街に潜む影
寝ていない者など軍事関係者でも、見張りを除いて少数であるこの時間帯――薄暗い部屋の中、街全体が描かれた地図を広げて一人の男が頭を悩ませる。
「…………」
男が睨み付けている街の地図には四カ所ほど×印が付いている。男が地図の横にある羽根ペンを取ると、地図にもう一つ×印を書き込んだ。
「はぁ……」
男の名はイリウス・ロウディ。彼の肩書きは城塞都市ディキルの都市長補佐だ。
白い毛が混じった髪が揺れ、溜息が一つ零れる。四つから五つへと増えた×印。この×印は現在城塞都市ディキルで起きた殺人事件の場所を示している。
今月に入って五件目――全て人気がない場所で殺人が行なわれている。金品の類は奪われておらず、殺害された人物達にも生前の共通点はない。複数人による私怨のための殺害かと考えられたが、死体の握り潰されたような痕は人間による仕業とは誰もが思えなかった。
肉だけでなく骨も砕かれた死体の有様を見てまさかこの街に魔物が入り込んだのではと誰もが考えた。しかし、魔除けは機能しており、ここ数年夜の間にも魔物が城壁に近づいた様子はないと報告書がある。
誰かが虚偽を報告していないか、密かに魔術師を雇い入れて確かめもした、結果は白――誰かが虚偽を報告している訳でもなかった。
次に考えたのは何者かがこの街に魔物を運び入れたかだ。しかし、商人達の隊商を中心に検問記録を調べて回ったが手がかりはない。
そこで気がついたのが、下水道の存在だ。近くの川辺へと繋がっている街の下水道ならば、誰に見られることもなく街の中へと潜入できる。
そう考えて傭兵に依頼を出そうとしたが、これに待ったを掛けたのが都市長であるコルドール。何を考えたのか、彼は討伐に騎士達を使えと命令してきたのだ。
確かに部外者に街の治安を守って貰うというのは騎士団の顔に泥を塗る行為かも知れないが、相手が怪物であれば、対人間の戦い方しか学んできていない騎士達を送り出すことはできない。
だが、そんな反論など通じず、コルドールは騎士五名を下水道へ送り出していった。それからしばらくして音沙汰がなくなり、もう一度騎士達を送り出したのだが、彼らも帰ってくる様子はない。
それに耐えきれなくなったイリウスが叱咤される覚悟で依頼を張り出して傭兵を向かわせたものの結果は同じであり、ならば今度は出口を防いでしまえと鉄格子で防ぐが簡単に突破されている
「ふぅ……」
溜息をつきながら地図の隣に置かれた羊皮紙を盗み見る。そこに書かれてあったのはこの街に住む貴族からの命令だ。
――早く賊を捕まえろ。捕まえられぬのならばサッサと辞任せよ。警備を増やせ……etc
自分達の都合しか考えていないものばかりで見る気も失せる。
苛立ちを覚え、水の入ったコップを掴み取ると渇いた喉に水を一気に流し込む。上がった体温を幾分か下げられるとイリウスは再び考え込む。
「大丈夫ですか?」
「――ん? あぁ、君か」
地図と睨めっこをして思考に陥ろうとしたイリウスに声を掛けたのは書物を抱えた青年だ。自分の作業に付き合わせていた挙げ句今まで存在を忘れていたことに申し訳なさを感じながらもそれを表情に出さずに、目を合わせる。
「どうですか? 何か進展は?」
「残念ながらない。 送り出した調査隊は帰ってきていないからな」
最初の騎士達が調査に向かってからもう十日立っている。これだけ待っても帰ってこないのはおかしい。街の下水道は広いがそれでも定期的に帰ってきても良いはずだ。それがないというのは、中にいた魔物にやられた……もしくは動けない状態でいるかだ。
下水道に何かがいる……それも複数人の騎士達をものともしない存在が……。
「はぁ……」
「イリウス様、少し休んでください。 最近休んでいないのでは?」
青年がイリウスを心配する声を上げる。
青年の言葉通り、イリウスの顔には疲れが見て取れ、薄暗い部屋にいるせいか、年齢よりも老けて見えてしまう。
しかし、イリウスは首を横に振った。
「いいや、今休むわけにはいかない。 事件は続いているし、地下を調査しに行った騎士達に何かがあったと思うとな」
青年に向けて微笑むとまた、テーブルの上の地図と書類に向き直る。市民にはまだ噂程度で恐怖は広がっていないが、これが続けばどうなるか分からない。それにこの都市にはもうすぐ皇帝陛下が訪れる予定になっているのだ。都市に問題がないとアピールするためにはこの事件の解決が望まれている。
「また、誰かを送るしかないのか……」
吐き出された言葉に青年は何も言えない。
都市長や貴族から再三下水道の調査を命じられている。しかし、イリウスは無事に帰ってこられる保証もない場所に送り出すことをしたくはない。
しかし、上の命令には逆らえない。
板挟みになった状態でイリウスは、犯人がこの夜の内に捕まることを祈りながら作業を進めた。
――ズズズズズッ
長い尻尾を地面に引き釣りながら、それは進む。
下水道を住処にしたそれは最早かつての姿とはかけ離れた自分を嫌悪していた。水面が自分の姿を映し出す度に苦しみだし、鋭い爪で顔を引き裂こうとする。
だが、いくら顔を引き裂こうとも、目玉を潰そうとも意味はない。帝国騎士に付けられた傷も自分の意志とは裏腹に癒やされる。
いつか、この苦しみから解放される日は来るのだろうか……
ありもしない望みをそれは望み続ける。