心の内側
『殿下、ご機嫌麗しゅうございます。本日もお綺麗な御髪にございますねぇ』『殿下、こちらは東の国から手に入れた首飾りにございます』『殿下、卓越した魔術の腕であらせられますなぁ』『殿下、失礼致します。この度は息子の紹介をさせて頂きたく参上いたしました』
『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』『殿下——』
過去を思い返してみると今更ながらに気付く。王宮にいた時に話しかけてきた奴らは清々しい程の笑顔だった。こちらを害そうともしていない。善意しかない表情。自分の周りにはそれしかなかった。
信じていた。それが本心から来るものだと。
甘えていた。何も考えずに、ただやりたいことだけをやる日々に。
街が業火に包まれたあの日から、状況は一変した。
笑顔を浮かべて寄って来た者達はこちらを厄介者でも見るかのようになった。
容姿を褒め称えてきた男は首を取ろうとしてきた。
魔術の腕に感銘を受けていた女はお前が厄災を呼んだと罵倒した。
膝を付き、父に忠義を誓った臣下は言葉巧みに罠に嵌めてきた。
信頼できるものが一人、また一人と減っていく。
薄っぺらいものだ——そう誰かが口にしたのを覚えている。アレは誰が言った言葉だっただろうか。付き添ってくれていた侍女?それとも騎士の一人か。まぁ、そんなことはどうでも良い。結局は親密だった三人を除いて皆逃げてしまったのだから。
命からがら敵の包囲網を突破しても、見えるのはまた別の包囲網。また、自然の猛威にも立ち向かわなくてはならなかった。
だから、本音が出たのだろう。本性が姿を現したのだろう。
その時から、決めたことがある。
————もう、誰一人として信頼することなどはない。
背中に短刀を隠し持って笑顔で近づいてくるのと同じだ。作り笑いを見抜く目がない限り、それは見破れない。そして、自分にはその目はなかった。
当たり前だ。特別な訓練何て受けたこともない。ただ表面に出ていた感情を真正面から受け取って喜んでいた小娘に過ぎないのだ。人の感情が手に取るように分かるはずがない。
だから、信頼する者はいない方が良い。言葉も約束も嘘だと見抜けないのなら、最初から誰も信頼しない方が良い。
信頼するな。利用しろ。嘘をつけ、笑顔を顔に張り付けろ。信頼していると錯覚させろ。——それが、ミーシャ・フィリム・オーディスが逃亡生活の中で学んだことだった。
一人の暗殺者が忠義を通した姿をベランダへと続く大きな扉から目にしていた人物が二人いた。
一人はこの国を統べる皇帝、ビルムベル。そして、もう一人は————。
「ふむ、例え失敗したとしても次に繋げるために他者を逃がすことを選んだか。珍妙な道具を使ったとは言え、実力以上のことを為せたのは忠義故だろう。そうは思わんか? 亡国の王女よ」
——妖精が編んだ衣服に身を包んだ王国の王女たる少女、ミーシャだ。
「忠義、ね……」
「何だ。まるでどうでも良さそうだな」
「まるで、じゃなくて本当にどうでも良いんだよ。忠義とか誓いとか下らない。そんなものしたって人間は必ず裏切るよ。アイツだって私がこんな性格になっていると知ったらどうなるか」
レティーの行動を見てもミーシャの心は微動だにしない。何故なら信じていなかったから。最初から最後まで疑っていたからだ。
「ほう。貴様はアレを見てもあの暗殺者を信じないのか」
「信じないよ。それにまだ死んでもいないし、深手を負った訳でもない。アイツは長い間この城塞都市に潜伏していた女だぞ。抜け出す道も手段も常に用意しているに決まっている」
「随分と確信しているのだな。それは信頼ではないのか」
「いいや、疑いだよ」
信頼などしているはずがない。そもそも警戒音を鳴らしたのは他ならない自分なのだ。
