!!」
ギリッと歯を食いしばったのはどちらか。炎が、石が、爪が、風が――次の瞬間、お互いの命を散らすために放たれた。