本当の顔
負けてはならなかった。常勝でなくてはならなかった。
これは泥だ。白く輝く鱗に泥を被せてしまった。この泥を拭うには何をすればいいのだろうか。いいや、それは分かっている。
薄汚い泥を消し去るにはそれ以上の美しい、眩しいものが必要だ。空が雲一つなく澄み渡っている時に人間は足元の泥を気にしないように。強い光で塗り潰さなければならない。
帝国の機密情報部が手にし、解読した王国の暗号文書。それによって判明した帝国に潜む間者の居場所。
情報封鎖、情報操作を行うことで暗号が見つかったことも解読されたことも知らない間者達を見つけて捕縛していく任務――それが自分に皇帝が与えられた使命だ。しかし、それだけでは足りない。部隊も失い、肉体も失い、敗北を重ね、惨めな姿になってしまったのだ。与えられた使命を果たすだけでは足りない。
しかし、幸いなことに奴らは今帝国が探し求めている者を匿っていた。あろうことか間者の居場所まで探り当てることに成功した。
逃がしはしない。男と自分の頭を潰した女は殺し、残りは全て捕まえる。
だからこそ、強い自分が必要だ。強い肉体が必要だ。
奴らは魔術も剣術も使ってくる。数も相手の方が有利だ。今の惨めな肉体では勝利することは難しい。
故に男は探す。
街が手も簡単には潰されない肉体を――。探して探して探して探して探して、街中の人間全てを観察する。
そして、見つけた。
そこは地上ではなかった。
それは人間ではなかった。
しかし、魔物とも言えない成り損ないだった。
「うん。君に決めたよ」
その日、二つの魂が混ざり合い、成り損ないは魔物へと生まれ変わった。
城塞都市の市場――もしもの時は、遊牧国家からの侵略を防ぐために重要な拠点となる街だけあって売っている物は武器類の物が多い。顧客も騎士や雇われている傭兵、そして、取引を行うために訪れた商人と偏った部分が多かった。
「前も思ったが……城塞都市とあって戦士達が多いな」
「前? 前もこの街に来たことがあるのかい?」
「いや、アンタの店に行く前にルーン石を買いにな」
その市場を歩くのはシグルドとカリアだ。朝食を終えて直ぐに必要なものを集めるために行動する。のだが、ミーシャを外に出す訳にもいかず、ガンドライドはミーシャの傍を離れるつもりもないので、必然的に動くのは二人になってしまったのだが……。
「それよりも助かったよ。一緒に来てくれて」
「別にいいんだが――できれば離れてくれないかな?」
「何だよ。うら若き女性を守ろうとは思わないのかい?」
地下部屋での王国の間者のレティーではなく親しみを感じさせる酒場の店主のカリアとなった女性がシグルドへと話しかける。変わったのは口調だけではない。表情も冷たさを覚えさせた無表情ではなく、太陽のような明るさが滲み出る笑顔を浮かべている。どうやらこれが、酒場の店主としての顔らしい。
切り替えの良さに内心驚きながらもこれから揃えるものを思い出し、自分の必要性を問うとカリアは唇を尖らせる。
「むしろ、俺を守ってくれ。周りを見てみろ。目線だけで殺しそうな奴もいるぞ」
溜息をつき、周りへと視線を向ける。
別についていくこと自体に問題はないのだ。実際に手綱を握って指定の位置まで操るのは自分なのだ。最も使いやすいのを選べるという意味では一緒に行った方が良い。では、何が問題かというと、視線である。具体的に言うと、カリアの横を歩くことで突き刺さる嫉妬の視線だ。
「安心しろって、アンタなら刺される前に反撃できる」
「いや、俺が心配しているのは刺されそうになることなんだが」
居心地悪そうに頭を掻く。
嫉妬の視線を送ってくる者達。彼らは酒場の常連客達だ。巡回中である騎士も目を丸くしている辺り、この女性が男性と共に歩くことは珍しいことなのだろう。
せめて顔を隠すべきだったかと今更ながらに後悔したシグルドが隣に歩く女性に視線を移す。
頭一つ分小さい身長で赤いバンダナが目立つ彼女は最初にあった頃とは違い、人形ではない。本物の生身の人間だ。