ここでレティーが死んでも構わないとミーシャは考えている。数少ない味方を捨て駒のように扱うのには理由がある。それは、彼女には自分を殺そうとしてもおかしくないからだ。
その理由が付き纏う限りミーシャはレティーに心を開くことはない。いや、レティーだけではない。シグルドにもガンドライドにも、ミーシャは心を開かないかもしれない。それ程彼女が受けた傷は深いのだ。
「悲しい子供だ。その小さな背丈には大きすぎるものを抱え込んでいる」
「…………」
どの口が言っている。いつもならばそう怒鳴りつけていただろう。故郷に攻め入り、自身をこんな目に合わせた元凶から憐れまれることに我慢できる訳がない。ミーシャも怒りなど抑えるつもりなどなかった。
全てを奪った男だ。当然憎い。それでも怒りを声に出さなかったのは、もう少しで目的を達せられるからだ。自分が受けた仕打ちを全て倍にして返してやる。そう思うからこそ喚き散らすことなど我慢できた。
長椅子に腰掛けるビルムベルに近寄り、隠していたナイフを手に取る。暗殺などのために作られたのではない。本来ならば果物を一口サイズにするためのもの。酒場から取って来た骨を断つには重さが足りず、肉を裂くには切れ味が悪い品物だ。
「それにしてもどうやってこの場に来た。周辺には護衛がいたはずだ。」
「私が話すとでも?」
「確かにな。まぁ予想はできる。余の周辺にいる奴らは全員が腕利きだ。幼子が力ずくで突破できるものではない。それに貴様は魔術に天賦の才があると聞いている。姿くらましの類の魔術による隠密行動か、もしくは魔術道具によるものであろう」
「…………」
「まぁ、それだけでここに侵入できた訳ではないだろうがな。例え、姿をくらましていても気配を消せる訳がない。魔術にも限界はあるからな。あの暗殺者、そのために招き入れたのだろう?」
ほんの少し、外に視線を投げかけてから、また口を開く。その態度には余裕すら見て取れた。
「あの花火。恐らく任務の失敗を知らせるものであろう。貴様は先程あの暗殺者を信じていないと言った。ということは貴様がここに来ることも誰にも話してはいないのだろう? これは貴様の独断専行。ただの子供の癇癪だ」
「子供の、癇癪だと?」
「そうだ。貴様がここにいる理由は想像できる。よく見た目をしている。その目は決まって復讐を果たそうとしている目だ。部下を見捨て、誰も信じず、感情のままに引っ掻き回す。ふむ、こう考えると癇癪よりも酷いな。言い換えよう。そう、貴様のそれは自己を満たすためだけの狂気の行動だ」
ミーシャが持っているのは人を殺すために作られたナイフではない。それでも老人を殺すことは容易にできる。それに他を圧倒させる覇気を身に纏っているビルムベルだが、今のミーシャはドロドロの怒りと憎しみに支配されており、噴火前の火山のような状態だ。
刺激するには危険な状態にも関わらず、ビルムベルは臆さない。たかが小娘なぞ恐るるに足らずと強がっている訳でもなく。いつものように部屋で寛いでいるかのようにグラスを傾け、ワインを楽しむ。
「復讐が悪だとでも言いたいのか」
「悪であろう。それを始めてしまっては戦争は永遠に続く」
「それならば、戦争を始めるのはどうなるっ」
「それは仕方のないことだ」
「————ッ。戦争を始めるのは仕方がないで済ませ、復讐は悪と言うのか」
「その通りだ。何故ならば、戦争は価値を生み出すが、復讐は何も生み出さない。貴様の行動を見てみろ。一体何の価値があった? 何か一つでも、生み出されたものがあったか? ないだろう。ないはずだ。ただ、殺すことが目的なのだから、何かを得る必要がない」
得るために殺す。と、ただ、殺す。
一方は殺害が目的をに到達するための手段であり、もう一方は目的そのもの。
