序 今昔物語縁起
延久年間(一〇六九~一〇七四)の、ある夏のことだった。
山城国・宇治の一角。
完成して間もない平等院鳳凰堂の、朱い漆塗りを目の前に臨むこの地では、貴人を乗せた牛車や、朝廷の出仕者の往来が絶えない。
その行き交う人々の中に、ある中年男性の姿が見える。
狩衣と烏帽子に身を包んだ、いかにも貴族然とした男だ。
彼の名は橘俊綱。従五位上の官位を持つ、歌好きの貴族である。
彼は由緒正しき「橘」の氏名を冠しているが、実のところ彼は養子であり、全く別の家の生まれだ。
「身分の低い家の者が高貴な家に迎えられて、出世を重ねて成功する」というのは、物語なんかにありがちな話だが。
彼は、そうではない。むしろ、それとは真逆だ。
何を隠そう、俊綱の実父は、あの藤原道長の息子にして、五十年間摂政・関白を務めあげ、この宇治に平等院鳳凰堂を建立した人間。
藤原頼通その人である。
俊綱の母親は祇子と言って、藤原氏か源氏の血を引いていたとされている。頼通と、その弟・教通の後に摂政・関白を継ぐ、師実の母でもある。
俊綱は、どういう理由があったかは分からないが、生まれてすぐに橘俊遠という受領階級の養子に出されてしまった。
そして、そのまま橘姓の人として、地方を転々としながら国司を務め、なんとか「大国」の管理をも任される官位まで昇りつめたのである。
そんな彼は現在、播磨での任を終えて、久しぶりの帰京にありついた所であった。
京にいる時は、普段なら伏見の自邸でゆっくりしたり、知り合いたちと歌合など催したりしているが、今日は不思議とそのような気分ではない。むしろ、こうして外に出て散策などしているほうが、国司の仕事による疲れを癒やせる気がした。
そうして、目的地としてなんとなく思いついたのが、実父頼通にゆかりのある、この宇治の地だったのである。
「しかし、今日はやけに暑いな……」
懐から手ぬぐいを取り出して、額に噴き出る汗を拭く。早く牛車に戻りたい気持ちと、もうしばらく宇治の風景を楽しみたい気持ちが葛藤していた。
とりあえず日陰に入って涼もうと、街並みを見渡していると、ちょうど一軒の茶店が目に入ってきた。
「『大納言茶屋』……?」
俊綱が立てかけられた看板を読む。
よくも大納言などという高貴な官職名を、偉そうに冠せるものだ。どこか胡散臭くて、あまり入ろうという気はしない。
しかし、彼の足はそこに向かっていた。
夏の暑さと天秤にかけた結果、その茶店で涼むことに決めたのである。
「お邪魔しまーす……」
開け放たれた戸をくぐって中に入る。
茶店といっても、平安時代で言うところのそれは、休憩所程度の空間でしかない。休みたい者が道すがら自由に訪れて、主が茶とくつろぎの場を提供する、ただそれだけの場所だ。
この「大納言茶屋」もまた、広さ六畳ほどの空間に、筵が二つ並べられているだけ。
しかも、その片方は、すでに店の主人らしき男が占拠していた。
「お、いらっしゃい」
主人がそう言って俊綱を迎えた。
涅槃像のようなポーズで。
この礼儀のレの字も知らなさそうな主人は、恰幅がよく、良質な絹の着物を身にまとい、髷を立派に結い上げている。
その上、主人の左右には従者らしき人が二人、芭蕉の葉で出来たうちわをあおいで、主人に涼風を送っていた。
いかにもな裕福さだ。それこそ、この男が大納言であってもおかしくないほどに。
そして、こちらがいささか不愉快になってしまうほどに。
俊綱は、瞬間的にこの茶店に入ったことを後悔した。
「お邪魔しましたー……」
踵を返し、そそくさと店を出ようとすると、
「お前、俊綱か?」
主人が、客人の名を口にする。
俊綱ははっとして振り返り、主人の顔を見やった。
そして、
「もしかして、お義父上でいらっしゃいますか?」
恭しい口調。懐かしさと畏れの混じったような声色。
「おうおう! 久しぶりだな、俊綱!」
「お義父上こそお変わりなく! まさかこのような所で再会するとは……!」