体調を崩したことが原因で、人形を使って酒場を切り盛りしていたらしいが、ミーシャが生きていると分かった日から精神の方は若干回復したようだ。しかし、寝不足の方は直っていない。今も化粧を濃くして隈を隠している状態だ。
「おや? どうしたんだ? あぁ、アタシがそんなに綺麗だったかい。すまないすまない。だけど、腕を組むまで関係は発展してないよ」
「確かにアンタは綺麗だが、今ここで腕を組まれてもあらぬ誤解が生まれそうだから是非やらないでくれ」
「そう言われるとやりたくなっちまうね」
ニヤニヤとした表情でシグルドの腕に自分の腕を絡ませてくるカリア。周囲からチッ――と舌打ちをする音と歯軋りをする音が耳に入った。
直ぐに振り払うが、その後に更に大きな舌打ちと歯軋り音。そして、殺気まで感じ取ってしまう。
殺気をバシバシと背中に感じつつもそれに気付かないふりをして通りを歩く。こんな時は無視が一番いい。彼らにもこんな場所で殴り掛かってくるような者はいないはずだ。逆に言えば、人通りの少ない場所に行けばイチャモンを付けられる可能性はあるが……。
作戦の日まで地下部屋に籠っておこうと密かに決意する。
「…………はぁ」
「何辛気臭い顔をしてるのさ。このアタシが、横にいるんだぜ? もうちょっと幸せそうな顔をしな」
「アンタってそんな人間だったか?」
小さく辛気臭そうなシグルドとは裏腹にカリアの方は生き生きとした表情を見せる。その表情を見ていると本当にあの地下部屋にいた人物と同一人物なのかと疑いたくなる程だ。
酒場を切り盛りするカリア。間者として裏で暗躍するレティー。どちらも自分。ただ、状況によって使い分けていると聞いたが、本当の彼女はどっちなのだろうかと疑問に思う。
視線に気付いたカリアが首を傾げる。
「ちょっと、本当にどうしたのさ?」
「いや、アンタの本当はどっちなのかなと思ってな」
「――――」
ピクリ――と僅かにだけ眉が動いた。未だに嫉妬の視線は背中に当たっており、周りの物達はその変化に気付けている者はいない。硬直という時間すらなく、二人で仲良く市場を歩く演技をしながらレティーはシグルドへと問いかける。
「私のことなどどうでもいいじゃないか?」
「……すまないな。どうにも気になってしまった」
顔は笑顔だが、瞳が笑っていなかった。幽鬼を思わせる冷たい瞳を見たら、恐らく嫉妬を向けてくる連中も近づかなくなるだろう。
肩を竦めて反省の色を見せないシグルドを横目に、カリアに戻ったレティーが口を開く。
「全く……気を付けてくれよ。そんなこと聞くもんじゃない」
「あぁ、悪かったよ。軽率だった。でも、二重人格みたいに見えたから……つい、な」
「こっちは仕事として徹底してるんだから、合わせて欲しいんだけどねぇ」
やれやれ、と傍から見れば、我儘な子供の面倒を見るようなお姉さんを思わせる態度を取るカリア。もうそこにはレティーの影も形もない。
しばらくの間、他愛のない話が続き、必要な物を購入していく。
消費したルーン石に霊薬、短剣、鎧を磨くための油。衣服を縫うための針と糸、そして食料。武器から度に必要な道具――それだけではなく、酒場を切り盛りするにあたって必要な食糧、酒類の購入も行っていく。
勿論これは全てシグルド一人で持つ羽目になった。多すぎて視界も塞がり、足元ぐらいしか見えやしない。もう最後の辺りなんて両手が塞がっているのに箱ごと投げ渡されるものだから足で受け止めることになってしまった。
「ぐおぉ……イッテェ。アンタって見た目の割に力あるんだな」
「痛いねぇ。霜の巨人に叩き落とされてもケロッとしてるのに何を言ってるんだか」
「打ち所が悪ければ、力の強弱関係なく痛いんだよ。タンスに小指をぶつける様なもんだ」
「なるほど、分かりやすい例えだね。確かにアレは痛い」
うんうんと大きく頷くカリア。わざとらしい演技が入っており、その様子は共感と言うよりも面白がっているように見えた。
「…………」
喉を鳴らして面白がるカリア。その横顔を見て、先程の疑問が再び頭の中に蘇る。
この面白がっている顔も全て演技なのか。それとも心の底からの感情なのか。どちらかなどシグルドには判別が付けられない。