戦争が起きるのは仕方のないこと。そうビルムベルは口にする。何故ならば、人が幸福になるには他から奪うしかないからだ。
例えば、資源——手元にあるものが無限であれば良い。だが、無限の資源などどこにもない。人の数だけ資源は減り、いつか必ず底を尽く。ならば、どうするか——簡単だ。他国から持ってくる。それしかない。
「戦争が起きれば、必ず敗者は生まれる。しかし。大多数を幸福に導くためならば犠牲になって貰うしかあるまい」
「——幸福に導くだと? ふざけるなよ。お前達が来ない方が私達は幸せだったんだっ」
淡々と言葉を告げるビルムベルにミーシャが噛み付いた。
誰も頼んではいない。誰も望んではいなかった。攻められたから血が流れた。滅ぼされたから涙が流れた。それなのに、攻めたのは王国の土地の人々すら幸福に導くためだと口にしたのだ。
犠牲になった者が吠える。ふざけるなと。お前達が何もしなければ平和だったのだと全ての元凶を強く睨み付ける。
「…………」
「静かに聞いてりゃ、べらべら喋りやがって……ク〇野郎が!! もういい、もう殺してやる。これ以上お前と喋っていると耳が馬鹿になりそうだ」
「子供だな。そういう所が自己を満たすための狂気の行動だ。お前はこの部屋に入って来た時に迷わず余を殺せばよかった。しかし、しなかった。恐怖に怯える余を見たかったか? 馬鹿馬鹿しい。部下を騙し、命を捨てる特攻を行うだけでも理解しがたいというのに。余が何度刺客に夜を狙われていると思っている。それに比べれば、貴様など耳元で騒ぐ虫以下よ」
「言うじゃないかご老体。筋肉と一緒に頭も鈍ったのか。今の状況で何ができる。部屋は私が張った結界で覆われてる。この状況で部下が来るとでも思っているのか。どう考えても私のナイフの方が速くお前の胸を刺せるぞ」
子供と老人。見る人が見れば、どちらも怪我をしないか不安になる構図だ。しかし、ミーシャは魔術を極めて人並み以上の戦闘能力を発揮することができる。一方、ビルムベルに戦闘能力はない。彼は従える者であって戦う者ではないのだ。魔術も剣術も知識としてはあるもののそれを扱うことはない。
二人の間に壁はない。部屋の内部に張り巡らされた結界によって外の騎士達も中の状態には気付かない。だから、殺せるはずなのだ。
「刺客はお前を殺すことができなかった。だけど、私は違う。お前を守る者は何処にもいない」
「そう思うのならば、早く刺せばよかろう」
戦えないはずなのに、守る壁はないのにビルムベルの表情は崩れない。今の状況が理解できていない程愚かであれば納得は行くが、残念ながらそういう人物ではないと短いやり取りでも分かる。
「どうした? さっさとやるがいい。小娘」
「…………」
何かがある。条件を満たすことで発動する魔術でも仕掛けているのだろうかと辺りを探るがそんな様子はない。
ビルムベルの一向に崩れない表情にほんの少しだけ不安が過った。
「(————いや、違う。そうじゃない)」
頭に過った不安を振り払う。
そう、自分は暗殺をしに来たのだ。この男を苦しめに来たのだ。ただ、そのために生きてきたのだ。この後のことなど考えていても仕方がない。どうせ、この街ごと無くすことは確定しているのだ。
「————殺してやる」
ビルムベルが持っていたグラスを叩き落し、小さな手で握りこぶしを作ると頬に叩き込む。殴ることに慣れておらず、指を痛めるが関係なしに振り切った。
そのまま馬乗りになり、腕を足で抑え、相手の目を見る。ミーシャとは違い、何の感情も映ってはいない。
「お前が全部奪ったんだ。だから、報いを受けさせる。最後に楽しませて貰う。その余裕面も死ぬ間際には崩れるだろうからな」
顔は狙わない。狙うのは心臓——。
柄を両手で握り締め、狙いを定める。そして、ナイフは心臓目掛けて振り下ろされた。