途端に、親しげに久闊を叙する二人。「義父上」は起き上がって嬉しそうに俊綱と言葉を交わす。
(なるほど、だから『大納言茶屋』だったのか……)
俊綱は、あの辟易さえ覚える店名に対して合点がいったらしい。
主人の名は源隆国。
俊綱が呼んだとおり、彼の義父であり。
現在「大納言」の官職に就いている、官位正二位の大貴族だ。
隆国は源氏の一派・醍醐源氏の出身で、かつ第六十代天皇・醍醐天皇のひ孫である。
源氏と聞くと、武士の家系を想像しがちだが、醍醐源氏は専ら貴族、それも公卿格をわんさか輩出するような家柄だ。多くは官職名の頭に「権」がつき、官位よりも低い職を頂いているが、かつては左大臣、つまり太政官で二番目に高い地位にまで昇りつめた者もいた。
隆国も例には漏れず、頼通の側仕えとして寵愛を受け、順調に出世を遂げた。そして十三人もの子供を設け、ある者は公卿になったり、またある者は右大臣の妻となったりと、親子揃ってサクセスストーリーを送っている。
俊綱は曲がりなりにも主君の子、昔から隆国と面識があった。そして、その娘を嫁に頂いてからは、三人目の父親としてなおさら親しく思っていた。
しかし、国司として地方に赴くことが多い俊綱は、やはり隆国と会える機会は少なかった。
よもやそんな中で、たまたま散策で訪れた宇治で、彼の姿を目にしようとは思わなかっただろう。
「ところで、義父上はどうして茶店なんてやっているんですか?」
ひとしきり挨拶を終えて、俊綱は尋ねた。
「どうしてって、そりゃ暑いからだよ」
「理由になっていませんが」
素早いツッコミを受けて、隆国は面倒そうに答える。
「俺はこの体格だろ? 夏の宮中は人いきれが辛くって仕方がねえんだ。大納言になってからはしょっちゅう駆り出されるから、余計に疲れちまう。
だから、五月から八月までお暇を頂いて、この別荘兼茶店でゆっくり涼んでる、ってわけよ」
隆国はまるで涼んでいる様子を示すように(多分普通に涼みたいだけだろうが)、再び筵に寝転がってうちわの風に当たった。
俊綱は納得した。
そしてふいに、茶店ならそろそろ茶の一杯でも出して欲しい、と思った。
「あの、それでお茶はいつ――」
「あ、そうだ。俊綱、ちょっといいか?」
俊綱の言葉を遮って、隆国が切り出す。
「……何ですか」
不満の色を滲ませつつ、俊綱が返すと、
「ちょうどいいから、物語のひとつでも話してくれ」
「なんで客のほうが主人をもてなさなきゃいけないんですか!?」
俊綱は大声を出して身を乗り出した。茶店ってどんな所か分かってんのか、と言いたかった。縁を切られたらまずいので言わなかった。
「まあまあそんなかっかすんなって。ちゃんと理由もあんだからさ」
俊綱を一応宥めてから、彼は「理由」を語り出す。
「実は今、夏の余暇を利用して『説話集』の編集作業に取り組んでんだ」
「説話集、ですか? それまたどうして……」
俊綱がまた尋ねると、
「近頃は京でもっぱら『源氏物語』が流行っている。その類の文学ってのは、どれも宮仕えの女房やら藤原家に嫁いだ女やら、そういう高貴な人間が書いてるものばっかだ。
別に『作り物語』を否定するわけじゃねえが、新しい文学に世間がうつつを抜かすと、民間に古くから伝わってきた物語たちが、人知れず消えてしまうかもしれねえ。
それを阻止するために、俺は避暑がてら茶店を営んで、来客に茶をもてなす代わりに、色んな話を聞き出して、それを紙に記してまとめてる、ってわけだ」
隆国は真剣な眼差しで、そう語った。
俊綱は心の中で驚嘆する。
やはり義父上は偉大な方だ。その地位に拘泥して下の者を見下すことなく、それどころか庶民の文化の保存さえ試みておられる。
途端に義父に対する尊敬の念が、ふつふつと湧き上がってきた。
まあ、あとは客が来てすぐ茶を出してくれれば、文句はないんだけどなあ。
俊綱はそうとも思った。
「まあ、とりあえずなんか話せ」