それは見事だ。間者として紛れ込むには持って来いの才能だ。しかし、同時に心配でもある。
「……大丈夫なのか?」
自然と声が口から出ていた。
「何がだい?」
「カリアになることにだ」
ピタリ――とカリアの表情が固まる。表情だけだ。体はいつものように動いている。顔が僅かにシグルドの方に向き、鋭い目つきで射抜かれるが、知ったことではなかった。
「自分を偽ることは、楽じゃないだろ。それに精神の方は持ち直しても体の方はまだ回復してないはずだ」
初めて彼女を目にした時は、気丈に振舞っていたものの精神も肉体もかなり疲労していた。これまで、碌に休むこともできなかったのは明白。ただでさえ敵基地に忍び込み、自身を偽っている身なのだ。余計に堪えたはずだ。
「ここにはあまり人通りもない。ミーシャもいないしな。俺の前ぐらいは本来の顔に戻しても良いんじゃないか?」
己を心配してくれる主も敵も警戒する必要がなければ演技などしなくても良い。気丈に振舞わなくて良い。
シグルドがレティーを心配して優しい声を掛ける。だが――
「必要ありませんよ」
鉄面皮に戻ったレティーに一言で切り捨てられた。
「貴方、感情で行動するタイプですね。私のことを心配しているのならば結構。私の分は、殿下に回して頂きたい」
溜息をつき、そんなことは不要だと吐き捨てる。
心配などしている暇があるのならば、それはするべき相手を間違えている。何より優先するべきは王族であるミーシャ一人。他は自身で生き残るべきなのだ。足を引っ張るようならば切り捨てて行って欲しいと言うのがレティーの本音だ。そして、それと気に食わなかったことがもう一つ。
「それに、貴方は偽らなくて良いとおっしゃいましたが、どちらが私なのか知る由もないでしょう」
そう――まるで、こちらが崩れそうだと、支えてやらなければならないと思われていることが、長年密かに戦い続けていたレティーのプライドに触れたのだ。
表情は動かなくともその瞳は鋭さを増していた。
「確かにな。俺には判断がつかない。アンタの裏表すらも掴めやしない。だから、心配なんだよ」
「心配は無用――と言いましたよ? それでも心配であると言うのならば、打ち明けましょう」
だが、そんな視線すらも気にしないのがシグルドである。意にも介さずに、心配そうに声を掛けてくるシグルドを見てレティーは、これはこちらが言うまで聞いてくるある意味めんどくさい人間だとシグルドを評価する。
このままでは実力すら疑われかねない。そうなれば、危険な役回りがミーシャへと回ることを危惧したレティーは打ち明けた方が良いと判断する。
くるり、と通りを歩いていたレティーが右足を軸に軽く回る。ふわりとスカートが浮き、両手を腰に当ててシグルドに向き合う。
「これもアタシ」
表情が切り替わる。活発で明るい女性へから鉄の仮面を被った女性へと――。
「これも私です」
衣服を正し、シグルドに向き合ったレティーは語る。
「レイ殿。演技とは難しいものです。理想を頭の中で描いても演じ切るのは難しい。何故なら顔は、表情は素直に心の内を現してしまうからです」
感情を表情に表さずに隠せる者は確かにいる。しかし、完全に隠しきることができる者はいない。そんなことができるのは、感情がない人間だけだ。
王国に感情を殺す訓練はある。レティーもその訓練は受けだ。しかし、感情が自分の思うように操作できないことは人間である以上存在する。
「こんなこと、殿下に言えませんが――アタシはこの街の住人を好きになったんだよ」
本音を、心の奥底にあった帝国を憎む感情とは別のものを吐き出す。
「近所のよく菓子をせびりに来る子供。毎日、愚痴を言いに来るめんどくさい親父さん。それを叱りに来るおかみさん。みんな大好きさ。だから、アタシは無理して笑ってる訳じゃない。これは、本当の笑顔だよ」
今ここにある笑顔は作り物ではなく自身にある感情から出るもの。だから大丈夫だと、そう続ける。
「憎い奴は確かにいた。首都が落ちて、涙も流した。それでも――この街の人達が、王国の民を直接殺した訳じゃない」
あの時――何故、コップの水面を除いた時に恐怖が見えた?
