雪と大きな木
大きな木が一本、丘の上に立っていました。
岩のように大きな幹と、迷路のような枝、それから何百人も眠れる毛布のような葉を持った、大きな木でした。
その木の立つ所からは、とても遠いところまで見渡すことができました。
大きな木は長い間、じっとそこから動かずに、生き物たちの営みを見守っていました。
鳥もけものも、虫も、花も草も、そして、人々も、みなそれぞれ暮らしていました。
ある日、大きな災いが大地を襲いました。
家々は焼け、作物は流され、人々は地面に折り重なりました。
草花は枯れ、生き物たちはすべて、苦しんで死んでいきました。
大きな木は、丘の上からそれを見ていることしかできませんでした。
「もう耐えられない。もう見たくない」
大きな木がそう叫んだ時です。
空から、白い雪が降ってきました。
雪は、冬になるとやってくる大きな木の友達でした。あたたかいこのあたりでは、会えるのは数年に一度、それも少しの間でした。
雪は決して歓迎されないお客でした。なぜなら、雪が降るほど寒ければ、生き物が生きるのは苦しくなるからです。冬は生き物たちにとって、苦難に耐える季節でした。それでも大きな木は雪が好きでした。雪が降ると世界は白銀に様変わりします。生き物たちが誰ひとりいない白い世界を、雪は一夜で作り上げるのです。それは静かで、おごそかな世界でした。
だから、大きな木は、冬になると雪に会えるのを楽しみにしていました。
「悲しまないで」
雪は大きな木に言いました。
雪は一昼夜、激しく降り続きました。
そして、あたりは白く静かに染め上げられました。
「私がこの白い体で、すべて隠してあげる。もう大丈夫よ」
雪は、不思議なことに大きな木にだけは積もることがありません。
どこまでも白い世界です。
白く、美しい、灰色の世界です。
「雪さん、雪さん、ありがとう」
「ええ、ずっとこうしていてあげる」
「眠ってもいい?」
「ええ、お眠りなさい、起きても私がそばにいるわ」
雪はやさしく降り続けました。
それからずっと、春は来ないまま、冬が続きました。
雪は、あとからあとから降り続き、大きな木をのぞいた世界を、白く染め続けます。大きな木は、雪に守られて平穏でした。
辛いことがあったことも忘れてしまうくらい、静かで、何も無い時間が雪とともに降り続きました。
何年、何十年とそれが続いた頃でしょう。
気まぐれな南風が、小さな綿毛を大きな木のもとに運んできました。
半分眠っていた大きな木は、綿毛にくすぐられてとてもびっくりしました。
「なんてことだ、この綿毛には、種がついている」
綿毛にぶら下がった種はぶるぶる凍えていました。雪が降り続く冬の寒さでは、種は死んでしまうのです。
「あたためてやらなければ」
そこで、大きな木は、はっと思い出しました。
「あたたかくなれば、雪が消えてしまう。雪が隠してくれていた、いまわしいものが、全部、出てきてしまう!」
大きな木の心を、長く遠ざかっていた苦しみが襲います。
訪れた災いをただ見ているだけだった大きな木。
かつて、鳥も、獣も、大きな木の木陰で休みました。虫は根元やうろで子供を増やしました。丘は緑に満ちあふれ、人々は大きな木を愛していました。
そして、大きな木も、花を、草を、鳥を、獣を、人々を、愛していました。
大きな木は、災いを免れたのではありませんでした。
大きな木の心は、愛するものを守ることはおろか、弔うことすらできないことに、深く傷ついていたのです。
大きな木は、何もできずに、愛しているものを奪われるという、大きな災いをその身に受けたのでした。
ここに降り続いた雪は、大きな木の心の傷ごと、すべてを雪の世界の向こうにおいやってくれていました。
このまま冬が続けば、大きな木はもう苦しまずに済みます。
けれども、そうすれば、この小さな種は死んでしまうのです。
そして、反対に、小さな種を助けることのできる春になれば、雪は溶けて消え、大きな木は愛するものを失った痛みをまた味わわなければなりません。
「雪さん、雪さん、僕の大切な友達。あなたは私を助けてくれた。あなたと別れることは、僕にはできない」
雪は静かに言いました。
「あなたのもとに、この小さな種がやってきたのは、あなたの心が、それを待っていたからなの。心の傷を癒やすのには、長い長い時間がいるわ。私はただ、その間あなたの心の番人をしていただけ。
ためらわないで、冬を終わりにさせましょう」
雪はまるでそれが最初から決まっていたことのように言うのです。
「雪さん、それでは僕達は、会えなくなってしまうよ」
「それは永遠の別れではないわ。もう一度、出会うことを、愛することを、失うことをおそれないで」
あんなにも冷たく輝いていた白い世界が、今は虹色を帯びています。
「雪は溶けてしまうけれど、私は形を変えて、いつでもあなたのそばにいるわ。川を流れる水になって、空に浮かぶ雲になって、例え見えなくなっても、いつもあなたのそばにいます」
大きな木は、涙をぼろぼろとこぼしました。
そのあたたかい涙が流れたところから、どんどん雪が溶けていきます。
「雪さん! 雪さん!」
「あなたの心が深く傷つき悲しみに沈んでいたあいだ、それは、とても冷たく長い時間でした。私だけが、あなたのそばにいられたことが、私の誇りでした。私のたったひとりの友達、あなた」
空から雪がひとひら舞い落ちてきました。
それはこの冬、さいごの雪のひとひらでした。
「おしまいに、あなたに別れを告げる喜びをください。春とともに」
雪の言葉のとおり、冬が終わり、春が来ました。
綿毛にぶら下がっていた小さな種は、大きな木のとなりに根を下ろしました。
小さな種は小さな芽になり、空に向かってぐんぐん大きくなりました。
死に絶えた大地に、生命が戻ってきます。
命は逞しく、何度も営みを取り戻します。新しい家を建て、種を蒔き、実りを分かち合い、人々は笑います。
春はやがて夏になり、秋になり、そして冬になり、くりかえし、くりかえし……。
大きな木の隣には、小さな木がぴょこんと立っています。
「ねえ、ねえ、雪ってなあに?」
小さな木が大きな木に聞きました。
このところ、あたたかい冬が続いたので、生き物はみな元気です。そして、小さな木は雪を見たことがありません。
かよわい命にとって、雪はおそろしい敵でもあります。雪が降らなくて良かった、そういう人の話を聞いたのです。
「雪は、綿毛に似てても、冷たくておそろしいって、ほんと? 集まると、かたくって、おもくって、みんな押し潰されてしまうって、ほんと?」
「それは少し本当で、少し本当じゃない。あたりまえだし、あたりまえじゃない。みんなと違って、みんなとおなじ」
大きな木は小さな木に答えました。
命は大きくとも小さくとも、そうは変わらないように、大きな木には思われます。
どんな命も、ひとつ、ふたつ増えるたびに、大きな木はふたたび愛する心を取り戻していくのです。
けれど、大きな木は知っています。
雪こそが、大きな木の何かを愛する心を、守り続けてくれたことを。
雪こそが、大きな木を、静かに見守り、愛し続けてくれたことを。
あの冷たく美しい雪が、大きな木に与えたものの、はかりしれない大きさを。
「今年の冬は、雪が降るかも知れないね。そうしたら、上手にあいさつをするんだよ」
「何て言ったらいいの?」
大きな木は、優しい声で、ゆっくりと、小さな木に言いました。
「こう言うんだ、いいかい……」
雪よ、雪、久しぶりだね、会えて嬉しいよ。
雪よ、雪、僕の大切な友達。
 