相変わらずおざなりな態度で俊綱に言う。
俊綱はため息をつくと、「わかりました」と了承して、落ち着いた拍子で語り始めた。
「あれは、私が丹波守をしていた時のことでした――」
「いや、そういう自伝的なのはいいから」
ばっさりだった。
「……面白い話ですよ?」
「どうせ自分がいいことしたり、怪奇現象が起こったりする感じだろ? まあ、違ってもあんま聞きたくねえが」
「……人に話せって言っておいて、その反応はあんまりなのでは……?」
流石の俊綱も不服を漏らさざるを得ない。
「はぁ……、わかりました。自伝じゃない話しますよ……」
仕方なく話を仕切り直す。
「ある日、一人の男が砂浜を歩いていると――」
「子供にいじめられてる亀がいて、そいつを助けたらお礼に海の中に連れていかれたりするんだろ?」
「……そうです」
どうやら、隆国は既に聞き及んでいるらしかった。思わず俊綱は俯いてしまう。
「そんなありきたりなやつじゃねえでさ、もっと突飛で心躍らせるような話ねえか? 例えば、空から突然女の子が降ってきたり――」
「この世界に天空の城とかありませんから」
改めて言うが今は平安時代である。そしてあのアニメ映画の巨匠が日本に生を受けるのは、約九百年後である。
「さっきからいちいち注文多いですけど、大体どんな話を集めてるのか、全く説明されていないんですが」
俊綱もいよいよ苛立ちが表に出てきた。
「お? 聞きたいのか? 俺のとっておき説話千編」
「いや、そんな沢山は……」
ふと、隆国は上機嫌になって、いかにも自分の集めた話を語りたそうにしている。気がつくと、困惑する俊綱をよそに、茶店の隅に置かれた小さな棚を、鼻歌交じりに探りだした。
「せっつわっしゅう~、せっつせっつせっつわっしゅう~……」
「そのへんてこりんな歌やめてください」
そろそろ俊綱のツッコミにも遠慮がない。
「お、あったぞ。これが例の説話集だ。全部で十五帖ある」
隆国は俊綱の前に、折り目がついた十五枚の草紙を広げて見せる。
紙面には、漢字とカタカナの羅列が、全面に所狭しと綴られていた。藤原氏を賞賛するような話、鬼が出てくる話、古代中国の話、釈迦入滅の話……。よくよく見てみれば、どれもが簡潔明瞭な言葉とストーリーで構成されていて、それがかえって奥深さを与え、読む者を物語の内に引き込もうとしている。
「すごい。これが、庶民の伝える話なのか……」
物語自体が情趣に溢れているのか。はたまた、隆国の文才が物語の魅力を引き出したのか。
俊綱は気がつけばその内の一帖に目を通していた。
「……おーい、俊綱ー」
「……はっ、も、申し訳ありません。せっかく義父上が語ってくださるのに、その前に読んでしまっては楽しみが薄れますね」
俊綱は少し名残惜しそうに紙面から目を離すと、語り部の方を向く。隆国の従者がその様子を見て、くすりと微笑んだ。
「さて、まずは天竺の話でもすっかな。
今となっては昔のこと――」
隆国はそんな語り出しを用いて、説話の一つを聞かせ始める。
隆国が編纂した説話集は、彼の茶店の場所と官職から、『宇治大納言物語』と呼ばれ。
後には、その特徴的な口上から、『今昔物語』の名で世に広まったそうな。
今昔物語には、序文が存在しません。よってこの回は原文にないオリジナルの部分となります……が、完全に私の創作かと言うとそうではなく、ちゃんと元ネタが存在します。それが、『宇治拾遺物語』の序文です。
『宇治拾遺物語』は鎌倉時代に成立した説話集のひとつで、『今昔物語』から漏れてしまった話を集めたものです。その序文には、『今昔物語』の作者と推定される源隆国が、説話集を編纂する様子が記されています。この「ラノベ古文 今昔物語」の序文は、その記述を参考にしたものです。
なお、橘俊綱は元の序文にはその名は全く登場しません。私が勝手に登場させました、ツッコミ役として。許してください何でもしますから。