死ぬのが怖かった?違う。自身の身などいくらでも危険に晒すことができる。そのために、産まれ、訓練したのだ。
では、自分はあの時何に恐怖したのか。簡単だ。レティーが恐怖を抱いていないのならば、カリアが好きになってしまった街の住人が危険に晒される可能性に恐怖を抱いたのだ。
溜息をつき、必要のないことまで語ったと肩を竦める。
「まぁつまり、何が言いたいのかと言うと、私もアタシも本音を基準にしてるってことです。無理して仮面を被っている訳ではありません」
「本音が基準――ね」
「えぇ、難しいんですよ? 演技は……虚偽で固められた演技何て簡単に見破られてしまいますから」
演技に必要なのは少しの本音と事実。何もまるっきり別人に成り代わらなくて良いのだ。間者になって身を潜めることなんて、別の自分になれる機会があるとしかレティーは考えていない。
中身のない演技に人は惹きつけられない。どこにでもいるような人間ではその他大勢に埋もれるだけだ。
目立ち、情報入手に便利で且つ誰にも疑われない。それが彼女の情報収集。
「最も、それで感情移入何てしてしまったので訓練不足なのでしょうけど……ですが、勘違いしないで下さい。確かに感情移入はしてしまいましたが、忠義に勝ることはありません」
完璧だと思っていた自分の失敗をレティーは笑った。
こうなるまで気付かずに振舞っていたことを後悔しているレティー。いつも顔を見せてくれる顔馴染みが傷つくのは嫌だと地団太を踏むカリア。
しかし、それでも優先するべきものを見据えていられるのは芯にあるのは国への、王族への忠義だ。
「まぁ、こんな表情の乏しい女にそんなことを言われても信じないでしょうが」
「そんなことはないぞ」
淡々と、自分の中にある事実を語るレティー。だが、相手が納得しないだろうと諦めに近い言葉をシグルドは否定した。
「俺はこの街を愛していながらも、忠義を選んだ貴方は自分を誇りに思って良いと思う。そして、忠義を選びながらも住民を巻き込まないようにしていたことに敬意を抱く」
「――なっ」
「気付かないとでも思ったか? しっかりとこの目で見ていたよ」
わざと視界を防ぐように荷物を放り込み、視界が防がれていると同時に男に耳打ちするのをシグルドは確認していた。一度や二度ではない。買い物先全てでだ。
「商人は国に縛られないのが多いと聞く。独自の情報網で警告でも出していたのか?」
「――――はぁ、貴方って抜けている感覚がありましたが、そうでもないんですね」
これならば堂々とやれば良かったかと小声で愚痴る声が耳に届く。それに苦笑いしながらもシグルドは言葉を紡いだ。
「どちらも本音なんだろ? ならそれに従って突き進めばいい。俺はそれを裏切りだとは思わない。親しい者の安否を気にするのは当然のことだ」
「正確には少しだけが本音です」
褒められ慣れていないのかさしもの鉄面皮も崩れ、居心地が悪そうにそわそわとするレティー。人間味のある仕草をするレティーにシグルドはくすりと笑みを浮かべた。
「それでも本音は本音だ。アンタが街を愛していることは行動が示していたし、裏切りを考えている奴がこんなことを話はしないだろう。だから、俺はアンタに敬意を抱く。裏切りだなんて口が裂けても言いやしないさ」
「随分と、都合が良いですね。王国の者から見れば後ろ指を指されるでしょう」
「すまないな。でも俺はどうやら感情で動くタイプの人間だから、な?」
「――ふっ。全く」
呆れたと言うようにやれやれと手を挙げて笑みを浮かべる。その時の表情は、とても気楽そうで自然な笑みに見えた。
二人は止まった脚を動かし出す。少し時間を無駄に過ごしてしまったのだ。まだまだ、購入する物は沢山ある。
「そう言えば、何か食べて帰るか?」
「ナンパですか? やめてください。お金の無駄です。貴方は無駄遣いをよくすると聞きましたが、そういう所は今後教育していく必要がありますね」
「おぉっと、地雷を踏んじまった。というか、いつの間にか俺の評価が酷くなってないか?」
残り一週間で教育プランを――などと小さな声で呟くレティーにクスリと笑い、カリアに戻るのを忘れていると告げる。
すぐさま鉄面皮は消え去り、現れるのは明るい雰囲気を醸し出す女性。陽気なカリアの隣に並ぶシグルドは今度こそ、その横顔を見て心配することはなかった。